第74話:最後の目撃者と「狂気の騎士道」――聖騎士の微笑
深淵に潜む残滓――騎士の炯眼
(黒鉄期1692年:深夜、ラブラリア領・役場執務室)
役場の廊下には、もはや生きる者の鼓動は絶えていた。石造りの壁が吸い込んだのは、凄惨な断末魔と、未来の兵器が撒き散らした火薬と鉄の匂い。血の海と化した執務室の出口へと、獅子が悠然と足を向けたその時だった。
未来の苛烈な魔導強化を施された彼の網膜が、不自然な空気の揺らぎを捉えた。転倒した重厚な黒檀の机。その脚元、暗い影の中に潜む「不純な生存のノイズ」。
そこには、一人の若い女性職員がいた。彼女は自身の存在をこの世界から消し去ろうとするかのように、身体を限界まで丸め、震えを押し殺していた。
衣服は同僚たちの生温かい返り血を吸って重く張り付き、その顔面は恐怖という名の猛毒に冒されたかのように、土気色を通り越して白磁のような絶望に染まっている。大きく見開かれた瞳は、もはや涙を流す機能さえ喪失し、目の前に立つ「金色の死神」の姿を、逃れられぬ運命として網膜に焼き付けていた。
獅子は一瞬だけ歩みを止め、吸い寄せられるようにその女性へと近づいた。
完璧な蹂躙、寸分の狂いもない殲滅。その論理の網の目をすり抜け、まだこの地獄の中で「意識」を保ち、生の灯火を細く繋いでいる個体が存在したことへの、それは純粋な好奇心に近い驚きであった。
獅子の顔には、かつて未来の王国で万民を跪かせ、安堵させたであろう、気高く、そして落ち着いた「聖騎士の微笑」が浮かんでいた。しかし、その眼窩の奥で揺らめく光は、太陽の慈愛ではなく、絶対零度の虚無に支配された冷たい燐光であった。
「……怖い思いをさせたかな?済まないね、我々もいささか急いでいたもので」
獅子の声は、春の陽だまりのように穏やかで、深い慈しみに満ちていた。まるで、深夜まで公務に励む忠実な部下を労う良き上司。あるいは、迷える子羊に手を差し伸べる聖職者のような、あまりにも不自然な調和。
だが、その歪な「優しさ」こそが、女性の心臓を直接握りつぶした。彼女の視界の端では、引き裂かれた死体の傍らで血を舐め、悦楽に咽んでいた鷲が、飽き足らぬ獲物を探すようにこちらを覗いている。先ほどまで言葉を交わし、この街の明日を語っていた局長が、一瞬で「物」に成り果てた凄惨な真実が、彼女の正気を内側から食い破っていた。
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論理の宣告――鏡面に映る絶望
女性は、全身をガチガチと激しく震わせながら、肺の底に張り付いた僅かな空気を、血の匂いと共に絞り出した。
「い、いえっ……大丈、夫……です……。な、何でも……ありませんから。私は、何も……」
それは、生命維持本能が最後に振り絞った「生存のための拒絶」だった。否定しなければ、この優しい怪物に喰われる。だが、彼女の震える指先は、それが叶わぬ祈りであることを既に悟っていた。獅子の瞳は、彼女を「守るべき市民」としてではなく、排除すべき「エラー・データ」として、極めて冷徹に計量していたからだ。
「そうか。それはよかった。君のような勤勉な市民を、無為に傷つけるのは私の騎士道に反する」
獅子は心底安堵したかのように、深く、優雅に頷いた。その所作一つひとつが、血塗られた戦場にあって異様なほど美しく、神聖ですらある。
だが、次の瞬間。彼の瞳に宿る冷徹な論理が、鎌の如き鋭さで彼女の細い首筋に突きつけられた。
「……でも。君は、私の顔を見たね?それも、この上なく鮮明に」
その問いかけには、もはや確認の余地など欠片も存在しなかった。
それは冷徹な数学的帰結。
「君は未来の異邦人である私の存在を確定させてしまった。ゆえに、因果の整合性を保ち、我々の足跡を歴史の闇に葬り去るために、君の時間軸はここで物理的に断絶されねばならない」
それは、神の審判よりもなお無機質で、救いのない死の宣告であった。
女性は、堰を切ったようにあふれ出した涙と共に、狂ったように首を横に振った。
「なに、なにも……見ていません!誰にも言いません、一生、口を噤みます!お願い、どうか、どうか助けて……!」
必死に命乞いの言葉を紡ごうとするが、極限の恐怖は彼女の喉を物理的に締め上げ、意味をなさない湿った喘ぎへと変えていく。彼女が縋ったのは、目の前の「騎士」が持つはずの慈悲だった。だが、獅子が守るべき「正義」の中に、この時代の命は、初めから数えられていなかった。
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騎士の安寧――消耗品としての生命
「そうか。……でも、私が安心したいから、死んでください」
獅子は、淀みない流麗な動作で長剣を抜き放った。
その抜刀は、洗練された武の極致であった。無駄な力みは一切なく、まるで静謐な聖堂で行われる奉納の儀式のように、荘厳で、神聖ですらあった。
「安心したいから」――。
その言葉には、この時代の人間に対する怒りも、憎しみも、そして同情すらも含まれていない。
彼が背負う「未来の12万人の命」という巨大な大義の天秤において、目の前の一人の女性の生命は、彼の精神的な平穏を維持し、任務の完遂を確実にするための「使い捨ての道具」へと、完全に成り下がっていた。
これこそが、時を遡り、倫理という重りを切り捨てた勇者の成れの果て――「狂気の騎士道」の真髄。自分たちが救おうとする「人類」の中に、今目の前で息をしている彼女は含まれていないのだ。
女性は、見開いた瞳に吸い込まれるような獅子の切っ先を映したまま、声を失った。
彼女の視界に最後に残ったのは、気高く構える獅子の背後に広がる、仲間たちの血と肉で塗りつぶされた地獄絵図。そして、その地獄の中心にあって、一点の曇りもなく微笑む「聖者」の姿。
一瞬の閃光。
銀色の軌跡が空気を裂き、抵抗する術を持たぬ命は、机の影へと音もなく崩れ落ちた。
獅子は、剣に付着した血を拭うことさえせず、それが朝の挨拶と同じ程度の些事であったかのように、悠然と鞘に収めた。金属音が静まり返った執務室に冷たく響く。
彼の背後では、蜥蜴と鷲が鼻歌を歌いながら、今しがた行われた処刑を「当然の幕引き」として、満足げに眺めている。
熊はただ無言で、血の臭いが逆流する深夜の街へと通じる、重い扉を内側から開け放った。
役場の外では、冷たい夜風が勇者たちの髪を乱暴に揺らしている。
彼らが踏み出したその血塗られた一歩は、滅びゆく未来を救うための聖なる歩みなのか。あるいは、この平和な世界を、自分たちのいた地獄へと引きずり込むための予兆なのか。
答える者は、もうこの建物の中には一人もいなかった。
ただ、主を失ったランプの灯が、床に広がる赤黒い海を、いつまでも静かに照らし続けていた。




