第66話:ラブラリアの夜と時代の空気――硝煙なき「揺り籠」
無防備なる境界――平和という名の脆弱
(黒鉄期1692年:ラブラス領都ラブラリア城門前)
天を突くような鋭い尖塔が月光を切り裂き、深い夜の帳に包まれた領都ラブラリアの城門は、勇者たちの予想を裏切り、まるで深夜に帰還する家族を待つかのように無防備にその口を開けていた。
一行は、誰に咎められることも、魔導感知器の不快な走査音に晒されることもなく、静かにその境界をくぐり抜けた。彼らが知る未来――魔王の軍勢が大陸を蹂躙し、隣人さえもが「敵の協力者」に見えるほど相互不信が蔓延した戦火の時代であれば、深夜の城門は重厚な鋼鉄の閂で固く閉じられ、返答一つで命を落としかねない冷酷な検問を受けるのが、生き延びるための「絶対的な常識」であった。
しかし、目の前の現実はあまりに拍子抜けするほどに、そして絶望的なまでに「無垢」であった。
夜半であるにもかかわらず、領都のメインストリートには魔石を用いた贅沢な街灯が立ち並び、琥珀色の柔らかな光が磨き抜かれた石畳を温かく照らし出している。
どこかの酒場からは、弦楽器のつま弾く繊細な旋律と、吟遊詩人が謳う朗らかな英雄譚の一節が夜風に乗って漏れ聞こえてくる。通りを歩く人々――酔い潰れて肩を組み合い、他愛もない冗談に興じる者、夜風を楽しみながら穏やかに語らう恋人たち。その誰もが、明日も今日と同じように太陽が昇り、穏やかな日常が続くことを一点の疑いもなく信じ切っている。その平穏な佇まいは、未来から来た者たちの目には、脆く崩れやすい硝子の細工物のように映った。
「不用心だな。それとも、それだけ平和ボケしているのか」
勇者・狐が、袖口に隠した暗器に指先を這わせたまま、忌々しげに周囲を睥睨する。彼の諜報員としての研ぎ澄まされた勘は、このあまりにも無防備な「平和」を、外敵を想定せぬ脆弱な欠陥品として、あるいは「隙」としてしか認識できなかった。
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二つのラブラリア――未来の地獄と現在の楽園
勇者・虎は立ち止まり、月光の下で静かに、しかし威厳を持って佇むラブラリア城の白亜の塔を見上げた。彼の瞳には、現実の光景とは異なる「もう一つの街」が重なっていた。
「……“あの時”のラブラリアは、常に重苦しい灰色の雲に覆われ、街全体が逃げ場のない殺気に支配されていた。城壁には乾いた血糊が幾層にも重なり、民は希望の代わりに絶望を食らって生きていた。あの街には、光など一筋もなかった」
虎の声には、彼が未来の戦場でその身に刻んできた、逃れようのない記憶の重みが滲んでいた。
彼の言う「あの時」とは、魔王ラビスがこの領地を人族への反攻拠点として蜂起し、大陸全土を巻き込む激戦の『核』となった、黒鉄期1745年の凄惨な地獄絵図である。
「だが、本来はこのように明るい、良い街だったのだな。皮肉なものだ」
彼らが時を遡ったのは、その悲劇の幕開けから六十年以上も前。
魔王という言葉に恐怖の概念すら宿っておらず、魔族系住民に対する差別や排斥運動も、まだ王室や教会の深部で燻る政治的な駆け引きの道具に過ぎなかった時代。大衆の心には、まだ異種族への憎悪を燃料とした狂気の火は灯っていない。今、目の前にあるのは、その地獄が産声を上げる前の、あまりにも純潔な静寂であった。
「平和な時代だ。故に、潜入も情報収集も容易かもしれん。だが……我々の持ち込んだ未来の知識が、この無垢な平和を内側から食い破る猛毒となる」
勇者・獅子が、苦い沈黙を振り払うように呟いた。彼の高潔な正義感は、これから自分たちが行おうとしている「予防的暗殺」という非道が、この街の穏やかな歴史に穿たれる最初にして最大の見えない傷跡になることを理解し、自嘲していた。
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『異物』たちの展開――潜伏への冷徹なる布石
虎は感傷を強引に引き剥がし、仲間たちへ向けて、低く、しかし通る声で冷徹な指示を飛ばした。
「いつまでも突っ立っているわけにはいかん。まずは潜伏場所の確保だ。熊と蜥蜴、貴公らは城壁近くの放棄された倉庫か、あるいは街外れの目立たない安宿をあたれ。いいか、絶対に目立つな。過剰に周囲を警戒するのも逆効果だ。ただの、旅に疲れ果てた男を演じろ」
「了解だ。派手な立ち回りは性分だが、岩の影に隠れるような真似なら元木こりの本領さ」
熊が巨体を僅かに丸め、夜の闇に溶け込むような慎重な足取りで移動を開始した。その豪快な外見に反し、任務に対する忠実さと慎重さは、一行の中でも随一であった。
蜥蜴は狐への苛立ちを喉の奥で噛み殺しながら、愛用の短剣を鞘の中で鳴らし、熊の背後を追った。
鷲は優美な身のこなしで細剣の傾きを調整し、二人の影をサポートするように、音もなく闇へと消えた。
「……鷹は、私と狐、そして梟と共に来てくれ。周囲の索敵を継続しつつ、生母オレリアの正確な潜伏先を絞り込む」
虎は、活気と喧騒が残る街の中心部へと鋭い視線を向けた。
そこは、この領都で最も多種多様な噂が渦巻き、金と情報、そして時として毒が取引される場所。
「まずは、冒険者ギルドへ向かう。そこがこの街の『喉元』だ。そこを締めれば、答えは見えてくる」
未来を救うという名目の下、狂気に近い決意を胸に秘めた八人の死神は、平和の温かさに包まれたラブラリアの深部へと、音もなく侵食を開始した。
彼らの踏みしめる石畳の音は、やがて訪れる魔王誕生という悲劇への、無慈悲なカウントダウンであった。




