第60話:黎明の屠殺場――過去への着地と殺戮の開始
異物の発現:沈黙の草原
黒鉄期1692年、晩秋の黎明。
オース大陸南部、ラブラス領の境界線に位置する名もなき草原。夜気と朝靄が乳白色に混じり合う静寂の中に、その「異物」たちは音もなく発現した。
空間が乾いたガラスのようにひび割れ、不可逆であるはずの時の奔流が無理やり逆流させられる。因果の軋みが収束した中心点に、八人の影が折り重なるようにして現れた。
最初に向き直ったのは、虎。彼は内臓を掻き回されるような酷い時空酔いを理性で抑え込み、鋭い眼光で周囲の走査を開始した。
「……目覚めたか、軍師殿」
隣で低く、湿り気を帯びた声がした。蜥蜴が、既に短刀の柄に指をかけた状態で立っていた。その双眸は、まだ見ぬ獲物を探して爬虫類のように不気味に蠢いている。
「ここはどこだ。……いや、術式は成功したようだな」
「ああ、お望み通りの60年前だ。あの大戦の硝煙も、魔王が振りまく瘴気も微塵も感じられない……吐き気がするほど平和な場所だよ」
虎は立ち上がり、肺の奥まで冷たい空気を流し込んだ。未来の戦場を支配していた排斥と飢餓、絶望が澱んだ気配とは違う、原始的で牧歌的な生命の匂い。その瑞々しさが、かえって彼ら勇者たちの異質さを際立たせていた。
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鋼の規律:因果への進撃
次々と意識を取り戻す者たち。獅子は、うめき声を上げながら重い甲冑を鳴らして立ち上がった。時空転移の負荷は常人の肉体なら即座に崩壊するレベルであったが、未来の存亡を背負わされた彼らにとっては、不快な倦怠感に過ぎない。
「全員、無事か」
獅子の重厚な問いに、狐が毒づきながら応える。
「見りゃわかるだろ。……チッ、魔力がこの時代の希薄な大気に馴染まねぇ。最悪の目覚めだ」
獅子は、腰に帯びた聖剣の重みを確かめ、即座に脳内の戦略地図を照合した。
「感傷に浸る暇はない。この近くに開拓村があるはずだ。目標は通称『南の村』。魔王の母、レオリナが潜伏している場所だ。……行くぞ、急げ」
彼らは、まだ陽が昇りきらぬ草原を、一つの弾丸となって突き進んだ。晩秋の風が吹き抜けるが、彼らの纏う殺気は、周囲の季節さえも一気に冬へと変えんばかりに冷酷であった。
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血塗られた再会:開拓村の惨劇
行軍開始から二時間。陽光が大地を照らし始めた頃、のどかな煙突の煙を上げる三十一開拓村が見えてきた。平和そのものの風景。しかし、獅子の指示で先行した蜥蜴が村へ踏み込んだ瞬間、その静寂は永遠に破壊された。
「これは……ッ!」
後続の者たちが村の広場に辿り着いた時、鷹は絶句した。
そこには、今しがたまで平和な朝を過ごしていたはずの村人たちの遺体が、十数体、乱雑に転がっていた。老人も、若者も、女も。その中央で、蜥蜴が返り血を浴びた短剣を無造作に振り、血を払っていた。
「蜥蜴!貴様、何をしている!」
鷹が、背負った大弓を握り締め、裂けんばかりの声で吠えた。蜥蜴は、冷徹な瞳を鷹に向け、薄笑いを浮かべる。
「あぁ?うるせぇなー見りゃ分かるだろ。……人尋ねをしてたんだよ。だが、どいつもこいつも要領を得ねぇ。だから、少し『せっかん』してやっただけだぜ」
「なぜ殺す!彼らは無抵抗だ!」
「ハッ!親切に訪ねてやってるのに、知らねえの一点張りだ。俺にとっちゃ、魔王の居場所を知らねぇ奴なんて、ただの塵芥と同じなんだよ」
蜥蜴の言葉には、過去に生きる人間への敬意など欠片もなかった。彼にとって、未来の「正しい世界」を守るための任務において、この時代の人間の命は「数」にすら入らない。
「貴様ぁああ!!」
激情に駆られた鷹が詰め寄るが、蜥蜴は電光石火の早業で彼女の喉元に血濡れた短剣を突きつけた。
「文句あるのか?どいつもこいつも、レオリナなんて女は知らねぇようだ。……収穫なしだ。無駄だったな」
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獅子の葛藤:大義という名の怪物
鷹の倫理観は、あまりにも非情な現実によって蹂躙されていた。彼女が信じてきた「世界を救う勇者」という自像は、この凄惨な光景の前で脆くも崩れ去っていく。
虎が、二人の間に割って入った。
「やめろ、二人とも。内輪揉めをしている時間はない」
リーダーである獅子はこの惨状を凝視し、胸の奥で激しい濁流に飲み込まれていた。
彼の内にある高潔さは、無実の民を屠ることを最大の罪と断じる。しかし、今、彼らが遂行しているのは、数億の未来を救うための「魔王根絶」という聖戦だ。一村を犠牲にして世界を救えるなら、それは「正しい」選択なのか?
「……もういい、行くぞ」
獅子は、自らの魂が黒く染まっていく感覚を、冷徹な仮面の下に隠した。
追いすがる鷹が、消え入るような声で問う。
「いいのですか……?このまま、彼らの死を無駄にして……」
獅子は足を止めた。だが、振り返ることはなかった。
彼の瞳は、未来への責任という名の「呪い」によって、既に色を失っていた。
「我々に許された感情などない。優先すべきは“使命”だけだ。……行くぞ。魔王の種を、一秒でも早く断つために」
獅子の重い足取りは、もはや英雄のそれではなく、自らの魂を切り売りにしながら歩む、死神の行軍であった。
彼らは、世界を救うために、自分たちが討つべき「魔王」よりも遥かに非道な存在へと変質し始めていたのだ。




