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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第6部:『守護者の二十年 ― 「ルーパート」という名の仮面』

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第53話:母の葛藤と黄金の追走劇――揺れる心と狂騒の季節

オレリアの深淵――凍れる時と揺れる鏡像


娘レオリナが黄金の陽光をその身に浴びて輝く傍らで、母オレリアの心は、出口のない深い霧の迷宮を彷徨い続けていた。


彼女の視線の先には、常に一人の男がいる。村外れの原生林が吐き出す湿った影の中に住まう、寡黙な狩人ルーパートだ。


彼女は、彼を恐れていた。そして、それ以上に激しく憤っていた。


ルーパートという男の容姿は、かつて彼女が愛し、魂を分かち合った夫ルーベンカーとは似ても似つかない。白髪に覆われ短く刈り上げられた頭部、鼻梁から頬へとなだれ込む凄惨な斬り傷、そして感情の機微を完全に排した氷のような声。


ルーベンカーは、もっと快活で、その瞳には常に情熱の炎が灯っていた。彼女を見る目はいつだって春の陽だまりのように愛に溢れ、抱擁は冬の寒さを忘れさせるほどに温かかった。


だが、時折、心臓を冷たい指先で撫でられるような「既視感」が彼女を襲うのだ。


ふとした瞬間、ルーパートが遠くから自分たち親子を見守っている時の、あの眼差し。それは、この残酷な世界でたった二つの宝物を、壊れ物を扱うかのように慈しみ、命に代えても守り抜こうとする、柔らかく温かい――あまりにも見覚えのある視線であった。


(……あなたは、本当は誰なの?)


堪えきれず視線を返せば、男は即座に鉄の仮面を被り、冷淡な無関心を装って背を向ける。その背中は、何かを語ることを自分に禁じているかのようだ。話しかけようとしても、まるで透明な壁を築くように距離を置かれる。話したくないのか、あるいは、話してしまえば「ルーパート」という存在が霧散してしまうのを恐れているのか。


「彼は『別れよう』と言った……でも、『必ず、必ず生きて帰ってくる』とも言ったわ」


夫との最後の別れを、オレリアは一日たりとも忘れたことはない。中央の研究所や人智十字教会が放つ執拗な暗部との戦い。その地獄へと向かう背中を見送ってから、すでに八年の月日が流れた。彼女はその「誓い」を唯一の杖にして、辺境の荒野で耐え忍んできた。


だが、今、目の前の謎めいた男に夫の面影を重ねてしまう自分自身に、彼女は戦慄していた。もし彼が別人なら、この胸のざわめきは夫への不実であり、裏切りではないのか。もし彼が本人なのだとしたら、なぜこれほどまでに他人を装い、愛する者の心を渇かせ続けるのか。


葛藤に引き裂かれそうになったオレリアは、震える手で自らの心に鍵をかけた。


「……距離を置こう」


彼を見ない。彼の気配を探らない。それが自分とレオリナ、そしてどこかで戦い続けているはずの「本物の夫」への忠義を守る、唯一の道だと信じ込ませるために。


それは、寂しくて、あまりにも悲しい決断であった。


________________________________________


求婚者の嵐――辺境の狂騒曲


母のそんな静かな苦悩をよそに、十八歳となったレオリナの周囲は、物理的な騒がしさを日増しに強めていた。


「レオリナさんを、ぜひ我が家の嫡男の嫁に!」


事の発端は、近隣の開拓村で最大の勢力を持つ村長が、次期村長を約束された自慢の息子を伴って乗り込んできたことだった。


「郷の冒険者の娘には、相応の地位と安定が必要だ。どうだ、悪い話ではなかろう?」


堂々と胸を張る村長に対し、後見人のマルカスとオレリアは、思わず顔を見合わせた。


「もう、そんなことを言われる年頃になったのか……」


マルカスは感慨に浸る間もなく、即座にその提案を跳ね除けた。オレリアもまた、「本人の意志こそが私のすべてです」と毅然と告げる。


だが、当のレオリナはといえば、まるで他人事のように首を傾げるばかりであった。


「結婚?うーん、今はまだ無理かなぁ。やりたいことがいっぱいあるんだもん!」


しつこく食い下がる求婚者たちに対し、マルカスは追い払うための防壁として、わざと無理難題を突きつけた。


「郷の冒険者の娘に見合うだけの実績を見せろ!少なくとも、彼女を生涯守り通せると我々に証明できない軟弱な男に、この門をくぐる資格はない!」


それは「おととい来やがれ」という最大限の拒絶であった。しかし、その横で悪戯っぽく笑っていたレオリナが、火に油を注ぐような一言を付け加えてしまった。


「あはは、そうだね!じゃあ……私についてこれたら、真面目に考えてあげてもいいかも!」


彼女はそう言うなり、弾丸のように、あるいは風そのものになったかのように、原生林の奥へと駆け出した。その速度、その軽やかな身のこなし。日々の鍛錬を欠かさない成人男性はおろか、本職の若手狩人さえも瞬時に置き去りにする疾風の如き脚力。


「さすが『郷の冒険者』の血を引く娘だ」と誰もが驚嘆したが、これが辺境の若者たちの闘争心に火をつけてしまったのである。


________________________________________


黄金の追走劇――試される狼の牙


「レオリナさんについていけばいいんだな!?ならば望むところだ!」


その噂は、魔法の通信よりも速く辺境全域を駆け巡った。


「脚力こそ男の価値!」「彼女の背中を捕まえた者こそが、英雄の婿に相応しい!」


翌日から、三十一開拓村はかつてない活気に、というよりは異常な熱狂に包まれた。


辺境中の十六歳以上の独身男性たちが、自慢の脚力や体力自慢の武具を携えて一斉に押し寄せたのだ。近隣の村の力自慢、領都から「辺境の至宝」を奪いに来た若き騎士志願者、一攫千金の冒険者。


彼らはレオリナが姿を見せるたびに、我先にと彼女の後を追いかけ、森や丘を走り回る。それはもはや求婚というよりは、大規模な追走競技レースの様相を呈していた。


「あははは、みんな頑張ってー!ここだよー!」


レオリナ本人は、かつての鬼ごっこを楽しむ子供のように純粋な笑顔で、男たちを翻弄していた。しかし、村の秩序を守る側の大人たちにとっては、冗談では済まされない事態であった。


毎日、砂塵を上げて村に求婚者の群れが押し寄せ、それをマルカスが咆哮とともに追い返す日々が続く。


だが、この狂騒を、村の外れの影から冷徹な――しかし、どこか深い愛情と呆れが混じったような目で見つめる男がいた。


ルーパートだ。


彼は、自らを追う男たちの群れを、子供をあしらうかのように引き離すレオリナの脚力を見ていた。その足捌き、重心の移動、空気の読み方。それは八年前、彼が人知れず、遊びの延長として彼女に叩き込んだ「戦場での回避運動」そのものであった。


(……正しく育っている。だが、少しばかり目立ちすぎだ)


ルーパートの鋭敏な感覚は、熱狂する若者たちの群れの中に、明らかに周囲とは異なる「重心」を持つ者が紛れ込んでいるのを捉えていた。


求婚者の熱情を装いながら、その瞳には一滴の恋心もなく、ただ獲物を値踏みするような冷徹な光を宿す者。それは王都の暗部か、あるいは彼が最も警戒する人智十字教会の監視員か。


平和な狂騒の裏側で、ルーパートは腰に下げた、錆びを落とし鋭利に研ぎ澄まされた鉈剣の感触を確かめる。


娘が謳歌するこの輝かしい季節を、誰にも、何ものにも汚させはしない。


たとえそのために、再び自らが血塗られた「狼」として、この平和な村から永遠に追放されることになったとしても。



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