第33話:九人目の勇者と魔王(承)
黒鉄期1751年魔王城の密室
黒鉄期1751年。オース大陸の歴史に刻まれるはずだった「魔王城包囲戦」は、凄惨な幕切れと共に一瞬で終結した。
人族が全財産と全希望を賭して送り込んだ12名の精鋭――勇者たちは、魔王ラビスが放った絶技「千刃」の前に、抗う術もなく塵へと帰した。黄金の鎧も、聖なる加護も、復讐の誓いも、すべては空間ごと削り取られ、虚空へと消えたのである。
――しかし、物語はその絶望の頂点から、人知れず巻き戻り始める。
鳴り響く勝鬨も、敗軍の悲鳴も届かない魔王城の最深部。厳重な封印と幾重もの結界に守られた玉座のさらに奥に、魔王ラビスの私室は存在した。王の居室としてはあまりに質素で、静謐な空間。そこにはラビスと、彼の影として仕える側近ケーゲレスが、冷たい緊張感の中で対峙していた。
二人の間に置かれた黒曜石のテーブルの上には、一人の男の遺体が横たわっている。
先刻の戦場で、魔王自らの手によって「処刑」されたはずの男――九人目の勇者。
ケーゲレスは静かに、しかし地脈を揺らすほどの深い集中とともに呪文を紡ぎ始めた。
彼の声は低く、失われた神代の言語にも似て、部屋を満たす魔那を不規則に振動させる。ケーゲレスという男は、魔族の魔術適応力と、血族の血液操作能力を併せ持つ稀有な混血個体であった。それは、賢者エウレが理論上「最も警戒すべき変異種」と断じた能力の具現に他ならない。
彼は魔法という既存の事象を基点に、さらに高度な「魔術の理」を上書きするように練り上げていく。人族の魔術師が生涯をかけても到達し得ない、次元の異なる術式構築。ケーゲレスは足元に描かれた、星の運行を模した複雑な魔術陣に、己の血を触媒として流し込んだ。
これは、エウレの「時反し」すら凌駕する、個体特化型の「因果回帰」戦術であった。
遺体の上に、青白い燐光が灯り始めた。
光は呼吸するように明滅し、次第に強まりながら黒曜石のテーブル全体を包み込んでいく。そして、完全な静寂を破るように、生命の再動を示す微かな音が響いた。
「トクン……トクン……」
止まっていた歯車が、錆びついた音を立てて動き出す。
遺体の胸部、一度は完全に停止したはずの心臓から、確かな鼓動が伝わってくる。
「ドクン!ドクン!」
鼓動は加速度的に力強さを増し、部屋の空気を震わせた。
血管を、ケーゲレスの魔術によって再活性化された血液が猛烈な勢いで巡り始める。蒼白だった肌に急速に熱が戻り、死の色が霧散していく。
「……成功です、ラビス様」
ケーゲレスは額に滲んだ汗を拭うこともせず、静かに報告した。その蒼白な顔には、極限の演算を終えた者特有の、微かな達成感が浮かんでいた。
「さすがだ、ケーゲレス。お前の技に疑念を抱いたことはない」
ラビスは悠然と椅子に座ったまま、短く側近を労った。ケーゲレスは深く一礼し、役目を終えた影のように音もなく退室した。
密室に残されたのは、魔王と、蘇りつつある男の二人だけとなった。
「さて」
ラビスが視線をテーブルへ落とした瞬間、男の目蓋がピクリと震えた。
そして、パチリと両の目が開く。死の淵から引きずり戻された者の、覚醒の瞬間。
男はゆっくりと、自分の存在を確かめるように上体を起こした。頭を振ると、狼の血を引く象徴である銀灰色の髪が、さらりと肩から流れ落ちた。
「やぁ、ルー。目覚めの気分はどうだい?」
ラビスは、虐殺の主であることなど微塵も感じさせない、旧友に対するような親愛の情を込めた声で語りかけた。
「……最悪だ」
ルーと呼ばれた男――ルーベンカーは、全身を襲う再構築の鈍痛に眉を潜めながら応えた。
「お前……!俺ごとあの『千刃』に巻き込みやがって!どういうつもりだ、このクソ魔王!!」
ルーは、金色の瞳に憤怒の炎を宿し、親友であり主君である男を睨みつけた。その叫びは、死線を越えてきた獣の咆哮に近い。
「だが、こうして生き返った。結果として、問題はないだろう?」
ラビスは涼しい顔で、理不尽な問いを返す。
「大ありだ!もしケーゲレスがしくじってたら、俺は今頃あの連中と一緒に完全消滅してたんだぞ!お前こそ、一度死んでその無神経さを治してこい!」
「無理を言うな。俺は死なない。死ぬわけにはいかないからな」
淡々としたラビスの言葉に、ルーは力なく肩を落とし、がっくりと頭を垂れた。
「そうだな……そうだよな……お前は、そういう奴だった。死ねないんだよな、お前も」
ルーは深く、長く、肺の奥に溜まった死の残り香を吐き出すようにため息をついた。
その息には、死への恐怖、裏切られた怒り、そして何よりも、この残酷な運命を背負い続ける旧友への諦めと、再会の安堵が複雑に混ざり合っていた。
ラビスは、もはや玉座と化した椅子に深く座り直し、戯れの色を排して語り始めた。
「勇者団への潜入、および王国・教会内部の動向調査。……実に見事な任務遂行だった、ルーベンカー。お前が命がけで送り続けてくれた密書のおかげで、連中の『時反し』も、あの狡猾なエウレの企みも、すべては我が掌の上で踊っていたに過ぎない」
ルーは、蘇ったばかりの肺で深く息を吸い込む。
「……役に立ったなら、それでいい」
それは嫌味でも皮肉でもない、血を吐くような本音だった。
彼が「裏切り者の勇者」という泥を被り、死の恐怖に怯えながら五年間を過ごしたのは、ただ一つ。ラビスと、彼らが守ろうとした故郷と、愛する家族を、この狂った世界の理から守り抜くためだった。
「さて、再会を祝う時間はこれまでだ。ルー、お前にはこれから、最も重要で、最も困難な任務に就いてもらう」
ラビスの眼光が、冷徹な王のそれへと変わる。
「“ルーベンカー”」
本名を呼ばれた瞬間、ルーの脳裏に激しい閃光が走った。
なぜ自分が勇者の名を騙り、なぜ魔王にその命を捧げるに至ったのか。
二人の運命を決定づけた、あの「始まりの悲劇」の記憶が、濁流のように溢れ出した。




