触れなかった未来
その日は、やけに空が高かった。
青い、というより、薄く引き延ばされた色。手を伸ばしても届かない距離を、最初から示されているみたいで、リリアーナは無意識に視線を落とした。
アーシュは、約束の時間より少し早く庭にいた。
相変わらず、無駄のない立ち姿。感情をそぎ落としたような佇まい。
「……早いのね」
「君を待たせるのは、効率が悪い」
それが彼の返事だった。
冷たい。そう評される所以。けれど、リリアーナはもう、その言葉の表面だけを信じるほど子どもじゃない。
利害で近づいてきた相手。
婚約という名の取引。
その前提は、何一つ変わっていない。
「今日は、話があるって言ってたわね」
「ああ」
アーシュは頷き、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
その癖を、リリアーナは知っている。彼が、計算では割り切れないものに触れるとき。
「君の余命について」
空気が、静止した。
心臓が一拍遅れて音を立てる。
「……誰から聞いたの?」
「医師だ。君が伏せていたことも含めて」
責める調子はない。
ただ事実を確認する声。
「そう」
リリアーナは、それ以上を語らなかった。
同情も、慰めも、もう聞き飽きている。
「取り消す気はない」
アーシュが言った。
「婚約を?」
「そうだ」
意外でも何でもないはずなのに、胸の奥が、わずかに軋んだ。
「合理的じゃない、って言わないのね」
「合理的だ。君が生きている限り、君は価値を持つ」
冷たい言葉。
でも、それは彼なりの誠実だった。
——それでも。
「……ねえ、アーシュ」
リリアーナは、笑った。
いつも通りの、強がった笑顔。
「私、可哀想でしょう?」
わざとだ。
試すような言い方。
アーシュは、即答しなかった。
彼女を見つめ、その奥を読むように、静かに、深く。
「可哀想だとは思わない」
「へえ」
「君は、まだ未来を諦めていない」
その一言で、喉の奥が詰まった。
気づいてしまう人は、いつも、厄介だ。
自分で必死に隠しているものを、いとも簡単に指摘する。
「……強がりよ」
「知っている」
彼だけが、気づいた“強がり”。
誰にも見せなかったはずの、震え。
「だからこそ、君は生きている」
それは慰めじゃない。
希望でもない。
ただ、現実を見て、それでも隣に立つという選択。
リリアーナは、視線を逸らした。
泣くわけにはいかない。
この人の前では、特に。
「冷たい婚約者候補、ね」
「評判は気にしていない」
「でしょうね」
くすり、と笑いが零れる。
触れなかった未来。
語られなかった結末。
それでも、今だけは。
リリアーナは、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。




