1.西司(せいじ)
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
梅雨に入り、天気予報が当たらなくなった。雨が降ると言われれば降らず、降らないと言われれば降る、という天邪鬼な天気が続いている。
「お父さんさ、また、どっかから子ども連れてきたらどうする?」
雨音と湿気が気力を奪う日曜日の夕方、薄暗い居間に仰向けに寝転がった東子が、ため息のようにひっそりと言った。
「また、手を引いて連れて帰ってくるかもしれないよ。泣いてる、小さい子をさ」
「えっ」
ひっそりとした東子の声とは反対に、思わず発してしまった俺の声は、雨音だけの空間に妙に響いてしまった。
俺は、寝転がる東子の横に胡坐をかき、おばさんからのメールに返信するための文面を考えていた。少し湿気を含んだ畳が気持ちわるくて座る位置を変えると、携帯電話に差し込んでいる充電器のコードが引っ張られ、プラグが抜けてしまった。その瞬間、無意識に親指に力が入る。書いては消し、消しては書き、を繰り返していたメールの画面は、クリアボタンを押したままの親指に強い力が入ってしまったがために、真っ白になった。
「いや、ないだろ。それは、さすがに、ねえ」
そう返事をしたものの、自分のこともあるので、きっぱりとは言い切れず、なんだか歯切れのわるい物言いになる。
しかし、たった今まで、何度も読み返していたおばさんからのメールの内容を思い出し、
「ないよ。たぶん、ない」
と、首を横に振った。
「わたし、もう、きょうだいは西司だけでいいんだよね」
東子は言い、ごろごろと畳の上を転がってうつぶせになったあと、むくりと起き上がった。短い髪の毛が、ぼさぼさに乱れている。
二月も終わりに近付いたころ、親父がいなくなった。残された俺と東子は、途方に暮れた。ということもなく、そのうち帰ってくるだろう、とのんきに構えていた。いつものことだったのだ。むしろ、親父が家にいることのほうが少ない。
親父は、フリーのカメラマンだ。自称、と付けたほうがいいかもしれない。俺は、親父がカメラを構えている姿を、実は未だに見たことがない。俺や東子の写真を撮るのは、家ではいつだっておばさんだった。
しかし、親父はメカメカした大きくて高価そうなカメラを持っていて、ふらっといなくなる時には、そのカメラも消えているので、カメラマンということ自体は本当なのかもしれなかった。
仕事柄なのか、それとも生まれついての性分なのか、親父にはもともと放浪癖があり、こんなふうに度々ふらっといなくなる。一度いなくなれば、ひと月やふた月、連絡が取れないということも珍しくなかったので、今回も特に心配はしていなかった。
しかし、六月も半分が過ぎた今。親父がいなくなって、もうそろそろ三ヶ月が経とうとしている。
「捜索願とか、出した方がいいのかなあ」
気の抜けたような声で言い、俺を見る東子の目は、とろんと眠たそうで、どこか真剣味に欠けていた。東子が、親父のことを本気では心配していないことが窺える。
家族を放っておくと、こういうことになる。俺は心の中でここにはいない親父に説教をする。またか、と思われて、いなくなっても心配されないようなら、自身の態度を反省するべきだ。
俺は、小さな庭へと続く窓の外に視線をやる。垣根の隙間から、雨で道路脇の側溝から水があふれ出しているのが見える。雨音だと思っていたのは、もしかしたら、その水の音なのかもしれなかった。
「とりあえず、おばさんに相談してからにしたら?」
俺は言う。それがいちばん手っ取り早いと思ったのだ。そのおばさんからのメールに返信することを一旦は諦め、俺は携帯電話をテーブルに置いた。
「うん。そうだね」
東子はぽつりと呟いて、ふらふらと居間を出て行った。どこかへ出かけるのかと思い、その後ろをついて廊下を行く。俺が足を踏み出したために、ぎしり、と鳴った廊下の音に気付いた東子が、
「トイレだよ」
と、呆れたように言った。
「こんな格好で、出かけるわけないでしょ」
東子の着ているよれよれのティーシャツと、マーブルチョコを散りばめたような、やたらとカラフルな水玉模様のハーフパンツを確認し、納得して、俺はまた薄暗い居間に戻る。
灯りを点けてもなお薄暗い居間は、梅雨の湿気で空気まで淀んでしまったようだった。
俺がこの家にきた時、東子は小学校の三年生で、俺は一年生だった。
俺と東子は、半分しか血が繋がっていない。俺は、親父がこの家の外でつくった子どもだった。
ずっと、母子家庭で暮らしていたのだが、ある日突然、母が事故で亡くなった。その報告を聞いた親父が、俺を認知して引き取ってくれた。ということらしい。
そういうことを、今でこそ理解してはいるが、当時は、なにがなんだかわかっていなかった。
いないと思っていたお父さんが、実はいたということもそうだが、そのお父さんに、別に奥さんと子どもがいるということにも驚いていた。どういうシステムでそんなことになっているのか、よくわかっていなかったのだ。
それよりも、俺は母が死んでしまったことが悲しくて寂しくて、知らない場所へ行かなくてはいけないことがこわくて、ずっとべそべそと泣いていた。
泣きながら親父に手を引かれてやってきた俺を見て、玄関先に立っていたおばさんは、強ばっていた表情を少し和らげた。
「こんにちは、西司くん」
おばさんは言って、俺の頭をちょっとだけ撫でた。その手は、おばさんの手が俺の頭上にかざされた瞬間に思わず想定してしまった感触よりも、何倍も優しかった。
それ以上のことはなにも言わず、おばさんは家に入って行った。俺は、どうしたらいいのかわからず、親父に手を握られたまま突っ立っていた。
東子は無言で、俺の手を親父から奪うようにして引き取り、そのまま俺をぐいぐいと引っ張って、半ば強引に家に連れて入った。
その瞬間から、俺の家はここになったのだ。
俺の手を握った東子の手は、妙に熱くてしっとりと湿っていた。ぎゅっと握り返すと、東子は俺を見た。
「わたし、東子。あんたのお姉ちゃんなんだって」
東子は内緒話をするように、俺の耳元でこそっと言った。俺は、黙って頷いた。東子も、そんな俺を見て満足そうに頷いた。
母の死の知らせを聞くまで、親父は俺の存在自体を知らなかったと言う。
「本当かどうか、わからないわよねえ」
おばさんは、からからと明るく笑いながら言った。それは、俺が高校を卒業した年の春、おばさんがこの家を出て行くと宣言した夜のことだった。小さな庭に植えられた満開の桜の木が、強い風に抗い切れず、いいように翻弄されていたのを覚えている。
東子は二年前に高校を卒業したあと、家から歩いて通える距離にある大型ドラッグストアに就職しており、俺は高校を卒業したのはいいものの、就職の内定がもらえず、とりあえずアルバイトだけは、と面接を受けてきた、その日のことだった。
おばさんは、たぶん俺が高校を卒業するまで待ってくれていたのだと思う。
話がある、と居間に家族全員を集めたおばさんは、
「西司」
と、第一声で俺の名前を呼んだ。畳に正座をした俺は、はい、と返事をする。
「わたしはこの家を出て行きます。こうなったことに、西司はもしかしたら責任を感じてしまうかもしれない。だけど、西司は全然わるくない。わたしにだって、そのくらいの理性はあります。西司が気に病むことは全くないのよ」
まるで子どもに言い聞かせるような口調でおばさんは言い、俺と同じように正座をしていた東子と親父が俺を見た。俺はまた、はい、と返事をした。
おばさんは、俺と東子のふたりになにか言うことがある時、必ず、俺に先に言う。
俺は、おばさんのことが好きだった。
おばさんは、どうやっても母の代わりにはならなかったし、おばさんもそれはわかっているようだった。それでも、俺はおばさんを、ちゃんと家族として好きだった。それは、今でもそうだ。
おばさんには、本当によくしてもらった。自分の子どもではないどころか、旦那の浮気相手の子どもである俺を、家を空けがちな頼りない父親に代わり、高校を卒業するまで育ててくれたのだ。感謝している。
俺が立派に育つことができたのかどうかは、わからない。むしろ、立派には育っていないような気がする。ただ、おばさんが俺を育てる際の姿勢は立派だったと思う。
おばさんは、俺と東子を同じように扱った。よくないことをすれば、東子を叱るのと同じように俺を叱り、がんばれば、東子を褒めるのと同じように俺のことも褒めた。
きっと、もっともっと、東子をたくさん可愛がりたかっただろう、と今になって思う。俺がこの家にきたせいで、おばさんは東子へ注ぐ愛情を、理性でもって調節しなければならなかったのだ。申し訳ないと思っている。だけど、おばさんは、この家を出て行く時でさえ、俺に気に病むなと言う。
そんなおばさんがこの家からいなくなるのは、寂しい。本心からそう思った。
「行かないでよ。寂しいよ、おばさん」
涙声でそう言った俺に、おばさんは昨日までと同じように微笑んで、ありがとう西司、と言った。
俺たちと同じく正座をしているおばさんの傍らには、大きなスーツケースが、どん、と置かれていて、おばさんは本当に出て行ってしまうんだな、と思う。
「東子」
おばさんは、次に東子の名前を呼んだ。
「東子、あんたはもう大人だから、うるさくは言わない。だけど、頼むから無茶だけはしないようにね」
「ねえ、お母さん。本当に、出て行っちゃうの?」
東子は、静かな声で質問をした。
「本当に? どうしても?」
「あんたたちには申し訳ないけど、これは、わたしとお父さんとの問題なの」
おばさんは言い、
「あんた」
と今度は親父に向き直った。
「本当は、西司が生まれた時、あの人に会いに行ったでしょう」
「行ってないよ。出て行くとか、急にどうしたんだよ」
自分の順番がくるまでおとなしく待っていた親父は、少し慌てたようにそう言い返した。
「行ってなくても、連絡は取っていたはずよね。西司の名前、あんたが付けたでしょう」
おばさんの、質問ではなく確認のようなその言葉に、
「なっ。なにを言い出すんだよ、おまえ、突然。そんなわけないじゃないか。なにを根拠に、そんな……」
親父は目に見えて狼狽し始めた。額にふつふつと汗が浮かび始めている。
俺と東子は、やっぱりね、と目だけで会話をする。
「俺は、あいつが亡くなって初めて、西司のことを知ったんだ。ちゃんと話しただろう」
「本当かどうか、わからないわよねえ」
親父の反論を、おばさんは、明るい声で笑い飛ばしたのだ。
東子と西司。根拠は、俺たちの名前だ。こんなにあからさまに関連性のある名前を前にして、もしかして同一人物が付けた名前では? と勘繰らないほうがおかしい。俺と東子だって、口に出さなかっただけで疑ってはいた。おばさんが気付かないはずがないのだ。
「認めないならかまいません。とにかく、わたしは出て行きます。あんたみたいに、なにも言わずにいなくならいだけマシだと思いなさい」
おばさんは静かに言い放ち、スーツケースを支えにして立ち上がった。
「じゃあね。東子、西司。あとでメールするから。西司、東子のこと、よろしくね。ちゃんと無茶しないように見張っててやって」
その言葉を残し、おばさんは居間から庭へと続く窓を開け、そこからそのまま出て行ってしまった。
庭の桜が風に煽られて、花びらが舞う。ざざざ、という音と共に居間に入り込んできた花びらを、東子とふたりで一枚一枚拾い集めた。
親父は、正座したまま、しばらく動かなかった。
「あーあ」
東子は言った。
「あーあ」
もう一度言って、東子は拾い集めた桜の花びらを親父の頭上からぺそっと落とした。
「お父さんが、嘘つくからだよ」
そう言って、東子はうつむいた。
「本当のこと、言わないからだよ」
「東子」
親父が東子を呼ぶ。
「お父さん、ずっと言わないつもりなの?」
東子は言う。
「わたしたちのこと、気にしてるの?」
「そのうち言う」
親父は、ふてくされたようにぼそっと言った。
「お父さんのばか!」
東子が親父の背中を蹴ろうとしたので、俺は慌てて止めに入った。
東子を羽交い絞めにして、親父から引き離す。それでも東子が暴れるのでバランスを崩し、俺と東子は絡まったまま倒れ、俺だけが、居間の柱で頭を強く打った。痛みに呻く俺を見て、
「西司、大丈夫か」
慌てたように立ち上がった親父は、それまで正座をしていて痺れがきたのだろう、うまく立てずに、その場で転んで低く呻いた。
「ばかじゃないの、ふたりとも。なにやってんのよ!」
東子だけが元気だった。
昼間、今日はいつもよりも帰りが遅くなりそうだと東子からメールが届いた。
夜、バイトが終わって、家に帰っても、東子はまだ帰ってきていなかった。
おばさんが家を出て行ってしまってから、もう五年が経つ。おばさんとは、時々メールや電話で連絡を取っているけれど、のびのびと元気そうにしている。
一度、電話で話した時に、「まさか、もう帰ってこないつもりじゃないよね?」と聞いたことがある。おばさんは、「お父さんが迎えにくるまで絶対に帰らない」と、いたずらっぽく笑っていた。帰ってくる意思はあるんだな、と俺は安心した。
そういえば、まだおばさんからのメールに返信をしていない。思い出し、ジーパンの尻ポケットから携帯電話を取り出す。少しだけボタンを弄り、結局、ポケットに戻した。
中学生のころから使っている携帯電話は、最近では充電がすぐに切れてしまうため、外ではあまりさわらないようにしている。携帯電話の意味がない、と東子は言うが、俺はこれを、もはや電話としては携帯してなかった。電話の機能よりも、中に入っているデータのほうが重要で、それを消失してしまわないためにも俺はこの小さな機械を携帯しているのだった。
今年二十四歳になる俺は、未だにフリーターをしている。バイト先のイタリアンレストランからは、定期的に正社員にならないかと誘いがあるが、俺はそれをずっと断り続けていた。正社員になってしまうと、時間の自由が利かなくなるからだ。
暗くなってきたので、東子の勤め先であるドラッグストアに迎えに行くと、ちょうど従業員専用出入口から、東子が出てきたところだった。東子の仕事が終わるまで待つつもりだったので、タイミングのよさに少しうれしくなる。
お姉ちゃん、と呼ぼうとして、東子の隣にいる男に気付き、口を閉じる。
「西司」
東子が俺に気付いて、隣の男に会釈をしてから、こちらに歩いてきた。
「お姉ちゃん」
俺は、やっと東子を呼ぶ。
「西司、コンビニでアイス買って帰ろうよ」
東子は言った。
「今の人、誰?」
頷きながら、俺は、男が歩いて行った方向に視線を向ける。
「職場の先輩」
東子は言った。
「ただの?」
「うん。ただの先輩」
俺の問いに、東子はなんとも言えない妙な表情をして見せた。その顔は、親父よりもおばさんとよく似ている。そう言うと、東子は、
「西司も、お父さんに全然似てないよ」
と、東子は言った。
「そうかな」
俺は言う。確かに、親父に似ていると言われたことはないように思う。
「うん。顔だけなら、お父さんのほうが、かっこいいよね」
東子の言葉に、少しがっかりする。俺は、親父ほどかっこよくないと言われたようなものだ。
「じゃあ、俺は母さんのほうに似たのかも」
「そうかもね」
東子は言って、
「今日は、雨降らなくてよかったね」
と空を見上げている。雨は降っていないが、曇ってはいる。空には、星も月も見えない。
明るいのは街灯だけで、目の前に続く湿ったアスファルトが、その街灯のあかりを白く反射させている。
東子が高校一年生、俺が中学二年生の冬。近隣の高校の女子生徒が、学校帰りに顔をひどく殴られるという事件が相次いだ。被害者たちの証言から作成した似顔絵で注意喚起がなされていたが、犯人逮捕には至っていなかった。
東子は、その事件の四番目の被害者だった。
その日、委員会の用事で遅くに帰宅した東子は、玄関の引き戸を勢いよく開けるなり、大声で俺とおばさんを呼んで言った。親父が、ちょうど音信不通になっている時で、家には俺とおばさんしかいなかったのだ。
「ややや、やった! 見てよ、見て! 顔を引っかいてやった!」
血が付いたままの右手の指先を、俺とおばさんに見せながら、東子は肩を大きく上下させて、荒い呼吸をしていた。玄関の冷たい空気が、東子の吐く息を真っ白に染めている。東子は大量の鼻血を流しており、手でこすったのか、顔の半分が血で濃い赤に染まったような状態だった。ふたつに分けてきっちりと編んでいた肩までの三つ編みが、片方だけバラバラになってうねっていて、セーラー服のスカーフがほどけかけていた。その光景を見た俺は、かすれた悲鳴を上げた。
「お姉ちゃん!」
「西司、だ、大丈夫! わ、わたしは、殴られただけ! 大丈夫! 生きてる!」
はくはくと口を大きく動かしながら、大丈夫と繰り返す東子に、殴られた時点で大丈夫じゃないじゃないか、と泣き叫ぶ俺。
取り乱した俺と変に興奮した東子を見て、いち早く我に返ったのは、おばさんだった。おばさんは、東子を一度強く抱きしめると、玄関脇に置いてある電話で警察に連絡をした。
東子の顔を、濡れタオルで拭こうとした俺を、
「西司、待って」
痛みを堪えているような表情で、おばさんが止めた。
「気持ちはわかるけど、まだ拭いちゃだめ」
なにがだめなんだ、と俺は癇癪を起した。東子の顔を、早く清めてやりたかった。どこの誰かもわからないようなやつに殴られて流れた血を、きれいに拭ってやりたかった。それに、顔に傷が付いているかもしれない。もしそうなら、早く手当てをしなければ。痕が残ったらどうするんだ。血を拭わないと確認できないじゃないか。
俺たちのやりとりを、目をぱっくりと開いて見ていた東子が、ふいに言った。
「西司、写真。写真、撮って」
「写真?」
なにがなんだかわからない俺は東子の言葉をオウム返しに繰り返す。東子は、左手だけを動かして、スカートのポケットや鞄の中を探り、
「わたし、携帯どっかに落としたかもしれない」
と、ぼんやりとした声で呟いた。
「写真。そうね」
と、おばさんがため息混じりに言った。
「西司、携帯でいい。写真を撮るの」
ふたりとも、なにを言っているんだ。こんな時に写真なんて。俺はわけがわからないまま、買ってもらったばかりの新しい携帯電話で、東子に言われるままに、東子の顔のアップを撮った。続けて、ほどけた髪の毛、それに制服の乱れた部分のアップを撮る。それから全身の写真を各方向から数枚撮る。
警察が到着したのは、写真を撮り終わった俺が、濡れタオルで東子の顔と左手を拭った瞬間だった。
血を拭った東子の顔には、赤紫色の痣ができていた。端が切れて、ぷっくりと腫れた唇が痛々しい。
やってきた警察は、スーツを着た女の人と男の人とのふたりだった。ふたりとも刑事だと言う。交番にいるような制服の警官がくるものだとなんとなく思い込んでいたので、少し意外だった。
女の刑事が、東子の右手から犯人の血液と肉片を採取した後、痣や唇の傷を写真に撮っていいかと東子に尋ねた。東子は承諾し、男の刑事が写真を撮った。それを見ていた俺は、なんだかいやな気持ちになった。写真も、女の刑事が撮ってくれたらよかったのに。
「これも、役に立ちますか」
と、東子が俺の携帯電話を女の刑事に差し出した。このために撮った写真だったのか、と俺はその時、初めて理解した。
あんな状況でこんなことを考えていたなんて、東子とおばさんは俺よりもよっぽど冷静だったか、それとも、俺よりもよっぽど興奮状態にあったかのどちらかだ。いずれにしても、三人とも普通の状態ではなかったように思う。
俺の撮った東子の写真を確認したふたりは、データを小さなカードに移し、もうこの写真は消してもいいですよ、と俺たちに言った。俺は、返してもらった携帯電話をぎゅっと強く握り締めた。手の中から、みちっと小さな音がした。
刑事たちに、東子が事情を聞かれている間、俺は東子の隣で、ずっと東子の左手を握っていた。こんなふうな理不尽な暴力や、いつ起こるかもしれない不慮の事故などで、東子は突然いなくなるかもしれない。そのことに初めて気づいた俺は、その可能性に恐怖した。東子を失いたくなかったのだ。ふたりの刑事は、中学二年生の弟が高校一年生の姉の手を握っている光景を見て訝しげにしていたけれど、特になにも言わなかった。
委員会で遅くなった東子は、途中までは同じ委員会の男子生徒といっしょだったと言う。事件は、その男子生徒と東子が別れた直後に起こったらしい。
どうして、途中で別れたんだ。どうして、東子を家まで送ってくれなかったんだ。そんなことを実際口に出すことはなかったが、その男子生徒に俺は理不尽な怒りを覚えた。家まで送ってくれてさえいれば、東子は、こんなふうに殴られることはなかったのに、と。
わるいのは、東子を殴った犯人だ。それはわかっているのに、四方八方に飛び散る怒りを、俺はどうすることもできなかった。
東子の携帯電話は、後日、女の刑事が家に届けてくれた。現場の道路脇の側溝の中から見つかったらしく、水没していて、もう使えなくなっていた。
「写真とかメールとか、もう見れないんだね」
東子は携帯電話を大事そうに撫でて言った。その時、俺は思わず、ポケットの中にある自分の携帯電話を握っていた。
「お母さんと西司の写真、いっぱい入ってたんだよ」
そう残念そうに言った東子が、その後、その携帯電話をどうしたのか、俺は知らない。
犯人は、程なくして捕まった。高校の近くに住む、大学生の男だったという。東子の提供した、血と肉片が補強材料となったそうだ。しかし、どちらかと言えば、東子が犯人の顔に付けた引っかき傷が、任意同行の決め手になったようだった。
東子の顔には、傷は残らなかった。しかし、傷が残らなかったからよかったというわけではない。殴られることがないほうが、もっとずっと、よかったのだ。
それ以来、俺は東子を高校まで迎えに行くようになった。東子が高校を卒業したら、今度は職場まで。また、東子があんなふうに血を流すことがあるかもしれない。突然いなくなってしまうかもしれない。そんなの、とても耐えられない。
客観的に見て、弟として過剰な行動だとは思ったが、意外にもおばさんも東子もなにも言わなかった。
親父がどう思っていたのかは知らない。ただ、しばらくして家に帰ってきた親父を、おばさんが、「あんたは大事な時に、いつも家にいないんだから!」と、ものすごい剣幕で怒っていたことは覚えている。あの時ばかりは反省したのか、そのあと、わりと長い期間、親父は家にいて、毎日のように東子を迎えに行く俺の頭をぽすぽすと撫でた。なんとも言えないような表情を浮かべる親父を見上げて、俺は、「いってきます」を言った。「ごめんな、西司」と親父は言った。謝るなら、東子に謝れ。そう思ったけれど、言わなかった。親父が謝ろうが謝るまいが、東子がわけのわからない男に殴られた事実は変わらない。東子が流した血は、戻ってこない。
あの時、俺が撮った東子の写真は、裁判の時にちゃんと役に立ったと聞いた。
俺は東子の写真を消さなかった。その写真は、今も俺の携帯電話の中にある。
「西司はイチゴ、わたしはバニラ」
東子が言った。
コンビニの冷凍庫に両手を突っ込んで、東子はイチゴ味のアイスクリームと、バニラ味のアイスクリームを取り出す。
なぜだか東子は、俺がイチゴ味のアイスを好きだと思い込んでいる。東子が俺のために買うアイスは、全てイチゴ味だった。本当は、イチゴ味のアイスは、そんなに好きではない。どちらかと言うと、バニラ味のアイスのほうが好きなのだ。だけど、俺は東子の勘違いを訂正しない。俺がなにも言わないから、東子は、今日もやっぱりイチゴ味のアイスを俺に、と買ってくれる。
アイスの入ったビニール袋を片手に、もう片方の手で俺は、東子の手を握る。東子の手は、俺の手よりも熱い。東子の手から俺の手に体温が移り、少しすると、繋いだ手は同じ温度になる。東子はなにも言わずに、俺の隣を歩く。
中学生の時には東子と同じくらいだった俺の身長は、高校に入ったころからぐんぐん伸びて、いつの間にか、東子のつむじを見下ろせるくらいになっていた。親父の身長も、もうとっくに追い越している。
歩きながら俺は、東子の職場のただの先輩が、東子の恋人になるかもしれない可能性を考えてみる。
東子の、現在は耳が出るくらいに短く切りそろえられた髪の毛、そのてっぺん、つむじの部分を見下ろして、今のこの俺の役割が、東子の恋人に取って代わる時のことを考える。
東子と手を繋ぐのも、東子のつむじを見下ろすのも、俺ではなくて、その恋人になる。
いやだ、と思う。思うけれど、どうしようもない。俺も東子も、いつまでもふたりだけの世界で生きていくわけにはいかない。
俺は、東子の恋人にはなれないし、なりたいわけではない。ただ、弟として、ずっと東子の隣にいたいだけだ。東子の手にすがって、東子に守られて、甘やかされて生きていきたいのだ。
幼かったあのころ、東子がいなければ、俺の心はとっくにぺちゃんこに潰れていただろうと思う。東子のそばにいて、東子といっしょにいて初めて俺は東子ときょうだいになれた。当初、突然現れた異分子である俺に、無遠慮な好奇の視線を向けてきた近所の人たちも、日が経つにつれ俺と東子をセットで認識してくれた。東子がいたから、東子が俺を弟として扱ってくれたから、俺はあの家の家族でいられたのだ。
このまま、あのころと同じように俺は東子の隣にいたい。だけど、そんなことができるわけがない。生き物は成長する。それを止めることは、誰にもできない。東子にはいつか、恋人ができるだろう。
わかっているけれど、やっぱり、いやだ。二十四歳になる今でも、姉離れができない。
完全に弟をこじらせてしまった俺は、ひとり、途方に暮れていた。
「変だよ」
中学三年生の時の、同じクラスの川村さんの言葉を思い出す。
「昨日、見ちゃった。西司くんが、お姉さんと手を繋いで歩いてるところ」
川村さんは、「ちょっときて」と、俺を教室から離れた廊下の端っこまで連れてきて、そう言った。接近していた台風で、外はひどい雨だった。校舎内は湿気の逃げ道がなく、廊下は水滴で濡れ、ぬるりと光っていた。
「それが、なんなの」
そう聞いた俺に、
「変だよ」
川村さんは言ったのだ。
「きょうだいで手を繋ぐなんて変だよ」
「なにが変なんだよ」
俺の言葉に、川村さんは黙ってしまった。こんなところまでわざわざ連れてきておいて黙り込む川村さんの意図がよくわからなかった。もう教室に戻るから、そう言おうとした時、
「お姉さんに恋人ができても、西司くんはお姉さんと手を繋いで歩くの?」
川村さんがやっと開いた口で、そう言った。
俺は言葉に詰まる。今度は、俺が黙り込んでしまった。東子に恋人ができたらなんて、考えたこともなかったのだ。
常識的に考えると、東子に恋人ができたら東子と手を繋ぐのは恋人の役目だ。東子に恋人ができたら、俺は用無しだ。そうなったら、どうすればいいんだろう。
東子は恋人に守ってもらえるだろう。だけど、俺のことは? 東子以外に、誰が俺を守ってくれるというのか。誰が俺を弟として扱ってくれるというのか。俺には、東子しかいないというのに。
「あのね。わたし、西司くんのことが好きなの。だから、西司くんとお姉さんが手を繋いで歩いてるのを見て、やきもち焼いたの」
だから、なんだ。そう思った。俺のことを好きだからといって、俺たちきょうだいのことに口を出していい理由にはならない。
自分のことを好きだと言ってくれた子に、さすがに、そんなひどいことをそのまま言うわけにもいかず、俺はただ首を横に振り、川村さんをその場に置いて、教室へ戻ろうとした。
そこまでなら、ちょっぴり苦い青春の思い出にできたのだろうが、直後に俺は、湿気でべちょべちょになった廊下で、派手に滑って転んでしまったのだ。
「うそ、西司くん大丈夫?」
手を引いて立たせてくれた川村さんに、ありがとう、と礼を言い、それから、幾分か冷静になった頭で考えて、「ごめん」と謝った。
川村さんは、笑いを堪えているような表情で、うん、と頷いた。実際、笑いを堪えていたのだと思う。だけど、川村さんは笑ったりしなかった。ちゃんと笑いを堪え切った。俺よりも、川村さんのほうが、何倍も大人だったのだ。川村さんをふった俺のほうが、恥ずかしさを堪え切れずに、泣きそうになった。
あの時、一瞬だけ握った川村さんの手は、東子の手よりも少し小さくて、ひんやりと冷たく、どことなく頼りない感じがした。
やっぱり、俺が握るのは東子の手しかないのだと思った。
お姉ちゃんは、俺がいるから、恋人がつくれないんだよな。そう言おうとした口を、俺は結局閉じてしまう。口に出してしまうと、なにかが壊れてしまうような気がした。俺は、それをまだ壊したくはなかった。
また、おばさんからのメールのことを思い出した。返信をしなくてはいけないのに、していない。しなくてはいけないということはないのだろうが、したほうがいいような内容だった。
「おばさんに連絡した? 親父のこと」
俺の言葉に反応した東子の手が、俺の手の中で、はっとしたようにもぞもぞと動いた。
「まだ」
東子は言った。
「忘れてた。帰ったらするよ」
東子に忘れられていた親父が、少し可哀相になった。だけど、離れるからそうなるんだ、とも思う。いつも隣にいれば、忘れられることなんてないはずなのに。
一歩踏み出して、「あ」俺は小さく声を上げる。スニーカーの底に、粘着質のなにかがくっついている感触があったのだ。
「どうしたの」
東子が問う。
「ガム踏んだ」
スニーカーの靴底を確認して、俺は答える。
「あんたは、もう。いつもそう」
東子は呆れたように言って、少し笑った。
俺は、ねちりねちりとアスファルトにくっつく靴底を気にしながら、東子の手を強く握った。
「どうしたの」
東子が言う。
「どうもしないよ、お姉ちゃん」
俺は答える。
「甘えてるの」
俺は答えない。図星だったからだ。
「西司。いつも、迎えにきてくれて、ありがとね」
ふいに言われた一言に、なんだか涙が出そうになった。
「俺が、勝手にやってんだから」
そう言うと、
「うん」
東子はそう言っただけだった。
俺の靴底は、相変わらず、ねちりねちりとアスファルトにくっついたり離れたりしている。
家に着いて、東子は真っ先に、アイスクリームをコンビニの袋ごと冷凍庫にしまった。俺は、携帯電話に充電器を差し込む。
手を洗い、とりあえず腹ごしらえをしようと、俺がパスタを茹でてソースを作っている間に、東子がレタスをちぎる。
親の仇のようにわっしわっしと力強くレタスをちぎってサラダボウルにこんもりと盛り、市販のドレッシングをかけた東子は、
「サラダ完成」
と得意げに言った。
「お姉ちゃん、葉っぱをちぎっただけで、よくそんなに得意げにできるね」
「葉っぱをちぎっただけじゃないよ。ドレッシングもかけたよ」
「市販のね」
言いながら、完成したパスタをテーブルに置くと、東子は、
「西司、正社員にならないの? イタリアンレストランの正社員って、かっこいいと思うよ」
と真面目な表情で言った。
「うーん」
俺はただ唸る。東子は、ふうん、と相槌を打った。
「食べたら、おばさんに電話しようよ」
「そうだった。うん、するする」
東子は頷いて、箸でパスタを口に運んでいる。
「あれ、からい。どうしたの、これ。いつもと違う。からいよ、西司。ねえ」
パスタを飲み込んだ東子が言った。
「俺、おばさんからのメール、まだ返信してないんだ」
東子の言葉には答えず、俺はレタスをフォークで突きながら、そのことを口にする。
「メール? どういうメール? わたしには届いてないよ」
東子は訝しげにこちらを見ている。俺は黙って、レタスを噛む。東子は、またパスタを食べて、からい、と言った。
食器を片づけたあと、東子は居間の畳に座り込んで、自分の携帯電話から、おばさんに電話をかけた。
通話を終えた東子は、
「お父さんね、今、お母さんのところにいるんだって」
と言った。
「うん」
俺は頷く。雨音のしない、しん、とした居間の空気は、少し冷たく、俺は半袖のティーシャツの二の腕の部分を無意識にこすっていた。
「あんた、知ってたでしょ」
知っていた。おばさんからのメールが届いたから。
「どうして、言わなかったの。わたし、お父さんのこと、ちょっとだけ心配しちゃったじゃない」
東子の言葉に、俺は黙り込む。
おばさんからのメールには、現在、親父といっしょにいるということと、そして、もうひとつ、なにもメールで言わなくても、というような重大な、少なくとも俺にとっては重大なことが書かれてあった。もしかすると、おばさんも電話では言いにくかったのかもしれない。
俺は息を吸い込んで、吐き出した。胸にはもやもやしたものがつっかえているようで、さっき食べたパスタの味も実はよくわからなかった。
「お姉ちゃんと俺、もしかしたら血が繋がってないかもしれないって」
俺の言葉に、東子は目をぱっくりと見開いて、俺の顔を凝視した。
「俺、親父の子どもじゃないかもしれないんだって。確証はないけど、たぶんそうだろうって。親父が、おばさんにそう言ったみたいなんだ」
おばさんのメールには、そう書いてあったのだ。一応頭に入れておいて、と。
この時期の天気予報のように曖昧な情報だ。その曖昧な情報は、しかし、俺の胸の内を、不安の渦でぐるぐるとかき乱した。
俺に伝えれば、東子にも伝わると思ったのだろうか。おばさんは、東子にはこのことを言っていないようだった。
俺は、このメールの内容を知って、東子がどう思うのかこわかった。俺のことを、もう弟だと思ってくれなくなるかもしれない。そんなことになるのは、いやだった。だから、このメールの存在自体を、俺は東子に知らせなかった。
弟をこじらせた俺は、ずっと東子の弟で居続けられる環境を、強く望んでいたのだ。
「それがどうしたの」
東子は、いつもと変わらない、少し気の抜けたような表情でぽつりと言った。
「西司は、わたしの弟だよ。血が繋がっていようが繋がってなかろうが、わたしの弟だよ。今まで、ずっとそうだったじゃない。西司がこの家にきた時から、ずっと西司はわたしの弟だったじゃない。そうじゃなくちゃ、困るよ」
ぽつり、ぽつり、と呟くように言って、
「血が繋がっていないかもしれないなんて、もう、ずうっと前から知ってた」
東子は怒ったように声を荒げ、それから笑った。
「だって、あんた、お父さんと全然似てないんだもん」
そんな東子の声を聞きながら、俺は自分の、充電器を差し込んだままの不自由な携帯電話でおばさんに電話をかける。コール音一回で、すぐにおばさんの声が耳に飛び込んできた。
「かけてくると思った」
おばさんは笑いまじりに言った。
おばさんのところへ、やっと迎えにきた親父は、おばさんに一枚の写真を見せて言ったそうだ。「たぶん、西司は彼の子どもだ」と。
その写真には、外国の子どもたちに囲まれて笑う、ひとりの男性が写っていた。その男性は、俺にとてもよく似ていたという。
「確かに、似てるね。そっくり」
東子が、俺の携帯電話の画面を覗き込んで言った。おばさんが、その人の写真をメールに添付して送ってくれたのだ。
「誰なの?」
東子の質問に、俺はおばさんから聞いたそのままを答える。
「親父の友だちだって。カメラマン仲間。俺の母さんの恋人だった人だ。親父は、友だちの恋人と、一度だけ過ちを犯したらしい」
東子が、思わずといった感じに、微かに顔をしかめる。
「俺が生まれた時、俺の母さんとこの人は既に別れていて、母さんから連絡をもらった親父は、俺に名前を付けた。母さんは、そういうことはなにも言わなかったらしいんだけど、親父は、俺のことを自分の子どもかもしれないと思った。だから、せめてそのくらいはしようと思ったみたいだ。俺の母さんが死んだ時、この人とは連絡が取れなくなっていて、生きているのか死んでいるのかもわからない状況だった。親父は、俺のことを、自分の息子かもしれないと思っていたから、それがずっと、申し訳ない気持ちとして引っかかっていたらしい。母さんが死んで、俺はひとりきりだ。この子には家族がいない。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなって、認知届を出して、俺をこの家に連れて帰った。当時の俺は、この人よりも母さんによく似ていた。その大分あとだ。その人が、外国で内戦に巻き込まれて死亡したと親父に知らせが届いた。そのころにはもう、俺はこの人にそっくりな顔に成長していたから、親父は俺が自分の子どもじゃないことくらいわかっていた。だけど、一度認知してしまったら、もうそれは取り消せないらしいから」
俺は、そこで一旦、口を閉じる。
「俺は、親父の子どもなんだ。ちゃんと。書類上は」
おそるおそる口にした言葉に、
「西司はこの家の子だよ。みんな、そう思ってるよ」
東子は、むきになったように言った。
「だったら、うれしい」
「そっか」
東子は頷き、台所まで立って行って、冷凍庫からアイスクリームを出してきた。
「はい、西司」
渡された、イチゴ味のカップアイスを受け取りながら、
「ずっと黙ってたんだけど」
と俺は切り出した。言うなら、胸のつかえが取れた今だと思ったのだ。
「俺、イチゴ味のアイスクリーム、本当はあんまり好きじゃないんだよね」
あっけにとられたように俺を見て、
「なんで、それ、今言うの?」
東子の声はだんだんと荒くなる。
「なんで、もっと早く言わないの! わたし、ずっとイチゴ味のアイス買ってた!」
俺は、どこかで、やっぱり東子に遠慮していたのかもしれなかった。だけど、これからは言える。俺が、イチゴ味のアイスクリームを好きじゃなくても、俺が東子の弟で、東子が俺のお姉ちゃんだということに変わりはないのだから。
親父といっしょに、五年ぶりに家に帰ってきたおばさんが言うには、俺は東子のことが好きみたいだから、血が繋がっていないと知ったらよろこぶかと思ったそうだ。
「血が繋がってなくても、お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」
俺が言うと、
「そうね。東子は東子、西司は西司」
おばさんは呟いて、俺の頭を撫でた。俺が、初めてこの家にきた時と同じように、優しい手だった。
俺は、イタリアンレストランの正社員になろうか、と考えている。それって、どうやらかっこいいらしいし。
ありがとうございました。