2.東子(とうこ)
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ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります。
わたしは、男の人がこわい。
十六歳だった。学校帰りに、暗い夜道で知らない誰かに突然殴られたことがある。
逃げようとしたわたしの腕を掴んで引き倒したその人物は、わたしの身体に馬乗りになって、再びわたしの顔を殴った。こわくて、そして、わけがわからなかった。その瞬間は、痛みよりも、恐怖のほうが勝っていた。自分が、どうしてこんなことをされているのかが、まずわからない。とにかく、こわかった。殺されるかもしれない。殴られる以上の、なにかひどいことをされるかもしれない。自分がなにをするべきかもわからず、混乱した頭で、だけど、それでもわたしは暴れた。渾身の力でもがいて暴れて、脚をばたつかせ両手を振り回した。この状況から脱却しようと必死だった。
それは、本当に偶然だった。やろうと思ってやったわけではない。わたしの右手の爪が、たまたま相手の頬を引っかいた。
低く呻いたあと、そいつはわたしをもう一回殴って、それから逃げた。
わたしは、近くに放り出されていた鞄を拾い、立ち上がって自分もここから逃げようとした。わたしを殴ったあいつが、いつ戻ってくるかわからない。しかし、わたしの両足は震えるばかりで全然力が入らない。役立たず、役立たず! 自分の脚を罵りながら、転がるように走った。夢を見ているようだ、と思った。走っても走っても、前に進めない。気持ちだけが焦る。そういう夢だ。
へたり込んでは地面に手をついて、その度に放り出される鞄を拾い、わたしは何度も立ち上がった。もつれそうになる足を、とにかく前に出す。鼻の奥から生温かい液体がつるりと流れ、それがひどく気持ちわるくて、左手でごしごしとこすった。その時、初めて痛い、と思った。痛い、痛い、痛い。どうして、わたしがこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。こんなの、ひどい。こんなひどい世界でなんて、きっとこの先、生きていけない。
相手の顔を引っかいた右手は、その感触が指先に纏わりつくように残っていて、ただそれだけで気持ちがわるくて、手首から上を切り落としてしまいたい衝動に駆られた。
その感触、その衝動を、わたしは、いつまで経っても忘れることができない。
警察へ行くという選択肢は、この時のわたしの頭からはすっぽりと抜けていて、ただ早く家へ帰りたい一心だった。この世界で、安全な場所は、もうあの家しかないと思った。
よたよたと走っているうちに、なんとか足が言うことを聞くようになった。走って走って、そのうちに、恐怖心を覆い隠すように、妙に高揚した気分がやってきた。あいつの顔を引っかいたことが、急に誇らしいことのように思えてきて、わたしの足はさらにスピードを上げた。西司と母に教えてやろうと思った。殴られたけど、わたしはがんばったんだよ、と。
息を吸い込むと、顔が痛んだ。鼻血が逆流して、少しむせてしまう。顔のどこが痛いのかなんて、もはやわからなかった。なんだか、奥歯がぐらぐらしているような気がする。いやだな、と思う。
だけど、大丈夫。殴られただけだ。わたしは、まだ生きている。大丈夫、痛みを感じる。まだ身体が動く。走ることができる。こうして、考えることもできている。わたしは、元気だ。ちゃんと、生きている。ただ、ものすごく痛い。泣きそうだ、と思った。泣いていいのだという発想は、その時のわたしにはなかった。
家に着いて、わたしの姿を見た西司が叫んで、泣き出して、初めて冷静になった。
途端に、恐怖心に覆いかぶさり、それを隠してくれていた高揚感が、少しずつ剥がれ始め、その下から再び恐怖心が顔を出す。わたしは、ぐるぐると脳みそを動かし、必死でこの後のことを事務的に考え続け、むき出しになった恐怖心から目をそらす。
「東子、あんたは、もう。そんな無茶して。殺されてたかもしれないのよ」
あとになって、母が言った。弟はなにも言わなかった。ただ、わたしの隣で左手を握っていてくれた。
だったら、わたしはあの時、どうすればよかったのだろう。どうすれば、いちばん安全だったのだろう。どうすれば、男の人をこわいと思わずに生きていけるようになれたのだろう。抵抗しなければ逃げられないあんな状況で、ただ殴られ続ければよかったのだろうか。無茶しても、無茶しなくても、殺されていたかもしれないのに。
五年前に出て行った母が帰ってきて、梅雨が去り夏になった。ずっとフリーターだった弟の西司が、先日、就職をした。アルバイト先のイタリアンレストランの正社員になったのだ。
そのため、西司にはもうわたしを迎えにきてくれる時間がない。正社員には、お店の営業時間が終わったそのあとも仕事があるのだ。仕方がないことだとはいえ、ひとりで帰る夜道は、やっぱりとても心細い。
勤め先のドラッグストアの先輩が、いつも迎えにきていた西司が外にいないことを知ると、夜道がこわいなら僕が家まで送ろうか、と言ってくれた。わたしはそれを断った。親切で言ってくれているのは重々承知だ。男の人が全員、こわいわけではないことはわかっている。頭では理解できているけれど、気持ちのほうはどうしても恐怖心を抱いてしまう。それゆえに、男の人と夜道でふたりきりになるなんて考えられなかった。
いつ、殴りかかってくるかもわからないのに。心のどこかで、わたしはいつも、そんなふうに思っている。
今までは、西司が隣にいて、わたしのことを守ってくれた。だけど、これからは、自分の身は自分で守らなくてはいけなくなった。いつまでもずっと、西司に甘えているわけにはいかない。
わたしたちきょうだいの関係は、あの事件以前と以後で、確実に変化した。
それまで、ただただ可愛かった小さな弟は、わたしを守ってくれる頼もしい盾になった。
十六歳のあの日から、わたしは、ずっと西司を盾にして生きてきた。わたしに当たる雨風を、西司が遮ってくれていた。西司の影に隠れて、わたしは安心していられた。まるで、疑似恋人のようになってしまったその関係は、他人には変な目で見られたけれど、それでもやっぱり、わたしたちは、どこまでもきょうだいだった。
その盾が引退してしまった今、わたしは丸腰で危険地帯を薄ぼんやりと歩いていると言ってもいい。
西司がいつも握ってくれていた左手が、すかすかと寂しい。だけど、ここをちゃんと乗り切れないと、わたしはどこかでコロリと野垂れ死んでしまうだろう。
これはいい機会なんだ。わたしは、自分に言い聞かせる。西司が就職したのはいいことだ。西司が、わたしから離れていくのも、きっといいことだ。西司もわたしも、そろそろひとりずつに戻るべきなのだ。わたしとずっといっしょにいたら、西司は恋人もつくれないし、結婚もできないかもしれない。そうなっては、申し訳ない。
西司の人生は、全部全部、西司のものだ。それなのに、わたしはこの十年間、西司の人生を身勝手にも消費してきてしまった。西司がなにも言わないからといって、自分のいいように利用してきてしまった。
そんなことは聞けないし、聞こうとも思わないけれど、もしかしたら、西司は未だに童貞なのかもしれなかった。そのことに気づいた時、わたしは自分が消費してきた西司の青春時代を思い、愕然としたのだ。
西司は、彼女を作るべきだ。その人のことを思うと胸が高鳴って、その人の笑顔を思い出すだけでテンションが上がって布団の上を転がりまわったりして、会えない日は寂しくて死にそうだとか思って、ふたりきりの時は変なあだ名で呼び合って、他人には見せられないような甘ったるくて恥ずかしいメールのやり取りをする。そんな彼女を作るべきだ。西司は、そういう普通のことをちゃんとやるべきだった。
わたしのことは別にいい。わたしは、一生ひとりでいい。一生、処女のままだっていい。西司がいてくれたら、それは心強いけど、そんなのは到底無理な話だ。西司は西司。わたしとは別の人だ。西司は、わたしのためだけの存在ではない。
わかっている。わかっている。わかっている。そんなことは、とっくの昔に、ちゃんとわかっている。
「とんでもねーブラコンだな」
高校生の時、同じクラスの男子に言われた言葉だ。二年生の時だったか三年生の時だったか、よく覚えていない。もしかしたら、一年生の時、あの事件からそう時間が経っていなかったのかもしれない。
彼は、わたしの隣の席だった。次の授業の準備をしていたわたしは、その彼の顔をちらりと見ただけで、なにも言わなかった。ブラコン、結構じゃないか。内心ではそう思っていた。そのとおり、わたしはブラコンだ。西司は、わたしの弟だ。それの、なにがいけないの。
「おまえ、なんでいつも弟と手繋いで帰ってんの? おまえらきょうだい、気持ちわりーよ」
どうして、そんなことを言うのだろう。わからなかった。ただ、彼がわたしを傷つけようとしているということだけは、肌の表面にひりひりと感じた。彼は男の人だから、こういうふうに弱いものいじめみたいなことをするのだろうか。殴って殴って、血を流して傷ついて、弱った女を眺めて楽しむのだろうか。あいつみたいに。
西司は、わたしを殴ったりしない。あんたたち男みたいに、突然、殴りかかってきたりしない。そういうことをしない、安心できる人といっしょにいるだけなのに、どうしてそんなふうに言われなきゃいけないの。どうして、わたしたちを放っておいてくれないの。
「あんたなんか、大嫌い」
気づくと口に出してしまっていた、ちゃちで、しかし、どこまでもストレートなその言葉は、自分でもわかるくらいにどす黒い嫌悪の色に染まっていた。彼にというよりも男性全員に向けたような言葉を、わたしは彼ひとりにぶつけてしまった。
ガタッと椅子が乱暴な音を立て彼が立ち上がった。その瞬間、わたしの全身は恐怖の感情に覆われた。殴られる。そう思った。
こわい。余計なことを言わなきゃよかった。
上半身をまるめるようにして、わたしは机に突っ伏した。頭を両腕でガードして。殴られてもダメージが最小限になるように。
わたしの身体は、恐怖に震えた。呼吸が止まる。机がわたしの身体の振動を受けて、微かにカタカタと鳴っていた。
「東子ちゃん」
誰かがわたしの肩を、やさしく抱いた。
「東子ちゃん、大丈夫?」
優しい声で問いかけられて、わたしは顔を上げる。セーラー服の襟が目に入る。女の子だ。それが確認できると、わたしはやっと息を吸い込んだ。彼女の肩に、すがるように頬を寄せる。わたしの背中をあやすように撫でてくれる手は、母の手と同じように優しかった。
「出てっちゃったね」
彼女は、からっぽの隣の席を見て言った。
授業が始まっても、わたしの隣の席はからっぽのままだった。
あれから、わたしは彼を視界に入れないように真っ直ぐに前だけを向くようにしていた。余計なことを言って怒らせないように、なるべくしゃべらないようにもした。彼も、もうわたしに構うことはなかった。
気づくと、暗い夜道をわたしは走っていた。額に汗がにじんでいるのがわかる。自分の息づかいが、やけに大きく聞こえる。
早く、早く家に帰らないと。その焦りだけが、わたしの足を動かしている。早く、早く、早く。
だけど、もしかしたら西司はまだ帰っていないかもしれない可能性に思い当り、焦ていた気持ちが途端にしぼんでしまい、気が抜けたように足を止めた。暑い。
左手で汗を拭い、呼吸を整えながら歩く。アイスを食べたい。コンビニに寄って帰ろうと思った。
コンビニの冷凍庫の前に突っ立って、わたしはぼんやりとイチゴ味のカップアイスを眺めていた。
俺、イチゴ味のアイスクリーム、本当はあんまり好きじゃないんだよね。
西司の言葉を思い出す。
わたしは、どうして、西司がイチゴ味のアイスを好きだと思い込んでいたのだろう。わからない。思い出せない。ただ、気づいた時には、わたしの中で「西司にはイチゴ味のアイス」という決定事項ができ上がっていた。
わたしは、バニラ味のカップアイスを三個手に取り、レジカウンターへ持って行く。西司と母と、わたしの分だ。
「今日は、彼氏さんといっしょじゃないんですね」
コンビニには、わたしの他に客はいなかった。レジには大学生くらいの男の店員がいて、ビニール袋にアイスを詰めて渡してくれながら、そう言った。今まで話しかけられたことがなかったので、驚いた。それ以前に、恐怖心が胸の上からサッと刷かれたようになってしまい、わたしは下唇を噛んだ。
彼氏じゃないとか、あれは弟ですとか、そういう会話が面倒くさくて、わたしは、さっきの店員の言葉に、ただ「はい」と返事をした。余計なことは言わないほうがいい。
わたしは、大学生くらいの男が一際こわい。十年前、わたしを殴ったやつも大学生だったからだろう。
西司がいる時は、コンビニの店員の顔なんて見ずに済んだのだけど、今はひとりだ。こういう突発な出来事にも、ちゃんと対応できなければいけない。
改めて、店員の顔を見る。いつも、この人だっただろうか、と首を傾げてしまう。それくらい、わたしはこの人の顔を見ていなかった。ネームプレートに書かれている「杉原」という名前を、一応頭に入れておく。もし次に話しかけられるようなことがあった時、顔を忘れていてもネームプレートを確認すればいい。
「喧嘩でもしましたか」
重ねて、そんなことを言われる。喧嘩なんかしていないし、仮に喧嘩をしていたとしても、この人になんの関係があるのだろう。それとも、これは世間話の類なのだろうか。男の人と世間話に慣れていないわたしには、よくわからなかった。早く会話を終わらせたくて、わたしは早口に言う。
「いつもいっしょにいるわけじゃありません。別々に過ごすことのほうが多いです」
「それもそうですね」
店員はそう言って、頷いた。それで会話が終わったのだと判断したわたしは急いでコンビニを出て、小走りに家へと急ぐ。
家に着くと、玄関の灯りの下に西司が立っていた。身長に行くべき栄養が、全部顔に行ってしまったような父とは違い、西司の身長は、ひょろひょろと高い。顔も、こってりと彫りの深い父とは正反対の、さらっとしたシンプルな顔をしている。
西司とお父さんは、全然似てないなあ、と西司が家にきて少ししたころから、ずっと思っていた。あまりにも似ていないので、もしかしたら西司はお父さんの子じゃないのかもしれない、とも思っていた。だけど、口に出したことはない。わたしと西司は、半分血が繋がっている。そう教えられていた。その繋がりがまやかしだと知ってしまったら、もう、きょうだいではいられないんじゃないかと不安だったのだ。
「今帰ったの?」
聞くと、
「ううん。もうちょっと前に」
西司はのんびりとした口調で言った。
「なにしてたの?」
もしかして、これから出かけるところかな、と思う。西司が正社員になった歓迎会とか、そういうのがあるのかもしれない。
「出かけるの? 歓迎会?」
思ったそのままを尋ねると、
「歓迎会? なんの?」
西司は不思議そうな顔をする。
「西司が正社員になったから」
「待遇が変わっただけで、職場は同じだもん。今さら歓迎会なんてしないよ」
そう言って、西司は笑った。そして、言った。
「お姉ちゃんを待ってたんだよ」
え、と思う。
「なんで」
「俺は、弟をこじらせちゃってるからね。お姉ちゃんがちゃんと無事に生還するかどうか、心配だったんだ」
咽喉が、ぐっと詰まったようになった。言葉が出なかった。うれしかったのだ。いや、うれしかったのかどうかさえ、よくわからない。ただ、西司の発した言葉に、わたしは言葉を失った。
コンビニの袋を西司に押し付け、そのまま玄関を開けて、わたしは母にただいまを言う。
袋の中を覗いたらしい西司が、「あ、全部バニラだ」と呟く声が、背後から聞こえた。
わたしの勤めるドラッグストアは、自宅から歩いて通える距離にある。わたしは、バスや電車が苦手だ。あの空間では、男の人の至近距離にじっとしていなければならないことが多い。そういう乗り物なのだからそれは仕方がないのだけれど、わたしは、それがどうしてもいやだった。
夕方、品出しと同時に、商品棚の整理をする。お客さんはだいたい手前にある商品を取ってレジへと持って行くので、その空いた空間を、棚の奥から商品を引っ張り出して埋めるのだ。シェービングクリームのボトルを、奥から手前に引っ張り出す度に、そのボトルにプリントされている写真なのか絵なのかわからない外国人の男性の顔を見て、父に似ていると思う。
わたしは、父のことを好きというわけではない。かと言って、きらいかと言うと、そういうわけでもない。好きでもきらいでもない。わたしの、父に対しての感情はそんな感じだ。好きとかきらいとか、そんな強い感情を持つほどには、わたしはこれまで父と接してこなかった。
昔から、父は家にいないことのほうが多かった。一年の大半は外国へ行っていて、その間ずっと動物の写真を撮っているのだという。芸術的な写真ではなく資料的な写真なのだと、以前母が言っていた。
父は、わたしや西司に仕事の話を全くといっていいほどしない。家でカメラを構えているところも見たことがない。父の仕事に関しての情報は、だいたいが母経由だ。
幼かったわたしにとって、父は、この家の人というよりも、時々この家に遊びにきて、数週間泊まって帰る人という位置づけだった。わたしが小学校に上がる前くらいのころ、珍しく長い間家にいた父に、「お父さん、いつ自分の家に帰るの?」と尋ねたことがある。父は傷ついたような顔で私を見て、「東子。お父さんの家はここだよ」と言った。「えっ、そうなの」と驚いて声を上げたわたしと、ショックで言葉を失った父を見て、母が大笑いしていたことを覚えている。覚えているというより、母が何度も、こういうことがあったのよ、と話して聞かせてくれたので、覚えているような気になっているのかもしれない。そのくらい、父は家にいない人だった。
先日も、これから出かけるのだろう父の後姿を、玄関先で見送ったばかりだ。
「今回はどこへ行くの?」
と尋ねたわたしに、
「どこがいいかな」
父は言った。
「ちっちゃいサルがいるところがいいよ」
ちっちゃいサルは可愛いから。先日テレビで観たサルの赤ちゃんのことを思い出しながらわたしが言うと、
「それ、あったかいとこだな。寒いとこにはいないだろ」
と父は言う。なんだ、ちゃんと行くところを決めてるんじゃないか。とわたしは思う。
「寒いところに行くんだね」
「どうしてわかったんだ」
父は驚いたような顔をした。冗談かな、と思ったけれど、どうやら本気で言っているらしい。お父さんは、ちょっと馬鹿なのかもしれない、と思う。思えば、早とちりで西司を認知して自分の子どもにしてしまった人だ。馬鹿じゃないなんてことはありえない。
「東子」
ふいに、父が真剣な声でわたしを呼んだ。
「なに」
「東子は、西司が好きか」
「好きだよ」
わたしは即答する。わたしが西司のことを好きなのは、太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらい、あたりまえのことだった。
「好きだよ。弟だもん」
「血が繋がってなくてもか」
「血が繋がってなくても、西司は西司だよ」
そうか、と父は呟いて、「行ってきます」と手を振った。
父に感謝の気持ちを感じたことなんて一度もなかったけれど、でも、ひとつだけ感謝をしていることがある。それは、西司をこの家に連れて帰ってきてくれたことだ。
それが父の、父親としての最大の功績だ。
減りの激しいお菓子の棚の補充をしようと、在庫を取りにバックヤードへ行く。
「東子ちゃん」
背後から声をかけられて、驚いたわたしの肩はびくりと揺れた。振り向くと、只野さんが立っていた。只野さんはわたしを下の名前で呼ぶ。あまりいい気持ちはしないけれど、そんなことを言うと殴られるかもしれない。被害妄想だという自覚はあるのだけれど、やっぱりこわくて、わたしはなにも言えない。それに、只野さんはここで働いている全ての女性を名前で呼ぶので、もともとそういう気安い人なのだろう。
「はい」
わたしは返事をする。
只野さんは、この職場でのわたしの先輩にあたる人だ。わたしがここに就職する数年前から彼はここにいる。ずっと以前、客としてこの店にきた時にも見かけたこともある。ちょっと前、只野さんといっしょにいるところを見た西司が、彼はただの先輩なのか、というようなことを言った。ただの先輩だったし、只野先輩だった。わたしは吹き出しそうになるのを我慢して、ただの先輩だと答えた。
只野さんとはもう何年もいっしょに働いていて、挨拶だって毎日のようにしている。それなのに、わたしは未だに彼のことが少しこわい。というよりも、苦手なのだ。それは、只野さんが男の人だからという理由だけではないように思う。
誰にでも気安い只野さんは、わたしが自分の周りに作っている壁にも気づかずに気軽に話しかけてくる。そういう人懐っこい性格は、彼の長所なのかもしれない。だけど、彼のその人懐っこさこそがわたしは苦手だった。もしかしたら只野さんとわたしは、根本的に性格が合わないのかもしれなかった。それに、そう思っているのがどうやらわたしだけだということにも、妙に罪悪感を覚えてしまい、ますます只野さんのことが苦手になってしまうのだ。
「どうしたの、ぼうっとして」
そう言われ、なんでもありません、と首を振る。
「最近、東子ちゃんの彼氏、迎えにこないね」
只野さんが言った。
「別れたの? だから元気がないのかな」
只野さんはそんなことを聞いてきた。心配しているのか、それともただの好奇心なのか、わたしにはそこのところの判別がつかない。ただ、そう聞かれたことに、なんだかひどく腹が立った。
わたしは感情を挟まないように注意して、言葉を発した。
「あれは、弟です。わたしたちはきょうだいなので、別れるなんてことは絶対にありません」
「え、弟? 手繋いで帰るのに?」
只野さんが、ぎょっとしたようにわたしのことを見る。
「弟です」
もう一度行って、わたしはお菓子の入った段ボールを抱え、バックヤードを後にする。
遅番だったので、夜の十時過ぎに店を出た。
小走りにコンビニまで駆けて行き、明るい店内に入ると、
「いらっしゃいませ」
大学生くらいの男の店員が言った。昨日の店員なのかどうか、顔を見ても確信が持てずネームプレートを確認する。「杉原」と書かれていた。昨日の人だ。
「こんばんは」
わたしは、そう挨拶をしてみた。杉原くんは少し驚いたようだったけれど、
「はい。こんばんは」
と、すぐに笑顔になって挨拶を返してくれた。少しだけ、普通の人に近づくことができたような気がした。
「彼氏さんとは、まだ喧嘩中ですか」
杉原くんが言った。
「喧嘩じゃないです」
わたしは答える。答えたあとの会話が続かない。
バニラ味のカップアイスを三個、レジに通してもらう。
「アイスクリーム、好きなんですね」
杉原くんが言う。
「うん」
わたしは頷いた。「ばいばい」と言ってコンビニを出る。「ありがとうございました」杉原くんが言った。
わたしは、普通の人のふりをして家路を急ぐ。
その日は、一日ついていなかった。
品出しの時には、スナック菓子の袋の重ね方がわるく、山を崩れさせてしまったし、さらに手が当たって炭酸飲料のボトルを数本、棚から落としてしまった。衝撃を与えた炭酸飲料は売り物にならない。
「こんな日もあるよ」
謝ってばかりいるわたしに、只野さんが軽い口調で言った。
レジ打ちの時には、お客さんにお釣りを渡し間違えて、たまたまそのお客さんの機嫌がわるかったために怒鳴られてしまった。さらには、そのお客さんが男の人だったため、わたしはパニックになった。恐怖と混乱で謝罪の言葉も口にできないわたしを押しのけ、
「申し訳ありませんでした」
只野さんがおっとりとした口調で頭を下げた。それを見て、わたしも慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません!」
お客さんはそれで納得して帰って行った。
今日は失敗ばかりしている。泣きそうだった。そんなわたしに、
「こんな日もあるって」
只野さんは、やっぱり軽い口調で言うのだった。苦手だと思っていた只野さんに助けられ、わたしは複雑な気分だった。
「すみませんでした。ありがとうございました」
バックヤードで只野さんに頭を下げると、
「東子ちゃんさあ、僕のこと苦手でしょ」
只野さんが唐突に言った。
「いえ、そんなことは……」
わたしは言葉に詰まってしまう。まさか、見抜かれているとは思っていなかった。自分では普通にしていたつもりだった。他の人と同じように接しているつもりだったのだ。
怒られることを覚悟して、わたしは意を決して言う。
「苦手です。わたしは男の人が苦手なので、男の人とはあまり接したくないんです。なので、親しく接してくださる只野さんのことが、なおのこと苦手です」
「うん」
只野さんは一度頷いて、
「言わせたのは僕だけど、実際に面と向かって言われると、やっぱりちょっとへこむなあ」
と項垂れた。
「すみません」
申し訳なくて謝ると、
「いいんだ。言ってくれたほうが、こっちも気をつけることができるし」
そう言った只野さんは、ただのいい人だった。わたしは無意識に強張らせていた肩の力を抜く。只野さんは、わたしが失礼なことを言っても怒らない。もちろん、殴りかかってもこない。
男の人がみんな、西司や父や只野さんのように暴力を振るわない人ばかりではないことは身をもって知っている。けれど、男の人がみんなこわいわけではないということも、ちゃんとわかっている。
わたしは、普通になりたい。男の人を過剰にこわがることなく、普通に生きていきたい。そのためには、自分が変わらなくてはいけないのだ。
「只野さん。わたし、大丈夫です。今まで通りで大丈夫です」
わたしの言葉に、只野さんは、
「うん」
と、また頷いた。
帰り道で西司といっしょになった。後ろから、「お姉ちゃん」と呼ばれ、わたしは立ち止まって西司を待つ。
並んで歩きながら、こんなふうにいっしょに帰るのは久しぶりだと感じた。しかし、実際のところ、そんなに久しぶりというわけでもない。わたしの中の時間の流れが、変わってしまっただけだ。
ふたりでコンビニに立ち寄ると、
「彼氏さんと仲直りしたんですね」
今日もいた杉原くんが言った。
「喧嘩じゃないです」
わたしは言う。
「彼氏? いえ、弟です」
西司は面倒くさがらずに訂正している。
「えっ、そうなんですか」
杉原くんが、ちらりとわたしを見たので、気まずくなって目をそらす。
「言われてみれば、似てますね、おふたり」
そう言われ、
「え、俺ら似てますか」
西司が驚いたように言った。
「似てますよ」
頷いた店員を見て、わたしたちは顔を見合わせる。
「ありがとう」
思わず言っていた。
「うん? なにがですか?」
聞き返されて、わたしは小さく首を振る。
その時、思い出した。
可愛いごきょうだいね。あのおばあちゃんはそう言った。
小学生の時だ。西司が家にきたばかりのころだった。町内で配る会報の配布当番がうちに回ってきた時だったと思う。わたしと西司は母のおつかいで、組内に会報を配って回っていた。今でこそ、ここに溶け込んでいる西司だが、その当時、組内の人たちが西司に向ける視線は、好奇心と侮蔑と憐みがごった煮になったような複雑で無神経なものだった。
母が選択したのは、西司を隠すことではなく、西司の顔を近所の人たちに堂々と見せることだった。西司の顔を覚えてもらって、うちの家族だと認識してもらうことだった。会報の配布は、そのためのおつかいでもあったのだと思う。
小さかった西司は、大人たちの無遠慮な視線にさらされて、さらに小さくなっていた。わたしの手を強く握り、「お姉ちゃん、もう帰りたい」と言った。「次で最後だから、がんばろうよ」と、ぐずる西司を引きずるようにして訪ねたのが、そのおばあちゃんの家だった。
会報を手渡したわたしたちに、おばあちゃんは西司の顔を見て言ったのだ。
「可愛いごきょうだいね。弟くんは、お姉ちゃんとよく似ているわ」
そして、西司にイチゴ味、わたしにバニラ味のアイスをくれたのだ。その味に意味なんかなかったのだと思う。ただわたしたちは、そのおばあちゃんの家で、もらったアイスを食べた。それだけだ。西司はどうだったのか知らないけれど、西司がわたしに似ていると言われ、わたしはご機嫌だった。
そのあと、すぐにおばあちゃんは引っ越してしまった。
イチゴ味とバニラ味。わたしの中には、その味だけが残った。
左手にコンビニの袋を下げた西司は、右手で携帯電話を操作している。西司の携帯電話は、西司が中学生の時から使っている古いもので、ところどころ塗装が剥げていて、もうボロボロだ。外見だけではなく中身もボロボロで、充電も少ししかもたない。そのため、西司が外にいると連絡がとれないことが結構あって、携帯電話としてはあまり機能していないんじゃないかと思う。それなのに、西司は頑なにその携帯電話を手放さなかった。
「メール?」
尋ねると、
「いや、写真を消したんだ」
西司は言った。
「なんの写真?」
「内緒」
西司は、なんだか肩の荷が下りたような、すっきりとした表情を見せた。
その顔を見ながら、西司に好きなアイスの味を聞いていないことに思いあたる。勝手にバニラ味のアイスを買っているけれど、西司はなにも言わない。
「西司」
わたしは口を開く。
「西司は、なに味のアイスが好きなの?」
「お姉ちゃんと同じだよ。バニラ味」
西司は言った。
「そっか」
わたしは頷く。そっか、同じか。
西司の持つビニール袋が、ガサガサと音を立てた。
「今度、携帯変えようかな」
西司が言った。
「今さら新しいのなんて、使いこなせるの?」
そう言って西司の顔を見上げると、どうだろう、と不安そうな表情をしていたので、笑ってしまう。
わたしは、捨てられずに机の引き出しにしまってある、古い携帯電話のことを考える。あの事件の時に溝に落として水没させてしまったそれには、大切な写真やメールがみっちりと詰まっていたのだ。カメラを向けると変な顔を作る西司や、タンスの角で足の小指を負傷して涙目になっている西司、料理をする母を手伝う西司、母の肩を揉んでいる西司、テレビを観ながら母と笑い合っている西司。もう二度と中を覗けないのに、わたしは、その携帯電話をずっと捨てられない。
西司が今まで古い携帯電話を使い続けていたのも、案外同じような理由なのかもしれない。西司の携帯電話にも、捨てられないものがたくさん入っていたのかもしれない。そう考えると、わたしたちは、やっぱり似たものきょうだいなのだろう。
あの事件の、わたしは四番目の被害者だった。わたしの前に殴られた三人の女の子たちは、今、どうしているのだろう。そんなことを、時々思う。
わたしみたいになっていないといい。毎日を、こわい思いをせずに過ごせていたらいい。
彼女たちの幸せを、ほんの少しだけ願って、わたしは西司の隣を歩く。
了
ありがとうございました。




