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抜けるような青空、という表現があるが、人口が少なく殆ど汚染されていない惑星ソランのリソラ大陸の空は青を通り越し、宇宙の深い闇色を透かした紺色をしている。
今、その澄んだ青い空を引き裂く轟音とともに一本の飛行機雲が過ぎって行った。
仮設発着場から離陸した小型シャトルが、収集されたサンプルを積載したコンテナとともに航海軌道上の宇宙ステーションへと向かって行くのだ。
人々が去り閑散とした発着場のはずれで、紺碧の空に伸びる白い飛行機雲を見上げる二人の黒い人影があった。
襟の大きな黒麻のノースリーブワンピースを着たアリスと、ブラックジーンズに黒いジップアップシャツを羽織ったクロウだ。
「フリンの乗ったシャトルは、宇宙ステーションまで何時間で着くんですか?」
長身から見下ろすアリスは、黒い服のせいか平生より華奢に……色蒼褪めて見える。
「五時間よ」
目を合わすことなく答える声が硬い。
運命の鉄槌が下される?
「よく似合っていますね、その黒いワンピース。……喪服のつもりですか?」
……違う。
アリスは太陽にとけて薄くなってゆく飛行機雲から目線を引き離し、怒りの篭った黒瞳を自分の傍らに立つクロウへと向けた。
鉄槌を下したのは、『運命』なんかじゃない。
食いしばった歯の間から押し出すように彼女はクロウに言った。
「あんた、『人魚の肉』だと知っててフリンにあの皿を勧めたわね!」
忘れようとしても忘れられない、あの時の事は。
悪夢のように鈍く深く、眼裏に残る場面。
フリンの肘に当たった白い皿が床に落ち、幾多の破片に砕けた白磁とともに料理の残りが床に飛び散った。
駆け去るフリンのただならぬ様子と物音に驚いて、食事と歓談を楽しんでいた人々のざわめきが一瞬止み、何事かと彼らに視線が集まった。
驚きの手前で固まったような……一人ひとりの表情まで思い出せる。
「ちょっとした意地悪ですよ。いいじゃないですか、別にあの料理の人魚が、彼の『ウンディーネ』だったわけじゃないんですから」
悪びれる様子なくアリスの怒った顔を真っ直ぐに見ながら、クロウが微笑む。
「もっとも、その後のアリスの方が、私よりもずっとウワテだったと思いましたけど」
思い出し笑いで口元の笑みをいっそう深め、さらさらと白金の髪を弄ぶ様には罪悪感の欠片すら見られない。
「違う」
アリスは激しく頭をうち振るい即座に否定した。
「……違うわ。あんたが言わせたのよ!」
食堂と中型飛空艇とを結ぶ薄暗い廊下の先に、フリンは見つかった。
これ以上ないほどに蒼褪めた顔に、涙の後を幾筋もつけた酷い様子をしている。
「済まないフリン……。知らない事と言え……私は……」
心配顔で近づくクロウに力ない笑みを浮かべ、左右に首を振るフリン。
「クロウ教授のせいじゃありません……。だけど……どうして……あんなに美しい生物が、この惑星では保護されないのか……」
沈痛な呟き。
クロウとともにフリンを追ってきたアリスは、悪夢のようなコトの展開に、ボンヤリと鈍った頭で、それは、『人魚が固体数に問題がない食用魚類だからだ……』と考えた。
「私も、倫理上問題だと思うのですがね……」
教え子の肩に手をまわし労わるような表情のクロウの言葉に、反射的に心の声が反論した。
魚相手に『倫理』ですって? 人魚は高知能の哺乳類でもないのに、フリンが勘違いしてしまうじゃない。
「僕は……人間であることが……情けないです」
沈痛な色のフリンの青い瞳から涙の雫が零れ落ち、アリスの心にザワザワとした漣を立てた。
緩やかな歩調で歩み寄るアリスをクロウが振り返る。
「ああアリス……来たのですね。キミは今日、何かフリンに言いたいことがあったのでは無かったのですか?」
何を言っているのだろう、この人は?
言いたいことがあるなどと、彼女は一言もクロウに言いはしなかった。
だが、次々と義兄の頬を伝う涙を見つめるうち、感情を表面に表さない固い表情に反してアリスの内面の漣は激しいものになってゆく。
『あれ』はフリンのウンディーネでは無いのに……見も知らない人魚の為にキレイな涙を流すフリン。
胸が苦しくなる。
暖かい空気の中にありながら、アリスは自分の手足がすっと冷えてゆくのを感じた。
穢れのない心と、涙。
……その屈託無さを見ていると、苦しくなるの……フリン。とても、イライラするのよ。
何一つフリンに「言う」予定の事柄などなかったのに、言葉は自然にアリスの唇を滑り出た。
「人魚に……積載許可を……あげるわ」
……と。
運命の鉄槌を、下すのは───。
サラリと軽く白金の髪を揺らして、クロウは緑色の瞳を青い青い空へと向ける。
上空の強い風に吹き散らされて、飛行機雲は薄く消えかかっている。
今はもう砂粒ほどの大きさもなくなってしまった飛空艇を見上げる白皙の横顔。
「だけどアリス。あなたが、自分で言い出したんですよ。人魚……ウンディーネを№116のコンテナに乗せることを、ね」
視界から消え去った飛空艇からクロウの瞳は自分の傍らで立ち尽くす、白い少女の顔へと移された。
「肺呼吸すらできない魚ふぜい……気に病むことなどありませんよ」
自愛に満ちた口調でありながら、それを言うクロウの口元には残酷な笑みが浮かべられている。
「たとえ……」
アリスはクロウから顔を背ける。
しかし、語られる言葉からは逃げることは出来なかった。
「たとえ、エアポンプがついてない事を承知で彼のウンディーネに『№116』のコンテナを使わせたとしても、ね」
『酸素欠乏』
……今頃フリンの目の前で人魚は死のうとしている。
「あんたが……言わせたんだわ。フリンに人魚を海獣だと思い込ませて……!」
うつむいたアリスの目の下にはあちこちに雑草の伸びかけた、滑走路。
黒いスカートから伸びた足元には、身にまとった黒い服よりももっと黒々とした影がわだかまる。
「しかし、状況から現状を選択したのは他でもない、あなたですよ……アリス」
激しく反駁する彼女に対し、かわらぬ冷静さを保った声色で、クロウは容赦なく事実を指摘する。
そう、それは確かに事実だった。
「───そうよ」
荒げていた声と感情を納め、アリスは憮然として顔を上げる。
クロウはあっさりとそれを認めたアリスを面白がっているのか、驚いたのか、意外そうな表情で肩をすくめて見せた。
「№116コンテナだったら、エアポンプは無くても『冷凍保存装置』だったらあるじゃないですか。魚ならあれで充分安全に宇宙ステーションまで仮死状態で運べますよ?」
悪びれた様子もなく親切そうに説明するクロウに、アリスは鼻先で笑ってみせる。
「人魚を「海獣」だと思い込ませたのは、誰よ? 哺乳類だと思い込んだフリンに「冷凍保存装置」なんて、考えつくと思って? あの装置じゃあ哺乳類を仮死冷凍できないことくらい、誰だってわかっているじゃないの」
きっと、今頃フリンの目の前で、彼の『ウンディーネ』は酸素欠乏などという馬鹿馬鹿しい原因で、死のうとしているだろう。
助ける方法がありながら、彼には人魚を救う事が出来ない。
……そうなる事をアリスは知っていた。
知っていて、仕向けたのだから。
アリスの頬を、転げるように涙の雫が落ちていった。
涙の雫は、自分の意思とは関係なく次々と零れ落ちてゆく。
自分を今まで冷静な人間と思っていた。
いくらお勉強が出来て優秀でも、自分の心が子供である事を知らずにいたのだと思い、あまりの馬鹿馬鹿しさにアリスの口元は笑いの形に歪んだ。
「……今頃気がついたわ。あたしはフリンが好きよ……。でも、彼の『ウンディーネ』になりたいわけじゃないわ。……これがこの前の、あんたの問いの答えよ」
「私は……フリンみたいな人間になりたいのよ」
フリンのように屈託無く、愚かで優しい人間に……。
「……無理でしょう、あなたには」
普段と同じ、容赦の無いくらい冷静な口調でもっともな事を言うクロウに、アリスは笑おうとした。
なのに、口角を持ち上げるだけの単純な表情筋の制御が困難だった。
涙の粒は、次々と零れ落ちる。
何もかも、制御不能。
「理解ってるわ。それを認めるのが悔しいから……私は……」
好きだけど、憎かった。
「フリンを……傷つけてやりたかった」
涙の下からの搾り出すような言葉。
アリスの頬に、ヒンヤリとした手指が触れた。
驚いて顔を上げた彼女の目の前に、埃だらけの滑走路に両膝をついたクロウの、心配そうな緑の目があった。
「アリス、泣かないでください。悪いのは、何も知らないフリンです」
言いながら自分のポケットを探るがハンカチを見つけることが出来ず、クロウはそのまま手指でグイグイとアリスの頬の涙の跡を拭う。
「どうせ人魚は死ぬ運命なんですよ。……素人が予備知識もなくマンボウを飼うのと同じ事でしょう。飼育できる筈がない」
不器用に一生懸命自分の涙を拭ってくれるクロウを、アリスは新しい不思議な生物を見つけたような気持ちになる。
「クロウ……あんたは、どうしてそんなにフリンに意地悪なの?」
「フリンはアリスを悲しませるから、大嫌いです。愚かな……物語の中の王子のようなフリンよりも、『アリス』の相手なら『ドジソン教授』の方が似合うと思いませんか? あなたは私を好きになった方がいいですよ」
いつも通りの口調で、あっさりとそんなコトを言い出すクロウに、数秒間、アリスの思考回路が停止した。
制御不能に溢れていた涙も、一瞬で止まる。
言葉の意味を漸く理解したアリスが、クロウの手を振り払って後ずさった。
「な……な……!?」
黒い瞳を大きく見開いたアリスのあまりの驚きっぷりに、クロウの顔に苦笑が浮かんだ。
「前にも言った筈です。……やっぱり本気にしていませんでしたね?」
アリスの黒瞳が真円に近く見開かれた。
「あんた……だって、それじゃあ……ロリータ……───」
「5年後にかけているんです。キミは間違いなく美人になりますよ」
膝についた埃を手で払いつつ、ほっこりと笑って言い切るクロウ。
急激にアリスの心拍数が上がった。
一体何がどうなれば、こんな展開になるのか……。
先刻から激しい感情の振幅を繰り返したせいで、ひどく疲れた気持ちになった。
コトの流れが予想を超えすぎていて、怒りを覚えるのも驚愕し続けるのも馬鹿馬鹿しいような虚脱感さえ覚える。
「あんたには……踊らせられっぱなしな気がするわ……」
疲れた声での呟きに、アリスを揺さぶりまくる張本人は涼しい顔で
「では、受動的ではなく能動的に「一緒に踊る」と言うのはどうですか?」
などと、惚けた事を言っている。
余裕有り気なその表情を見ているうちに、アリスは心の裡に、むくむくと反発心が沸き起こってくるのを感じた。
「……あんたの場合ドジソンってよりも、悪魔じゃないの。悪魔との舞踊なんて冗談じゃないわよ……」
「私がメフェストフェレスなら、……キミはファウスト博士ですか?」
クロウは眉間にかすかな皺が寄った。
「……なによ、不服そうだわね」
「だってアリス。……あの話、たしか最後はメフィストフェレスが見ている前でファウスト博士の魂に逃げられるんじゃ……」
「あら、気がついたの。アリス・リデルだって、大人になったらドジソン博士になんて、見向きもしなかったでしょうしね」
どんどんとクロウの眉間の皺が深まってゆくのを見るうちに、思わず知らずアリスの口元に笑みが浮かんだ。
クロウの顔から目線を上げて紺色に近い青空を見ると、先ほどまでくっきりと白い筋を引いていた飛行機雲がもう殆ど消えかけていた。
チームの引き上げ終了まで、あと一週間ほどこの地にとどまった後、アリスは学都へと帰省する。
そこには、何の手立ても講じられずに『ウンディーネ』を目の前で失ったフリンが、絶望と失意の底に沈んでいる事だろう。
……そうなるように仕向けたのは、誰でもなく彼女自身なのだ。
「……でも……そうね。時に、踊るのもいいかもしれないわね」
空を見上げたまま、誰にとも無くアリスは呟いた。
「さ、あたしは仕事に戻るわ」
とりあえず、彼女にはやらねばならない仕事がまだ山ほどあった。
忙しい日々が暫く続くだろう。
……今頃、フリンは苦しみ悶える『ウンディーネ』を前に、気も狂わんばかりの思いをしている事だろう。
彼はその無邪気さと愚かさゆえに『ウンディーネ』を救うことは出来ない。
何事も無かったかのような様子で離発着場を後にするアリスの後ろを、黒い服のクロウが、影のように黙ったまま歩いてゆく。
もしも、クロウの事を好きになれたのなら、クルクルと輪を描いて踊るのも、楽しいかもしれない。
いつの日か、人魚の屍とフリンの恋を踏みしめながら、残酷さなど知らぬ顔で、アリスはメフィストフェレスと踊るのだ。
fin




