第17話 新書を書かせた者
翌朝、サマンサは三冊の新書と、厚い封筒を抱えて旧保守室へ来た。
「寝ました?」
「二時間」
「ジオンニ閣下と競わないでください」
「勝つ気はないわ」
そう言いながら、彼女は机へ書類を並べた。
出版社の原稿受付簿。
校正刷り。
印刷所の受領控え。
書店への納品票。
そして、著者本人が保管していた原稿の写し。
「著者のセドリック・ハーンに会えました」
クイリーが顔を上げる。
「事故遺族という紹介は?」
「本当。十年前の事故で兄を亡くしている」
完成した新書には、事故直前の氷圧を実際より低く見せる表が掲載されている。
だが、セドリックが三か月前に出版社へ持ち込んだ原稿には、その表がなかった。
本文には、ただ一行。
『事故三日前、第三観測点では通常値を大きく上回る氷圧が記録された。添付資料参照。』
「一二八という数字がない」
クイリーが言う。
「初校にも二校にもない」
ヴイアンが校正刷りを重ねた。
「追加は印刷開始の十日前です」
新書が出回った直後にサマンサが突き止めた差し替え時期と一致した。
「著者本人が追加した可能性は?」
「低いわ」
サマンサは入退館記録を出した。
「その日、セドリックは北門外の療養院で母親に付き添っていた。出版社へ行っていない。追加資料の添付票にある署名も本人の筆跡と違う」
「では誰が?」
ジオンニが問う。
サマンサは一枚の紹介状を中央へ置いた。
『著者代理人として、追加の公的記録を提出する。交通院保管資料の写しであり、出典確認済み。』
署名は、グレイン・ホルツ。
「出版仲介人。著者と出版社をつなぎ、資料調達も請け負う男よ」
「交通院との関係は」
「直接ではない。でも、ある」
サマンサが支払記録を出す。
ホルツは過去三年、王都交通広報協会から継続的に編集協力費を受け取っていた。
その協会には交通院の現職職員と退職者が理事として名を連ねている。
理事長は、交通院次官の義兄だった。
クイリーは息を吐く。
「つながった」
「金の流れはね。誰が偽資料を作らせ、誰が命じたかまではまだ分からない」
「ホルツ本人は?」
「今朝から所在不明」
ヴイアンが確認表へ一行ずつ書く。
『著者は事故遺族。』
『初回原稿には偽表なし。』
『印刷十日前、仲介人名義で追加資料提出。』
『著者署名は本人筆跡と不一致。』
『仲介人には交通院関連団体から継続報酬。』
「ここから先は推測です」
「それでいい」
ジオンニが言った。
クイリーは新書を見た。
「セドリックさんは、なぜ書いたんです?」
「兄の死について、十年間説明されなかったことを世に出すため」
原資料の半分は兄の遺品。
残りは三か月前、匿名の提供者から渡された事故関係資料だった。
その中には、六客目が記録していた第三保守詰所の停止提案と一致する内容もある。
「最初の告発資料は本物だった可能性が高い」
クイリーが言う。
「ええ」
「なら、匿名提供者とホルツは別?」
「私はそう見てる」
サマンサは指を二本立てた。
「最初の人は、真実を外へ出したかった。後から入った人は、その真実ごと信用を壊したかった」
本物の記録を渡す。
遺族に書かせる。
出版直前に偽物を混ぜる。
偽物が見抜かれなければ、事故前の危険を小さくできる。
見抜かれれば、本全体を偽造本として処理できる。
「著者まで使ったんですね」
クイリーの声が低くなった。
ジオンニは短く答えた。
「最低だな」
◇
昼前、セドリック本人が学院へ来た。
痩せた、地味な服装の男だった。
王都を騒がせた告発本の著者には見えない。
「クイリー技師ですね」
「はい」
「兄の記録を調べていると聞きました」
「まだ全部は分かっていません」
「それでいいです」
セドリックは革鞄を握った。
「分からないことを、分かったことにされるのが一番嫌なんです」
クイリーは十年前の記録を思い出す。
警告。
再測定。
測定誤差。
増便優先。
「あなたの原稿へ、印刷直前に偽資料が追加された可能性があります」
「……やっぱり」
セドリックは俯いた。
「私の名前で売られたんですよね」
「あなたが追加した証拠はありません」
「でも、兄の死を書いた本です」
ジオンニが口を開いた。
「責任は、正しく分けるべきだ」
セドリックが見る。
「あなたが本物の資料を世に出そうとしたことと、誰かが偽物を混ぜたことは別だ。後者まであなた一人に背負わせるつもりはない」
しばらくして、セドリックは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
サマンサが彼へ尋ねる。
「公開の場で、原稿の経緯を話せますか」
「公開?」
「検証会を開きます」
クイリーが続きを説明した。
「新書が正しいと宣言する会ではありません。王立測候台の原記録、新書の原稿、完成版、旧保守記録を同じ場所で比較します」
「偽物も公開する?」
「はい」
「本物も?」
「確認できたものだけ」
セドリックは少し考えた。
「出ます」
「厳しい質問も来ます」
「受けます」
そして、彼は一つだけ頼んだ。
「兄が止めようとしていたと確認できたら、名前を出してください」
クイリーは首を横に振らなかった。
「第三保守詰所から停止提案が出たことは確認済みです。でも、提案者個人までは未確認です」
セドリックの目が落ちる。
「だから調べます」
クイリーは言った。
「出せる名前だけ出します。出せないことは、出せないと明記します」
「……それでお願いします」
◇
午後、交通院は予想どおり声明を出した。
『新書掲載資料に複数の不整合が認められた。事故原因を再評価する根拠としての信用性には重大な疑義がある。』
「早い」
クイリーが言う。
「向こうは、ここを待っていたんでしょうね」
サマンサは声明文を机へ置いた。
「偽物が一つ見つかれば、本物もまとめて捨てられる」
「では、こちらも声明を」
ジオンニが言う。
「駄目」
サマンサは即答した。
「交通院が『偽物だ』、こちらが『本物もある』と言い合えば、王都の人には政治争いにしか見えない」
「どうする?」
彼女は笑った。
「センセーションには、センセーションの使い道があります」
新書の帯を指で叩く。
『十年前の惨事は防げた――封印された記録を初公開』
「結論をこちらから言わない。目の前で確かめてもらう」
「公開検証会」
ヴイアンが言った。
「ええ」
内容は四つ。
一、新書の原稿控えと完成版の比較。
二、王立測候台原記録との照合。
三、旧保守記録の読み出し手順の公開。
四、確認済み事項と未確認事項の区別。
「手順書を先に公開します」
ヴイアンが言う。
「新聞社にも同じ資料を渡す。質問時間も設ける」
「器の実演は最低出力で」
クイリーが続ける。
そこへケンジが入ってきた。
「人を地下へ入れるな」
「入れません」
「共鳴負荷を上げるな」
「上げません」
「ジオンニ公爵の症状を実演に使うな」
「使いません」
「なら反対しない」
サマンサが笑った。
「全部先に言うのね」
「言わずに事故になったのが十年前だ」
笑いが消えた。
正しかった。
分からないことを、問題なしにしない。
危険を、先に言う。
今度は、そのやり方で進める。
公開検証会は三日後、学院大講堂で開くことになった。
新聞四社すべてが取材を申し込んだ。
「三百席では足りないわね」
サマンサが言う。
「外庭にも音声伝達板を出します」
「ますます騒ぎになる」
「そのためにやるんでしょう?」
クイリーが返すと、サマンサは満足そうに笑った。
「騒ぎって、放っておくと人を傷つける。でも向きを変えれば、人を検証の場まで連れてこられるの」
王都を揺らした新書は、真実そのものではなかった。
だが、その中には本物の叫びがあった。
事故遺族が世へ出そうとした記録。
そこへ偽物を混ぜた仲介人。
交通院へつながる金の流れ。
まだ命令者までは分からない。
そして、七客目もまだ交通院の資料庫にある。
夕方、ジオンニが窓際で言った。
「次は、父の記録を出す」
クイリーが振り向く。
「公爵家に残っている。事故後の応急処置について父が書いた私記録だ」
「今まで読まなかったんですか」
「読めなかった」
彼は一度止まり、自分で言い直した。
「怖くて、読まなかった」
慰霊館で事故前夜の記録を読み終えたとき、クイリーは聞いた。
必要だからではなく、知りたいか、と。
その答えが今、出た。
「明日持ってくる」
「一緒に見ます」
試験運行まで、あと十日。
王都を騒がせた一冊は、真実を隠すための煙ではなく、真実を確かめる場所へ人々を集める灯りへ変わり始めていた。




