最終話.パンツの未来
下からの歓声が、さらに大きくなる。
氷室が唇を噛む。
「……時間がないわね」
俺は箱から視線を外さない。
「なら――」
小さく息を吐く。
「俺らでやるしかないだろう?」
「でも、どうやって」
即座に返ってくる。
「スピーカーが二つ。照明が二つ。飾りも左右で二つ」
指で順に示す。
「全部、一組ずつだ」
一拍も置かず続ける。
「なのに、こいつだけ片割れがない」
氷室がすぐに反応する。
「……単体ってこと?」
「そうだ」
視線を落としたまま頷く。
「パンツと同じだ」
「は?」
「人はパンツを履いてるだろ」
「パンツだけあったら、おかしい」
氷室が額を押さえる。
「例えが終わってるわね……」
しゃがみ込む。
配線に指を滑らせる。
「対称機材を a、単体機材を b とする」
「追加された予備を α、未接続を β、切断済みを γ」
「……」
「なら全体はこう置ける」
空中をなぞる。
「N = Σ(2a) + Σ(b) + α - β - γ」
氷室が式を追う。
「……対称は全部 2a 側に入る」
わずかに間を置く。
「つまり偶数になる、ってことよね」
「そうだ」
氷室の視線がそのまま動く。
「α は追加、β と γ は減るだけ……」
考えをなぞるように、言葉が続く。
「全体を揺らすだけで、本質には触らない、ってこと?」
口元がわずかに上がる。
「流石に理解が早いな」
「……なら残るのは Σ(b)」
「単体」
「だからズレるのはそこだけ」
「そうだ。こいつが独立してる」
指が止まる。
一本だけ、他と違う線。
氷室が息を呑む。
「……間違えたら?」
「終わりだ」
ふっと笑う。
「安心しろ」
「俺は――パンツで負けたことがない」
「私に負けたじゃない」
「そうだったか」
「そうよ」
指をかける。
「いくぞ」
「うん」
引き抜く。
ぷつん。
…
……
………
何も起きない。
氷室が息を吐き出す。
その場に座り込む。
「……止まった?」
軽く頷く。
「ああ。パンツ算に間違いはない」
下から歓声が広がる。
舞台は何も知らないまま進んでいる。
氷室が立ち上がる。
スカートの埃を払う。
少しだけ、視線を逸らす。
「……その」
小さく口を開く。
「さっきの……ちょっとだけ、カッコよかった――」
歓声が一気に大きくなる。
言葉がかき消される。
「ん?」
顔を向ける。
「何か言ったか?」
氷室が一瞬だけ固まる。
すぐに顔を逸らす。
「……っ、何も言ってないわよ!」
「そうか?」
「そうよ!」
なぜか声が強くなる。
「ほら、行くわよ!」
「なんで怒ってるんだ」
「怒ってないわよ!」
背中を向けて歩き出す。
その後ろを追う。
舞台の光が、隙間から差し込む。
歓声がさらに大きくなる。
何もなかったように、世界は進んでいる。
……こういうのも悪くないな。
⸻
あの日から、数ヶ月が経った。
事件は機材トラブルとして処理されたらしい。
犯人がどうなったかは知らない。
――というか、興味がない。
ただ一つ。
あのときから、少しだけ変わったことがある。
ガラガラ、と扉を開ける。
「待たせたな」
教室に入ると、いつもの顔ぶれ。
小森、爽太、あかり――
そして。
「遅いわよ」
氷室が軽く手を振る。
「ああ、悪い」
席に近づくと、爽太が言った。
「進路面談、長かったな」
「まあな」
氷室がこちらを見る。
「で、どうするの?」
少しだけ間を置く。
「教育大に行く」
爽太が目を丸くする。
「は? お前、教師になるの?」
「ああ」
「なんでまた」
一瞬だけ、あの日の光景がよぎる。
舞台の裏。
何も知らずに立っていた背中。
歓声。
「青春を見守りたい」
間髪入れずに爽太が返す。
「絶対違う」
氷室が少しだけ顔を逸らして言う。
「……意外と似合ってるじゃない。癪だけど」
あかりが大きく頷いた。
「先輩なら、いい先生になるっす!」
小森がふっと笑う。
「じゃあ、安心だね」
「何がだ」
「だって」
少しだけいたずらっぽく笑う。
「何かあっても、助けてくれるんでしょ?」
「……さあな」
爽太が口を開く。
「……で、今日はどうすんだよ」
氷室がスマホを見ながら言う。
「しおりがもう待ってるって」
「よし、行くぞ」
あかりがぱっと顔を明るくする。
「やった! どこ行くっすか?」
小森が小さく言う。
「映画とか、どうかな?」
「いいね!」
騒がしい声が教室に広がる。
そのとき。
ピコン。
頭の奥で、小さく音が鳴った。
足が止まる。
「どうしたの?」
氷室が振り返る。
「パンツだ」
「やっぱりそれじゃない!」
「うむ」
どこかで、ぼそりと声がした
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。




