第63話
穏やかな休日の午後、秋も深まる季節に進は自室にいた。
何をしていた訳でもなく、何もしないをする。久しぶりに落ち着いた気持ちで、濃く淹れたコーヒーが部屋に彩りを与えていた。
凪。風もなく音もない。それを窮屈に感じることなく、むしろ感覚が無限に広がるような錯覚すら覚えていた。
色々あった日々から一転、平穏を絵に書いたような今日この頃。愛する人との逢瀬もよいが、たまにはひとりでなにもせず、何も考えず、何にも囚われない日を無駄に過ごすというのも変え難い幸福だった。
その静寂を切り裂いたのは、一本の電話だった。
「はい、もしもし」
電話の相手は翼である。いつものように軽いあいさつを交わして、すぐに本題へと移る。
「……いやいや。急に何があったんだよ」
告げられた言葉を進はまず否定していた。それもそのはず、知らない、関わらない間に事態は急変していたのだから。
一言二言話を交え、急に予定を入れられると共に電話が切られていた。スマホをテーブルに置き、湯気が立ちのぼるコーヒーで一息つく。
麗らかな午後、それが終わりを告げた事を密かに感じていた。
電車に揺られること一時間強、進は西日の橙から目を背けるように俯いていた。
向かう先は実家の方向、その間スマホに送られてきたネットニュースを眺めていた。
『人気モデル、深夜の密会。相手は四十代女性か』『電撃入籍、出会って一か月のスピード婚』
「……そうはならんだろ」
閑散とした車内で独り言がさ迷い歩く。
普段なら車を使うところだがあいにく車検中、平日はあまり使わないからと代車の費用をけちったのが仇となっていた。
そして何用かといえば、婚約祝いと、なぜか主賓が自分で主催したささやかな宴会に招待されたのである。
面倒くさい、その一言で断ろうとしたものの、翼から来るように言われたのなら断れるはずもなく、金曜日の仕事終わりで電車に乗っているのであった。
気になると言えば噓になる。が、おそらく面倒が勝つような気がして、進は重い頭を上げられずにいた。
「四十って何よ! 失礼だと思わない?」
紀美が叫ぶ。もう何度目かもわからない。
ネットニュースの件で、そこだけがいまだに納得できていないのはわかるのだが、聞いているほうからすれば鬱陶しいことこの上ない。
酒の入った紀美は相変わらず絡み上戸で、その被害者は進、ではなく真喜子だった。一応既婚者になったのだから、そのくらいの分別はさすがにつくらしい。
「怜くんだっけ、本当に良かったのかい?」
その横で、元妻が死んだ目をしたまま明後日の方向を向いているのも構わず、克樹が結婚相手の男性、いや少年と話していた。
十九と、聞いていただけにまだ幼い様相である。進は一度会っているとはいえその時は夜、まじまじと見ればなるほど、モデルをしているだけあって顔立ちは一般人と一線を画している。
思わぬ大逆転ホームランの経緯は聞いていた。ホテルに入るところがネットニュースになったその日、紀美は怜の所属する事務所へと呼び出されていた。当然別れる事を推奨されたのだが、既に出回った事実を消す術などなく、そこで男気を見せたのが怜だった。
『俺、結婚します』
……いや、男気というか、若さゆえの無鉄砲さというか。
既に周知されてしまったなら、事実にしてしまえばいいという発想はわかる。夫婦ならやましいところなどないのだが、何故か交際ではなく婚約と飛躍したのが子供らしい。
……そういえば進も人のことを言える立場ではなかった。
それはそうと、当然周りは反対した。年齢差、お互いの生活、そもそも紀美が何者かすら知らない人間からしてみれば、若い果実を狙うハゲタカにでも見えたことだろう。
ただ混乱していたのは紀美も同じだった。事務所に来るまで何を言われるか戦々恐々としていたのだ、もしかしたら今後の芸能活動に支障をきたしたとして、多額の賠償金を請求されるかもしれない、そんななか自分から言い出した訳でもなく求婚された。あまりの現実味のなさに、放心しながら「よろしくお願いします」と答えられたのはある意味僥倖だった。
なってしまえば周囲は何も言えず、事務所公認で婚約を発表、どんな非難をされるかと思えば、何故か反応は良好だった。まだあまり有名ではなかったこと、ファンの多くがローティーンであるから嫉妬も少なかったこと、世のアラフォー世代に多大な勇気を与えたなど、まぁなんとも身勝手な理由等が重なって祝福されるという誰も予期せぬ事態へと発展していた。おかげで一躍時の人とまではいかないものの、テレビ出演の打診まで来るという豪運を引き寄せては関係者ももうノーとは言えない状況だった。
それでも老婆心は生まれるというもの、特に紀美の粗暴な性格を知っている面々からすれば、同情したくなるものである。後悔して別れるならまだいい、別れられず精神的に追い詰められでもしたら、人生棒に振ることになる、子供のように若い子を修羅の道に進ませるなんて出来なかった。
「はい」
即答である、進は催眠か薬を疑っていた。
まだ出会って二ヶ月と経っていないのだ、好きになるには早すぎて、一生を共に歩むことを決めるのは論外である。と、克樹は言いたいのだけれど、もっとおかしな奴が身の回りにいるので深くは聞けずにいた。
「ちなみに、なんで紀美なんだ? 怜くんだったら他にもっといい人が居そうなもんだけど」
いちいち自分の身に帰っていそうな進の言葉に、怜は晴れやかな笑みを浮かべていた。
「直感です」
「直感……ってどういうこと?」
「えっと……直感としか」
聞き返されて困ったように眉を曲げる。言語化出来ないから直感と言ったのに聞くのはナンセンスだった。
隣のテーブルではその台詞に色めき立つ。中学生らしい反応だが、大人からしてみれば少し怖く映り、
「いやいや、それってどうなんだ? 結婚してから家事も育児も投げ出すような女だったらどうするつもりだったんだ?」
「――ちょっと、それってどういう意味よ」
悪口には異様に耳ざとい紀美が進の横に来る。強く握られた拳が頬をぐりぐりとこすり、痛くはないが非常に不愉快だった。




