第64話
「仲がいいんですね」
進と紀美のやり取りを見ていた怜が言う。
その瞬間だった。
隣のテーブルで珍しく大人しくしていた翼が駆け寄ると、紀美の肩を掴んで引き剥がし、進の膝の上に座る。まるで野良猫のように縄張りを主張する彼女は、一言、
「これ、私の旦那だから」
可愛らしい牽制で、変な誤解を抱かぬように釘を刺していた。
すっかりお馴染みとなった行動も、初見の人からすれば背伸びした子供にしか見えないことだろう、怜は呆気に取られながら、満足気に頬を綻ばせた翼を見ていた。
「えっと……」
「証拠」
そう言って、翼は上を見上げる。当然、進の顔があり、いつの間にか首の後ろに這わせていた腕へ力がかかる。
体重を乗せられて、運動不足の身体が抗えるはずもなく、進は項垂れるように頭を垂れていた。
「……はしたない真似は止めなさい」
十数秒のくちづけの後、進の口から出たのはたいして怒っているでもない言葉だった。
翼の独占欲は今に始まったことではないが、目の前でいちゃつかれては同級生が絶句、大人たちも反応に困ると言った具合である。笑みを浮かべているのは当の本人だけで、進ですら頭を抱えていた。
「……はは。うらやましいですね」
「無理しなくていいから。普通じゃないくらい認識してるし」
怜の取り繕った言葉が進に突き刺さる。それでも矯正しようとは微塵も思わないところが、翼の助長を促しているのだと、まだ進は気づいていなかった。
それから月日は流れ、季節も移り変わる。
懸念だったまうみの学力はみみずのように一定の高さを這うばかりで、受験間際になっても安心できる水準にまでは到達していなかった。
それでもやるだけのことはやったと、試験のために沖縄へと旅立って数日後のことである。
「……」
パソコンの前でかじりつくように見ている生徒たち、そして紀美の姿があった。
時刻は九時、正確にはその数分前。結果発表まで、残り少ない時間を、唾を飲んで待っていた。
「……」
不安が濃く浮かぶ表情には余裕がない。受けた本人だけでなく、その周囲も同様だった。
卒業式もとうに終わった教室は、不快な熱気に包まれていた。緊張に汗ばむ額は、その時を待ち望んでいるようで、永遠に来て欲しくない、そんな矛盾に皺が寄っている。
誰も何も言わず、ただ秒針だけが刻刻と同じリズムを刻んでいる。あと数分が数十秒に変わり、ついにはその時がやってきた。
「……」
「……開きなさいよ」
踏ん切りがつかないまうみの後ろで雪緒が発破をかける。既に受験番号は入力済み、クリックひとつで全てがわかる状況だった。
「……やっぱり家で見る」
「いい加減にしなさい」
ノートパソコンを閉じようとした手を雪緒が掴んでいた。さすがに往生際が悪い、先に痺れを切らしたのは揉み合う二人ではなく後ろで眺めていたさくらだった。
まうみの脇をすり抜けて彼女の腕が伸びる。「あっ」と止めにかかるもタッチの差でさくらがマウスをクリックしていた。
切り替わる画面。まだ心の準備の出来ていないまうみはきつく目を閉じ、しかし誰よりも先に結果を見ようと薄く目を見開いていた。
「……あっ」
そこにはなかなか本題に入らない前置きがたらたらと書き連ねた後に、行を空けて表示されていたのは合格の二文字だった。
「やっ――」
「よしっ、やったじゃない!」
まうみの歓喜の声は、紀美の歓声と背中の強打によってかき消される。一応顧問として、一番近い立場であるから呼ばれているだけで特に何か手伝った訳でもないのに、誰よりも前に出て喜べるのは感受性が豊かなのか、ただ図々しいからなのか評価に困るところだった。
げほげほと、むせて何も言えないまうみの頭に手を置かれる。翼がぽんぽんと労いながら、
「高校行っても勉強サボるんじゃないよ」
「けほっ、今は合格の余韻に浸らせてよぉ」
泣き言が響く。翼の言うことはもっともで、入学したから必ず卒業できる訳ではないのだ。これからまた三年間、勉強を主体とした生活を送る上で今の友達はいない、ようやくスタート地点に立っただけなのだと、現実を投げつけていた。
「ま、おめでと」
「まうみ、おめでとう」
「おめでとう」
「みんな……ありがとう!」
それでも大きな壁をひとつ乗り越えたことに変わりはない。気が気でなく卒業式どころではなかった四人は、ようやく一息つくことが許されたのだった。
目尻に熱く滴るものを浮かべ、まうみは提案する。
「……ねぇ、最後に一曲演奏しない?」
三年間愛用していた楽器も来月からは市の物となる。廃棄されるか他のところで再利用されるかは未定だが、少なくとも触る機会はこれが最後、四人は静かに頷いていた。
後日談である。
二十五歳になった翼は黒いイブニングドレスに身を包み、その時を待っていた。
隣には緊張を誤魔化して頬を赤らめた夫となる男性の姿があり、お腹の中にはひとつ、命が宿っている。
結婚式は既に終わり、着替えをしての二次会である。親の仕事を半ば継いでの式は、関係者を多く招いたせいで堅苦しくて肩がこった。ようやく拘束具のようなウェディングドレスから解放され、二次会の、小さなホールの前に立っていた。
思えば色々あったと翼は想起する。高校、結局行くこととなった大学でも音楽に携わり続けたせいで、その手の関係が今なおこびりついている。どうせならと、身内だけの小さな演奏会にしてしまおうと提案したのは中学の時の部長であった。
手の中にはもう十年来となる相棒、卒業祝いにと愛しの人が買ってくれたトロンボーンは、当時の輝きそのままである。ここ数年は手に取ることも少なくなってしまったが、趣味で演奏するくらいならそれなりなものだと自負していた。
ホールの中は見知った顔で埋め尽くされているはずである。時々漏れ出るのは金管の、木管の、打楽器の、鍵盤楽器の、弦楽器のと節操がない。
「おっさん、行こう」
終ぞ呼び名は直らず。楽器を持たない手で、気の乗らない顔をしている夫を引き寄せる。嫌々と言うのは口だけで、いざ演奏になると誰よりも格好いいのは翼だけが知る事だった。
扉を開けば耳が壊れそうな程の音の奔流に目が眩む。翼はその中を、三人でゆっくり歩み出していた。
――Fin――




