第54話
だからと言って中卒は論外である。
なのでまずすべきことがあった。
「とりあえず、志望校の過去問解いて、実力見んとな」
軽々しく言った言葉を、進はすぐに後悔することをこの時はまだ知らなかった。
ファミレスのドリンクバーを二往復する程度の時間が経って、進は腕を組んでいた。
今時過去問もネットに転がっているため、準備にさほど時間は必要ない。近くのコンビニでコピー機から印刷するだけでいいのだから、いい時代になったと言えるだろう。
当然解答に解説もついている。同じ問題を女子生徒四人が解いている間、終わった問題から紀美と二人で採点していた。
結果、口が閉じなくなると、誰が予想しただろうか。
「五百点満点中、百三十点て……」
十分赤点である解答用紙を見て、進はため息をつくことすら忘れていた。
ひどい、あまりにひどすぎる。馬鹿という言葉がまだぬるく感じるほどの結果に、頭痛がしてきていた。
「ごめんなさい……」
その魔物を生み出した張本人も意気消沈、肩をすぼめて萎縮している。正直言えば、縮んでいる時間があるなら一問でも多く問題を解けと言いたいくらいなのだが、翼のいる手前そんなこと――「謝る時間があるならペンを持ちな」――言えないはずだった。
これに一番仲のいい雪緒が反論するかと思いきや、彼女も唇を真一文字に結んで頷くばかり。ことの深刻さがまうみの味方をさせないでいた。
「よし、志望校を変えよう」
「え……」
進の言葉に、まうみが絶望の声を上げる。
何とかしてあげたい気持ちはある、しかし、現実はそう甘くない。それを伝えることが今進に出来る最善手だった。
「いいかい、すぐに成績が上がるなんて漫画の中の話なんだ。皆それがわかっているから毎日こつこつ勉強しているんだよ」
「あんた、勉強してなかったじゃん」
「紀美、まじで今だけ黙ってろ」
余計な茶々を入れる同級生が鬱陶しい。進は虫を払いのけるように手首を動かしていた。
こほん、と気を取り直し、
「どうしてもこの高校じゃなきゃ駄目?」
「……はい」
「なんで?」
「……全国大会に出ている公立高校がここしかないんです」
……なるほど。
いい話だ、と進は思う。思うだけなのだが。
沖縄に行ってしまえばそう簡単に本州に来ることは叶わない。その数少ないチャンスをものにするため、全国大会で相まみえる、そんなスポーツ漫画のような展開を期待しているのだった。
その夢を実現させるためには、やることは一つしかない。
「じゃあ、勉強するしかないな」
「はい……」
「一日三周、中一から中三までの教科書読んで、最後に問題集を解く。ひと月続ければある程度形にはなるだろ」
「さ、三周ですか?」
驚くまうみだが、
「余裕だろ。薄っぺらいし挿絵も多い。大人になったらこの何倍も分厚い本を一日で読むんだし」
なぁ、と進が紀美に振ると、「まぁ……そうね」と答えが返ってくる。
なにしろ、スタート地点がずいぶん手前なのだ、多少の無茶をしない限り追いつくことは出来ない。まうみだけが出来る画期的な勉強法がない以上、地道にこつこつとやる以外の方法はこの世に存在していなかった。
「私も手伝うから」
「ゆきおぉ……」
これからの艱難辛苦に涙を浮かべるまうみは親友の暖かい言葉に抱き着いていた。雪緒が若干暑苦しそうに、嫌な顔をしていたのは今後の苦労を予想したからだろうか。
しかし、と進は考える。助言はしたが身を切った訳ではない。あくまでまうみに夢のため努力しろと、投げやりな対応をしたにすぎなかった。
それだけでは不誠実だろう、と。
「じゃあ、毎日進捗の報告しろ、な」
「……え?」
「え、じゃない。誰かチェックする人間が必要だろ」
「私やりますけど」
案の定とでも言うべきか、雪緒が手を挙げる。
進はすぐさま首を横に振り、
「こういうのはな、他人だからいいんだよ。勉強は退屈でも嫌いになっちゃ身につかん。友達にガミガミ言われるより、知らない人が見てるってだけで気が引き締まるもんだよ」
「他人だなんて――」
「そういう意味じゃないが、気の知れた友人って訳でもないだろ。あ、日中は友達の勉強の邪魔にならない程度に質問しておけよ」
「わかりました」
納得するまうみに、多分これで大丈夫、と進は胸を撫で下ろす。
さっそく勉強に取り掛かろうとするまうみは、ぴたと手を止めて進を見る。
そして、
「でも、翼との間に入ることになるんじゃ……」
「くだらない妄想している余裕があるならもっと厳しくいくよ」
妄言に、翼が噛み付いていた。
で、終わり、解散となるにはまだ話し足りない人物がひとりいた。
「進」
紀美が、並んで座っている進の肩を握りつぶすように手を添えていた。
痛みに顔を歪めながら、面倒そうに眺める彼へ、
「私の話が終わってないけど」
「いやもう疲れたし。明日レジュメにして送っといてくれよ」
かれこれ二時間以上、ファミレスの店員からもきつい視線を浴びるようになっていた。
ろくに注文もせず話しているだけなのだから当然で、せっかくの休日を無為に過ごすことは避けたく思っていた。
「んなもん送ったところで見ないでしょ。ねぇお願いだよー」
本当に頼る相手がいないのか、紀美はゾンビのようにしがみついていた。年老いた身体は相応に重く、進の身体の骨が軋む。
そこまで来ると役得というより恐怖である。外聞も恥もなく縋り付く紀美をなんとか引き剥がそうと手を伸ばしていると、紀美の眼前に鋭く光る銀が向けられていた。
「紀美ちゃん先生、いい加減にしないとその目ん玉、デザートにするよ」
「……はい」
翼が持つ、寸分も揺れないフォークの先を見て紀美は姿勢を戻す。間違いなくやる気だったことに、進は愛情の深さを知っていた。
「で、なんなわけ?」
「気になってる子とこれ以上関係を進展させるにはどうすればよろしいでしょうか……」
「……相手は?」
「合コンの後にナンパした人……」
だろうな、と肩を落とす。そして記憶を辿り、引き寄せたのは二時間も前の言葉だった。
「未成年を飲み屋に連れ込んだのか」
「し、知らなかったんだもん」
知らなかったで済むなら警察はいらない。仮にも教職員がそんな甘い様子では日本の未来は暗いと言わざるを得なかった。




