第53話
まずい、と思い進が止めようと足を進ませる。選曲したのは子供たちなのだが、そもそも志賀との関係は大人にしかない。言い合うにしても相手が違うと考えていた。
その胸に手が添えられていた。翼が静止したのだ。
「大丈夫、うちの部長だから」
「あのじじい、面倒くさいぞ?」
「うん、うちら三人よりは全然だよ」
翼は胸を張って言うが、自慢することではない。しかし謎の説得力により、進は視線だけを志賀に投げていた。
「はい、あてつけです」
まうみの一言に場が凍り付く。そういった意図があったにせよ、普通は隠すものなのだが、おくびにも出さず断言していた。
あまりに清々しい発言を聞いて、志賀ですら何も言えずにいた。それだけにとどまらず、
「もっと私たちを見てください。中には嫌な生徒がいたかもしれません。それでも皆自分で考えて頑張っているんです」
「しかし――」
「――しかしもなにもないです。一般論なんて誰かが作った枠に縛られないで。賢くなければ大人じゃないなんてことないんですから」
聖女のようにやさしく諭す。志賀も身に覚えがあるようで、その顔により深い皺を浮かべていた。
「嬉しかったこと、嫌なこと。全部わかってあげられないけど、頑張れって言うことだけは出来ます。志賀さん、頑張って」
「頑張ってください」
まうみの言葉に続けて雪緒が言う。それだけでなく、「頑張って」とさくらが、「女々しいこと言うな」と、翼が激を飛ばす。
「立場ないな」
「……ふん、酒の席での愚痴を他人に話すような馬鹿な生徒を持ったことに後悔しかないわ」
それはそう。マナー違反であるという指摘に、進は出した身を引っ込めていた。
相変わらず口論に弱い進は置いておくとして、志賀ははぁ、と大きなため息を漏らし、紀美へと向き直る。
「いい生徒を持ったな」
「えぇ、もったいないくらいです」
にっこりと笑う紀美はそれ以上の言葉を必要としなかった。
受けた側、志賀もうん、と頷いて、
「それに比べて――」
「……なんだよ」
憂いを帯びた目が進に突き刺さる。目は雄弁に語るというが、言わなければわからぬことも多々あるのだ。
「少しはマシになれたな」
しかし、志賀の口から出てきたのは意外にも誉め言葉だった。初めての、言われ慣れていない言葉に進は身震いし、
「そうか、死ぬのか」
「阿呆」
短く罵倒される。
それだけ言い残して志賀は背を向けていた。もう言い残すことはない、そんな雰囲気を纏っていたが、進だけは、「暇になったらまた来るんだろうな」と予感していた。
本当に全てのイベントが終わり、進の母校の吹奏楽部はその歴史に幕を閉じた。
いや、遅いくらいである。学生の本分は勉強にあるのだから、これから高校受験に向けて気持ちを切り替えるには時間が足りない。慌てて勉強するくらいなら普段からコツコツと積み重ねておけ? それはそう。
と言っても、田舎の公立高校はそれほど偏差値も高くない。まうみ以外の女子は難なく受験を突破することが目に見えていた。
そう、まうみ以外は、である。
悲しきかな、底辺争いをしていた翼はもう無く、圧倒的差をつけられて最下位を独占している彼女は、進学に頭を悩ませていた。今の時代、大抵の場面で中卒はただのハンデである。ただでさえ、来年からは親友のいない異郷へと引っ越すまうみに、これ以上の負い目を抱えさせる訳にはいかなかった。
そこで生徒たちが取った手というのが、
「……いや、塾行けよ」
進である。部活が終わり、純粋に翼へ逢いに来ただけの彼の元には四人の女子と、何故か紀美の姿があった。
まだ子供はわかる。紀美は何用でいるのだという目で睨むと、
「ちょっとあんたに相談したいことがあって……」
赤らめた顔にはっきりしない受け答え。ろくでもないこと、特に男女の話だと冴え渡る直感が告げていた。
よし、無視しよう、と進は心に決めて、直近の問題へと目を向ける。
しかし、そこに居たのは既に心ここに在らずなまうみの姿だった。
「紀美ちゃん先生、もしかしてお付き合いしてる人の話ですか!?」
「まうみ、ステイ」
身を乗り出すまうみへ、隣に座る雪緒がストップをかける。まるで調教師と尻尾を振る犬だ、首に繋がれた首輪が見えるようだった。
「いや、まだそんな仲じゃないのよ……相手未成年だし……」
「紀美ちゃん先生も、燃料注がない」
今度は翼が紀美を諌める。今のところ邪魔にしかなっていない紀美を帰らせるかどうか、進は真剣に悩んでいた。
聞き捨てならないことを聞いたような気もしながら、進は気持ちを切り替えて向き合う。
しかし、早々にとある問題点という壁にぶつかっていた。
「勉強教えるにしても、どうやりゃあいいんだ?」
そう、教師として専門で学んだ訳でもなく、学生の時に教え方が上手いと褒められたこともない。むしろ教科書を読んでいればそれなりにわかるだろう、を地で行く人間なのだ、人に教えられる人間ではないことを本人が一番自覚していた。
そして、中学の勉強内容などすっかり頭から抜け落ちてもいた。二次方程式の公式も応仁の乱も、図書館のスペルも細胞膜の中にある組織の名称も。何もかも覚えていなかった。
そんな人間が人に何を教えられようか。だから塾へ行けと、大人として正しい答えを導いていた。
「やっぱり塾ですよね……」
「なにか問題でも?」
はっきりとした態度を取らないまうみに、進は前のめりになって問いかける。
「お父さんお母さんがね、教育に熱心じゃないのよ。あ、ネグレクトとかじゃなくて、勉強よりも元気が大事、笑っていれば人生どうにでもなるって信じてるの」
いつまでも踏ん切りつかないまうみに代わって、雪緒が答えていた。
なるほど、と進は姿勢を戻す。
考え方としては悪とは言えない。頭でっかちでコミュニケーションも取れず、うだつの上がらない人間なんて腐るほどいる。そういう人間に限って変なプライドを持っているから、周りも腫れ物扱いして事態は悪化し続けていく。珍しくもない、典型的な嫌われ者が出来上がる構図だった。
それなら人に好かれる方がいい。自分の長所と短所がはっきりしていれば上手く使われる目も見えてくる。愛嬌があれば人より恵まれることもある。そのためには自分を知ってもらうための力が必要だ。親ならば上手く世渡りして欲しいと子供に願う、あまりに当たり前なことだった。




