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第52話

 それが名曲であることは疑いようがなく、曲としてはシンプルな構成であるがゆえ、余分なものを削ぎ落とした美の極地とも言えた。

 と、進は感じていた。少なくとも旬が過ぎれば忘れられるような曲ではない、と。

 民族的な調べはさくらのホルンから始まる。響く音色はアルプスの山脈を彷彿させる、深く穏やかな低音だった。

 ソロのAメロが終われば翼との合奏である。より重厚感が増し、耳に心地よい風が通り過ぎる。和音が共鳴し、単音とは違う音の広がりが生まれていた。

 優しいだけではなく、何事にも動じない芯を感じる。心で聴いて初めて音楽を知ることが出来るのだ。

 いい演奏だ、と進は聞き惚れつつ準備をする。次はトランペット、つまり生徒たちだけの演奏が続くのだが、アクセントとして進にはやることがあった。

 右手側に置かれている楽器はウィンドチャイム、細長い金属棒が幾本も垂れ下がっているそれを、撫でるように鳴らす。互いに擦り合わさり奏でる音は夜空の星の煌めきを生み出していた。

 そしてバスドラムとスネアドラムを両足で操作する。リズムを刻み、金管四重奏を導いていく。

 そこへ、ピアノの伴奏が加わる。流石は音楽教師である紀美といったところか。サビに入り、耳馴染みのある曲調は先ほどまでの凪を打ち消して、心に響く圧を感じさせていた。

 もうそれからは忙しい。進は両手両足を使いドラムセットを叩き続ける。テンポの遅い曲のため音量にも気を使いながら走らず遅れずを維持しなければならなかった。指揮者がいないのだ、メトロノームもないためタイムキープはすべて進に委ねられていた。

 緊張感に手汗が噴き出る。のしかかる責任に喉が渇く。失敗しないようにと考えるばかり、まるでマラソンのようだ、苦しい時間だけが続いてしまっていた。

 主役は子供たち、翼の晴れ舞台を自分の手で穢したくない、その一心である。

 その時だった。

 進が視界の端でとらえたのは、その愛しき人だった。彼女はロングトーンのわずかな時間、目を合わせた進に簡単なハンドサインを送っていた。

 ピースサインのような、しかし人差し指と中指がクロスしている、応援や幸運を願うフィンガークロス。

 一瞬だったが、演奏中にそんなことするなんて集中力に欠けるといってもいい行為だった。

 ……あーもう。敵わねえな。

 咎めるなんてとんでもない。むしろうだうだと、余計なことばかり考えていたのは進のほうだった。そして同時にかつての恩師によるはた迷惑なありがたいお言葉も思い出していた。

『どれだけ苦しくても人前では笑って演奏しろ』

 当時は意味がわからなかった言葉だった。観客からは奏者の顔なんてほとんど見えず、そもそも笑みを作れば口の形が変わり、音程もずれてしまう。鍵盤楽器を専攻していた志賀の、無知から出た言葉だと学生の頃は笑ったものだ。

 その意味が今ならわかる。いや、わかるというよりかは、進なりに解釈できたというほうが適切か。

 身もふたもない言い方をしてしまえば、気の持ちようなのだ。楽しいと思って演奏していれば楽しくなる、そんな子供だましにも似た話。

 熱意がない、センスがないなどと言い訳していた以前に、楽しもうというとっかかりすら掴んでいなかった。吹っ切れた今なら、人間簡単には大きく変われないにしても、少し楽しめそうな気がしていた。

 だから進は笑った。

 一番の盛り上がりが近づいていた。




 最後もホルンのソロで締めくくった楽曲は、余韻を残して静寂をもたらしていた。名作を読んだあとの読後感にも似た、満たされていたものが抜けていくさみしさだけを心に残して。

 一瞬の静寂の後、万雷の拍手が体育館を包んでいた。実際には三十人にも満たない観客だったので割れんばかりとはいかないのだが、気持ちのこもりようは過去に類を見ない。

 まうみが立ち上がり、それに合わせて全員が立ち上がる。演奏後の達成感に浸る余韻の中、ただ無言で頭を下げて、ステージ上からはけていく。

 拍手に背中を押されながら、ステージ袖に戻ると、さくらが項垂れていた。

「ミスったぁ……」

 開口一番、反省会の様子。確かに何度か音を外していたのは事実であり、落ち込むのも仕方がないと言ったところ。

 表舞台から裏に戻ってきての反応とは千差万別である。過ぎたことをぐじぐじと嘆くもの、本番という熱気にやられ興奮冷めやらぬもの、そして面倒事が終わったと、さっさと片づけ始めるもの。雪緒と翼、それと進は粛々と、お通夜のように黙して掃除を始めていた。

 なぜなら、面倒くさいからである。

 あれが駄目だった、これが駄目だった。もっとこうしていればなどなど。今更言ってもどうにもできないことばかりを積み重ねて気分を盛り下げていく。さくらひとりでもなかなかに鬱陶しいというのに、他に同じ系統の人間がふたりいた。

「……はぁ」

「……はぁ」

 紀美と真喜子である。

 中学生のころから何も変わっておらず、隅のほうでふたり頭を突き合わせての暗い討論が始まっていた。こういう時下手に慰めようものなら巻き込まれ、彼女たちの尊厳が回復するまで延々といいところ探しをさせられるので、関わらぬよう無視が通例となっていた。

 対照的にわいわいがやがやと騒がしいのがまうみと克樹であった。演奏することよりも誰かに聞かせることのほうが好きなのだ、勝手に落ち込んでいくタイプにぶつけると案外うまくいったりする。

 それぞれが思い思いのやり方で演奏会の余韻に浸っているときのことだった。

「おつかれさん」

「あ、しがせん……せい」

 老人を見ていつもの呼び名をする進に、尖った視線が突き刺さり、とってつけたような言い方に変わる。

 苦手だ、と表情に出す進へ一瞥をくれ、志賀はきょとんとするまうみのもとへと歩み寄っていた。

「……最後の曲はあてつけか」

 いかつい言葉とは逆の、トーンを抑えた声が響く。

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