6-1
八月二十八日、金曜日。
ふだん通りの学校生活を、ぼくは送っていた。
ふだん通りでないのは、教室に瑠璃さんがいないことだ。
さらに、ふだん通りだったのは――工藤博行校長が、我が楠木高等学校の校長を続投したことだ。
なぜ、あそこまでの失態をやらかした工藤校長が、校長のままでいられるのか? ――それは謎のままだ。
「聞いたよ、鬼羅くん。瑠璃さん、きょうから学校来るんだって? まだ授業が始まる前だから、もうすぐかな?」
相棒の雷塔、彼は屋上の手すりにつかまり、心地よさそうに、日光を体に浴びていた。
ぼくは屋上から見渡せる風景から目を離さずに、「ああ。きのう、病院から退院したらしいな。来るとしたら、もうすぐだろう」と答える。
「あの日々、あれは一体どれほどの貴重なものだったんだろうね……」
「ぼくらが過ごした日々のことか? そりゃあ――」
かけがえのない日々だったのだろう。
「きっと、あの日々は大人になっても、忘れられない日々になるさ。その日々は、ただの石だった、なんてオチにはならないよ。たぶんな」
「ふむ、そうだといいけどね」
それ以降、雷塔は黙りこむ。
おそらく、誰かが屋上に入ってきたから、彼は黙ったに違いない。
そのときだ。
「真田鬼羅くん、古屋雷塔くん、だね?」
なんだか、聞き覚えのある渋い声だ。
ぼくらは振り返り、同時に「あっ!」と叫んだ。
ぼくらの目の前には、工藤校長がいて、その後ろには……瑠璃さんがいた。
「これは工藤校長……校長就任、おめでとうございます」
見事なまでに、意味不明なことを口走る、雷塔。
すると、工藤校長は豪快に笑った。
それでようやく、ぼくらは緊張が解け、工藤校長とともに笑った。
工藤校長の後ろに控えている瑠璃さんも、クスクスと笑う。
やがて、工藤校長は本題に入った。
「きみたち生徒の手で、これを解決してほしい――これはあのとき、わたしが言った言葉だ。その言葉は、わたしの本心であり、願いだった。そして、きみたちは、この願いをかなえてくれた。……わたしは、きみたちに感謝をしている。そして、すまなかった。このような無理難題を、教え子に押しつけるとは、わたしは、なんたる大人か!」
どうやら、工藤校長は、今回の『魔人騒動』について、ずいぶんと反省しているようだった。
だから、解決した当の本人であり、元凶であるぼくは、
「無理難題ではないですよ。現に、ぼくらは、この問題を解決しています。それに……」
「それに?」
ぼくは工藤校長の瞳を、まっすぐ見て、こう話をまとめた。
「すごく思い出に残りましたから……いいんですよ」
工藤校長は納得したように、大きくうなずく。
「これも、教え子が、またひとつ成長したのだと、わたしは受け止めよう」
工藤校長は一礼し、この場から離れようとした。
その工藤校長を、雷塔は呼び止める。
「あのとき……演台のマイクが切られたとき、あなたは、なんとおっしゃろうとしたのですか? わたしは、きみたちを――」
「信じている……わたしは、きみたちを信じている、だよ」
それを聞いた雷塔は、工藤校長に深々と一礼する。
工藤校長は、ほほ笑むと、静かに屋上から立ち去った。
「さて……ぼくはきょうの授業について、予習でも、しようかな」
わざとらしい理由で、雷塔は屋上から離れようとする。
おそらく、これは雷塔なりの気遣いなのだろう。
「退院、おめでとう!」
屋上から出る間際、そう雷塔は、大声を上げてみせた。
そうして、今度こそ、彼は屋上から出ていった。
こうして、ぼくは瑠璃さんと二人きりになった。
ぼくが黙りこんでいると、瑠璃さんのほうから、話しかけてくれた。
「鬼羅くん……助けてくれて、ありがとうね。わたし、とてもあなたに感謝しているの」
どうやら、あのときのお礼のようだ。
「まあ……何はともあれ、瑠璃さんが無事でよかったよ」
「うん。本当にね、ありがとう」
「いやいや」
それで、会話が途切れた。
「…………」
真田鬼羅、お前は瑠璃さんに言うことがあるんだろう? それを言うんだ!
そう自分を鼓舞してみたが、ついにぼくは、その言葉が言えなかった。
代わりに、瑠璃さんが口を開いた。
「さて! わたしは鬼羅くんのこと、好きになっちゃったよ? そしたら……勝負、どうしようか?」
「ぼくのことが好きって……え?」
ぼくは呆然とする。
そして、理解する。
ようやく、ぼくの恋は実ったのだ。
瑠璃さんは、ぼくのことを好きになってくれたのだ!
一瞬、ぼくは舞い上がってしまったが、すぐに平常心を取り戻す。
ようやく、ぼくは例の言葉を言う踏ん切りがついた。
「瑠璃さん」
「……うん」
ぼくらは見つめ合う。
見つめ合うほど、お互いの目に、涙が浮かぶ。
ぼくは流れ落ちる涙を、そのままにし、静かに――だが、それでも力強く言った。
「もう勝負は関係ない。約束、しただろう? ぼくの願望がなくなって、瑠璃さんがぼくのことを好きになったら、ぼくらは付き合うって……約束しただろう? ――瑠璃さん、好きだ」
「鬼羅くん……」
うっとりとする、瑠璃さん。
そのうち、ぼくらの顔の距離は短くなり、どんどん短くなり――ついに、ぼくらは口づけを交わした。
それは、儚く甘いキスだった。
長いようで、短いキスを終え、ぼくらは思い出したように抱き合った。
「もう、自殺とかいうキーワードは、こりごりさ」
抱き合うのをやめたぼくらは、屋上から見渡せる風景を眺めていた。
見渡せるこの街、それは、どこまでも愉快で、どこまでも痛快だった。
すると、瑠璃さんは笑った。
「両目で見る鬼羅くんは、やっぱりかっこいいね」
「ふふん……え?」
ぼくは風景を眺めるのをやめ、瑠璃さんを――瑠璃さんの左目を凝視する。
「どうしたの?」
「……いつ、左目の視力が戻ったんだ?」
ぼくが驚くのも、無理はない。
なぜって、瑠璃さんの左目の視力は、とうに失われ、その代わり、闇を視ることのできる能力が、その左目には視えていたはずなのだから。
「気づいたときには、もう戻っていたよ。それと同時に、左目の闇を視る能力も、もう視えなくなって……確かそれは、わたしが自殺をするって、あのとき、周囲に叫んでいたときかな?」
そのときといえば――。
「なるほど、優香里さんが、成仏したあとのことか」
瑠璃さんは目をむき、仰天した。
「え! 鬼羅くん、『魔人』を成仏させたの? それはいつ?」
ぼくは意地悪く、笑ってみせた。
「おっと、優香里さんのことを『魔人』って呼ばないように! だって、優香里さんは優香里さんなんだからね」
「なんですって?」
さらに、瑠璃さんは動揺する。
ギャアギャアとわめく瑠璃さんを、すっかり忘れ、ぼくは空を見上げた。
そこには、いつもと変わらぬ夏空が――劇薬の夏空が、ぼくらを見下ろしていた。




