第3話:明日を約束した人
日本へ渡ってから、十数年。
魔法教師として教壇へ立つことは、あの日以来、一度もなかった。
それでも、人と向き合い、未来を育てることだけは、やめられなかった。
彼は戸籍上の名を変えたわけではない。
けれど、日本で教師として生きるようになってからは、「アレン・フェルナード」と名乗るようになっていた。
生徒たちは皆、親しみを込めて彼を「アレン先生」と呼ぶ。
アレンドルははインサイダー養成学校・高等部の歴史教師となっていた。
「はいはい、教科書閉じてくださーい」
「今日はテスト返却ですよー」
「安心してください。先生も昔は赤点取りました」
教室中が笑う。
「先生、それ絶対嘘でしょ!」
「いやぁ、どうでしょう?」
ざわめきが明るく広がる。
誰もが、アレンドルはいつも楽しそうだと思っていた。
どんな失敗も笑いへ変える。
生徒にからかわれても笑う。
自分が転んでも、先に自分で笑ってしまう。
怒ることはあっても、最後には笑って終わる。
そんな先生だった。
いつしか、その授業は学校一番の人気授業になっていた。
「歴史ってこんな面白かったっけ?」
「アレン先生の授業だけは寝ない」
そんな噂が校内へ広がっていた。
卒業した生徒たちも、休みの日になると学校へ顔を出す。
「先生ー!」
「久しぶり!」
「また遊びに来ました!」
教え子たちは笑いながら近況を話した。
インサイダーになった者。
研究者になった者。
一般企業へ就職した者。
皆、それぞれの人生を歩いていた。
アレンドルは一人ひとりの話を聞き終えるたび、小さく頷いた。
「皆さん、本当に立派になりましたね」
その時の笑顔だけは、本物だった。
◇
そんな卒業生の中に、一人だけ少し特別な生徒がいた。
長い金髪を揺らすエルフの少女、リィナ。
真面目で成績優秀。
けれど、授業中だけはよく笑う。
ある放課後。
教室には二人だけが残っていた。
「先生」
「はい?」
リィナは穏やかに笑って言った。
「先生って、本当はそんなに明るい人じゃないですよね」
教材を片づけるアレンドルの手が止まる。
「……どうしてそう思うんです?」
「笑ってる時だけ、少しだけ寂しそうだから」
教室から音が消えた。
アレンドルは一瞬目を丸くしたあと、すぐに笑う。
「先生ですから。生徒の前では笑っているものですよ」
リィナは首を横へ振った。
「違います。先生、自分を隠してます」
その言葉だけが、耳に残った。
◇
それからだった。
リィナは事あるごとにアレンドルへ話しかけるようになった。
放課後になると職員室へ顔を出し、授業の質問をしたり、歴史の本について語り合ったり、将来の夢を話したりする。
そんな時間が、少しずつ当たり前になっていった。
ある日の放課後。
職員室を出ようとしたリィナが、ふと足を止めた。
「先生」
「はい?」
リィナは少しだけ照れくさそうに笑った。
「……私、先生のこと好きです。男性として」
職員室の窓から、夕陽が差し込んでいた。
アレンドルは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐに穏やかに微笑む。
「ありがとうございます」
「でも、それは憧れですよ」
リィナは小さく首を横へ振った。
「違います」
「ちゃんと、一人の人として好きなんです」
アレンドルは少し困ったように笑う。
「……私は先生です」
「今は、あなたの気持ちに応えることはできません」
リィナは少しだけ頬を膨らませた。
「……先生って、ずるいです」
アレンドルは苦笑する。
「さあ、気を付けて帰ってください」
「……はい」
そう返事をすると、小さく手を振って教室をあとにした。
◇
ある日の放課後。
「先生、少し相談してもいいですか?」
リィナは進路希望調査票を両手で抱えながら、どこか緊張した面持ちで職員室へ入ってきた。
「もちろんです」
アレンドルは笑顔で椅子を勧める。
リィナは机の上へ進路希望調査票を置いた。
「私、将来どうしようか悩んでいて……」
アレンドルは静かに目を通す。
そこには、《インサイダー協会 治療班》と書かれていた。
「インサイダーではないんですね」
リィナは小さく頷いた。
「私、戦うのは得意じゃないんです」
視線を落とし、調査票の端を指先でなぞった。
「でも……傷ついた人を助けたい」
「前線で戦う人たちが、ちゃんと帰ってこられるような仕事がしたいんです」
しばらく調査票を見つめていたアレンドルは、優しく微笑んだ。
「あなたらしい進路ですね」
リィナは少し驚いたように顔を上げる。
「そう思いますか?」
「ええ」
「あなたは、いつも困っている人を放っておけない子でしたから」
「誰かを助ける仕事は、前線だけではありません」
リィナの肩からふっと力が抜けた。
「よかった……」
「先生に反対されたらどうしようって思ってました」
アレンドルは小さく笑った。
「反対する理由がありません」
「あなたなら、きっとたくさんの人を救えるでしょう」
リィナは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「先生に相談して、本当によかった」
それ以来、リィナは進路のことだけではなく、仕事や将来のことまで、何でも打ち明けるようになった。
アレンドルも、一人の教え子としてだけではなく、一人の人間として彼女の成長を静かに見守り続けていた。
◇
卒業式の日。
リィナは花束を抱えたまま、真っ直ぐアレンを見つめた。
「先生。私、今日で卒業ですよ」
「ええ、おめでとうございます」
「だから、もう先生と生徒じゃありません」
アレンドルは困ったように笑った。
「そうですね」
リィナは深呼吸を一つした。
「私、先生のことが好きです」
教室から音が消えた。
アレンは少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
「でも、もっと素敵な人がいますよ」
リィナは首を横へ振った。
「私は先生がいいんです」
しばらく沈黙が流れる。
アレンドルはリィナを静かに見つめた。
やがて、小さく笑う。
「……では、一つ約束をしましょう」
リィナが顔を上げる。
「あなたが二十歳になっても、気持ちが変わらなかったら」
「その時は、きちんと考えましょう」
リィナの表情が一気に明るくなる。
「約束ですよ?」
「ええ」
◇
卒業してからも、教え子たちは定期的に集まっていた。
近況を報告し合い、ときには食事へ出かけ、ときには皆で旅行もする。
誰かが結婚すれば、まるで自分のことのように祝った。
その日も、町のレストランには懐かしい顔ぶれが集まっていた。
料理が並び、笑い声が絶えない。
仕事の話、学生時代の失敗談、新しく覚えた魔法の話。
誰かが話せば、誰かが笑う。
卒業しても、この時間だけは教室の頃と何も変わらなかった。
「先生!」
元気よく駆け寄ってきたのは、リィナだった。
卒業してから一年以上が過ぎ、十九歳になっている。
以前より少しだけ大人びた表情になったものの、笑った顔だけは教室へ通っていた頃と何も変わらない。
アレンドルは、小さく包まれた箱を差し出した。
「少し遅くなりましたが、誕生日おめでとうございます」
「……え?」
リィナが目を丸くする。
箱を開けると、中には上質な革で作られた手帳が収められていた。
表紙には、小さな星の刻印が入っている。
「先生……これ……」
「これから先、嬉しかったことも、辛かったことも、夢も目標も――たくさん書き込んでください」
アレンドルは穏やかに微笑んだ。
「きっと、いつか振り返った時、自分を支えてくれる一冊になります」
リィナは手帳を胸へ抱きしめる。
「先生……ありがとうございます」
しばらく大切そうに眺め、それからアレンドルを見つめて笑った。
「先生。今日も大好きです」
「まだ言うんですか」
「もちろん」
周囲からどっと笑い声が上がった。
「先生、もう諦めたら?」
「絶対両思いじゃん」
アレンドルは照れくさそうに視線を逸らした。
「私は、リィナよりずっと年上ですよ」
リィナはきょとんと首を傾げる。
「でも、私たちエルフですよ?」
「そのくらい、大した差じゃないじゃないですか」
「百年くらい違ってても普通ですし」
周囲が吹き出した。
「確かに!」
「それは先生の負けだ!」
リィナは胸を張る。
「だから問題ありません! 私は先生が大好きです」
アレンドルは返す言葉に困り、視線を逸らすだけだった。
リィナはそんなアレンドルを見つめ、くすっと笑う。
「――また笑ってごまかした!」
アレンも降参するように肩をすくめた。
「……敵いませんね」
店内には、また笑い声が広がる。
そんな日常が、静かに続いていた。
◇
ある日の夕方。
授業を終えたアレンは、職員室で教材を片付けていた。
窓の外では、夕陽が校舎を赤く染めている。
今日も一日が終わる。
そう思った、その時だった。
「せーーんせっ!」
突然、背後から元気な声が響いた。
「ぶふっ、ごほっ、ごほっ……!」
飲みかけていたお茶が気管へ入り、アレンは思わず咳き込む。
「せ、先生!? 大丈夫ですか!?」
リィナが慌てて駆け寄る。
アレンドルは胸を押さえながら何度か咳をし、どうにか息を整えた。
ようやく顔を上げると、そこには見覚えのある笑顔があった。
「お久しぶりです、先生」
悪戯が成功した子どもみたいに笑うリィナを見て、アレンも肩の力を抜いた。
「これは一本取られましたね」
「お仕事はどうしたんですか? こんな時間に」
リィナは胸を張った。
「今日はお休みです!」
「せっかくなので先生に会いに来ちゃいました!」
アレンドルは優しく微笑んだ。
「そうでしたか。それは嬉しいですね」
リィナは照れたように笑う。
「えへへ」
昔と変わらない笑顔が、二人の間へ戻ってきた。
机の上へ教材を揃えながら、アレンは穏やかに尋ねた。
「本部の仕事はどうですか?」
「忙しいです! でも、すごく楽しいですよ」
「大きなクエストがあると現場にも行くんです」
リィナは少しだけ胸を張った。
アレンドルは静かに頷いた。
「頑張っているんですね」
リィナは嬉しそうに頷く。
「はい!」
「もっともっと助けたいんです」
「怪我をした人も、戦う人も、みんな笑顔で帰ってきてほしくて」
リィナは照れくさそうに笑って肩をすくめた。
「……でも、本当は平和になるのが一番なんですけど」
アレンドルは優しく微笑んだ。
「あなたらしいですね。その気持ちを忘れなければ大丈夫です」
リィナはほっと息をつき、小さく笑った。
「先生にそう言ってもらえると、自信になります」
しばらく近況を話したあと、不意にリィナがアレンを見つめた。
「そうだ! 私、もうすぐ二十歳ですよ!」
アレンドルの手が止まり、ゆっくり顔を上げる。
「……そうでしたね」
リィナは満面の笑みで一歩近づいた。
「覚えてました? あの約束」
「もちろんです」
アレンドルは少しだけ照れくさそうに笑った。
「忘れるわけがありません」
リィナは嬉しそうに両手を後ろで組む。
「楽しみだなぁ」
その言葉に、アレンの口元も自然と緩んだ。
「せっかくの二十歳ですし、盛大にお祝いしましょう」
リィナは目を丸くする。
「ほんとですか?」
「ええ」
「二十歳は、一生に一度ですから」
リィナの表情が、ぱっと明るくなる。
「やった! じゃあ、おしゃれして行きます!」
「期待しててくださいね!」
アレンの肩が小さく揺れた。
「私も少し気合いを入れないといけませんね」
そう言って微笑むと、リィナの肩からふっと力が抜けた。
けれど次の瞬間、少しだけ口を尖らせる。
「……先生」
「はい?」
「私、色々頑張ってます!」
リィナはいたずらっぽく笑う。
「褒めてくれてもいいんですよ?」
そう言って、そっと頭を差し出した。
アレンドルは一瞬だけまばたきをし、それからうなずいた。
「ええ」
アレンドルは優しく頭を撫でた。
「よく頑張りました」
リィナは目を細め、くすぐったそうに笑った。
「えへへ」
二人は顔を見合わせ、自然と笑う。
夕暮れの廊下に、穏やかな笑い声だけが響いていた。
◇
月日は流れる。
そして、リィナが二十歳になる前夜。
部屋には、何着かのスーツが並べられていた。
クローゼットを開けては、一着取り出す。
鏡の前へ立ち、肩へ合わせる。
「……これかな」
少し考え、また戻す。
明日は約束の日だ。
別の一着を手に取る。
机の上には、小さな箱。
何日も迷って選んだ誕生日プレゼント。
アレンドルは箱を手に取り、しばらく見つめた。
それを鞄へしまい、もう一度、鏡の前に立つ。
「……これで、いいですね」
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。
アレンドルはゆっくり息を吐く。
「……明日は、ちゃんと伝えましょう」
小さな独り言だけが、静かな部屋へ溶けていった。




