第90話 隠した恋慕
うーん。まさかアヴィじゃなくて、アヴィのお兄さんのゼファー殿下と婚約するなんて……なんか『恋ラバ』の展開と違わない?
マーガレットの自室にて。
マーガレットはソファーに正座して、うーん、うーんと唸りながら今の状況について整理している。
食事を終えたマーガレットは、幸せの境地にいるような笑顔のゼファーを見送ったあと、父のセルゲイから話を聞いた。
フランツィスカ家としては不本意だが、ゼファーとの婚約は成立してしまっているとのことだ。しかも、王命まで使っていて破棄できないとレイティスが悔しそうに補足してくれた。
私がゼファー殿下と婚約したのなら、悪役令嬢マーガレットはアヴェルの婚約者にはならなかった……あれ? だとするとアリスがアヴェルを選んだとしても、私はアリスとアヴェルの障害にはならないのだから、私が幽閉エンドを迎えることはない?
もしかして、ゼファー殿下のおかげで最悪のルートを回避できたんじゃ!?
「さっきから何をひとりで百面相しているのですか、お嬢様?」
クレイグの指摘を受け、マーガレットはニヤついた顔を戻そうと自分の頬を両手でつまんだ。
それと同時にテーブルには、芳しい香りの紅茶が提供される。
紅茶をひと口飲んだマーガレットはふぅと息を吐いた。
「そう言わないでクレイグ。まだ今日起きたことについて頭がついてきていないのよ。私はアヴィと婚約するものと思っていたのに、突然ゼファー殿下の婚約者だなんて混乱しちゃうじゃない」
「ゲームの進行と違ったから混乱している」とは言えないマーガレットは、慎重に言葉を選んだ。それでもクレイグは何か言いたげな表情をしているが、回れ右してお茶菓子の準備を始める。
その二人の様子を見ていたサボリ魔ターニャは、マーガレットを横から覗き込んでクレイグの言いたかったことをさりげなく訊いた。
「ねえねえ、マーお嬢様はアヴェル殿下と婚約できなくて悲しくないの?」
「えっ!? う、う―――ん」
マーガレットは言葉に詰まった。
アヴェルのことは前世でゲームをプレイしていた時も、恋ラバのメイン攻略対象者でちょっと陰があってかっこいいくらいにしか思っていなかった。
ただ間違いなく、前世よりも転生した今世のほうがアヴィを好いているだろう。
しかしそれは、幼馴染みのアヴィを家族のように想っているということだ。
もともとアヴェルとマーガレットが結ばれるルートは存在しないと知っているからか、恋心を抱くことは今日まで少しもなかったのである。
それでも、ターニャの言う『悲しい』という気持ちは不思議と存在していた。
「うーん、確かに悲しいって気持ちはあるのよ。小さな頃からアヴィと婚約するって思ってたから、張り合いがなくなったみたいな感じの」
「……だったら、アヴェル殿下のほうが落ち込んでそうだね」
「そうねぇ、どっちがダンスが上手いか対決しようってやる気だったものね」
「え? そういう意味じゃないけど」
「……え」
会話の内容はまったく嚙み合っていないようだが、ターニャは正すこともなく嬉しそうだ。
準備しているクレイグにちらりと目線を送ったあと、さらにターニャは質問を続ける。
「ねえねえ、じゃあゼファー殿下のことはどう思ってるの?」
「シャルロッテのお兄様ってだけで何とも思ってないわ。きっとゼファー殿下だって私みたいな風変わりな子供が物珍しくって勢いで婚約しただけで、すぐに飽きてしまうんじゃないかしら」
「ふーん。じゃあゼファー殿下も落ち込んじゃうね」
「……どういうこと?」
「あ、あー、えーとクレイグを手伝ってくるね」
マーガレットの問いかけから逃げるように、ターニャはクレイグのもとへ手伝いに向かった。
クレイグの横に並んだターニャは、「だってさ、クレイグ。私の夢に近づいた」とマーガレットに聞こえないくらいの小声で呟いた。
すでにお茶菓子の準備はすんでいたが、二人の会話を止めたくなかったクレイグは、ゼファーがマーガレットに贈った赤い薔薇を花瓶に飾る作業をしてヒマを潰していた。
赤い薔薇を手に取ったクレイグの脳裏に、マーガレットが薔薇を差し出されてプロポーズされた恋物語の一ページのような場面が浮かぶ。
この胸の奥がヒリつくのは一体なんなのだろう。
最近たまにあるこのヒリヒリとした痛み。
お嬢様に関する時だけ感じる痛み。
…………それに、お嬢様がアヴェル殿下とゼファー殿下に好意を寄せているわけではないとわかってホッとするなんて、僕は何て図々しいんだ。
まったく、ターニャがおかしな夢を見るから僕まで……。
「いたっ!?」
ふと、手元が狂ったクレイグの薬指の先に薔薇のトゲが刺さった。
できたばかりの傷からはツゥと血が滲む。
「どうしたの……って血! 大丈夫!?」
クレイグの声に何事かと駆け寄ったマーガレットはクレイグの手の傷に気付くと、クレイグの手を掴んでそのまま傷のある指先を口に含んだ。
「ちょ、何を!?」
「こういうのは舐めたら治るのよ」
マーガレットがクレイグの指をくわえながら話すものだから、どうにもこそばゆいクレイグは目を細める。
どうにかしてマーガレットの口から指を引っぱり出そうと試みるクレイグだったが、思いがけない状況にうまく力が入らない。
ターニャに助けを求めても、ターニャは瞳をキラキラと輝かせて助けてくれそうにない。
ああ、まただ。
また胸の奥がおかしい。
今度はヒリヒリじゃなくて、ドクンドクンと周囲の音が聞こえなくなるくらいに心臓の音がうるさい。
お嬢様の口から火がついて、僕の心臓は爆弾みたいにバクバクいっているんじゃないか?
お嬢様の目線、口元、紅潮した頬。
お嬢様のすべてに心が奪われてしまう。
ああ、ダメだ。そんなこと想っちゃいけないのに僕はまた。
こんな感情。お嬢様にとって迷惑なだけなのに……。
たった数秒のことだったが、クレイグにとっては成人するくらいの長い時間のように感じた。
「あ、血が止まったみたい。じゃあお薬を塗るからちょっとま」
マーガレットが掴んでいた手が緩んだ瞬間、クレイグはすぐに手を引っ込める。
「お嬢様の男たらし、女たらし、人ったらし……お嬢様のどんっかんっ‼」
そう吐き捨てて部屋を飛び出したクレイグを見送ったマーガレットは、ゼファーにプロポーズされた時よりもポカンとしている。
「え? え? どうして私、けなされてるの、何で?」とターニャに返答を求めたが、ターニャはニヤニヤと笑っているだけだった。