第399話 悪役令嬢マーガレット
マーガレットの胸元に顔を埋め、ゼファーは子供のように泣き咽んでいた。えずくように声を詰まらせながら、途切れ途切れに心の内を吐露し始める。
「……マーガレット……会えなくて淋しかった……ううっ……君が、母上みたいにいなくなってしまったらと思うと、怖くて……不安でっ……」
あまりに自分本位な物言いに、マーガレットの瞳が冷たく細められる。
私からはすべてを奪ったうえに、こんなところに閉じ込めておいてよく言えたものだわ。ふぅ……でも、ここは抑えて。
今は甘い甘い飴の時間だもの。殿下が喜びそうなマーガレットを演じ切るのよ!
「あら、会えなくて淋しいという割に、もうお昼近くです。もっと早くお会いできると思っていましたのに、私、首を長くして待っていましたのよ」
胸元に顔を埋めていたゼファーは、レモネードのように甘酸っぱいマーガレットの言葉に「え?」と戸惑い、澄んだ瞳でマーガレットを見つめた。涙で潤んでいるせいか、煌煌とした紫水晶の瞳が少年のようで、不覚にも可愛らしく見えた。
顔を上げたゼファーは、気恥ずかしそうに言葉を連ねる。
「あ、朝は公務が立て込んでいて来れなかったんだ。許してくれ……ねえ、マーガレット。今、とても君にくちづけしたいんだけど、いいかな?」
マーガレットはにっこりと唇を綻ばせた。柔らかく艶めく唇は悪女らしく弧を描き、含みのある微笑みについつい引き寄せられてしまう。
しかし、その唇から奏でられたのは、
「ダメです。遅く来て私に淋しい想いをさせた罰ですわ……そうだ。しばらくの間、くちづけはお預けといたしましょう。できますわね、ゼファー?」
「う、うん……わかった」
有無を言わさぬマーガレットの笑顔に、ゼファーはどこか悲しげに肩を落とし、静かに目を伏せた。
マーガレットの翡翠の瞳は、言葉を失うほどの驚嘆に打ち震えていた。
何よ、どういうことなの!? この忠実っぷり。
今までなら、私の意思なんて無視して、おでことか頬とかに無理やりにでもキスしてきたのに、どういうこと?
人の態度って、相手の行動ひとつでこうも変わるものなの?
……おっと、いけないいけない。まだ演技の途中だったわ。
柔らかな笑顔を浮かべながらも、マーガレットは毅然とした態度で言い放つ。
「これまでのように、私があなたの思い通りになるとは思わないでください。もう私はあなたの婚約者ではないのです……だって、あなたが公衆の面前で私を婚約破棄なさったのですから」
ゼファーは紫水晶の瞳を大きく見開き、縋るように視線を絡めた。
「ならマーガレット。また僕と婚約してほしい」
ゼファーの身勝手な言い分に、マーガレットは心の中で顔をしかめた。しかし、今のマーガレットは悪役令嬢だ。もっと大袈裟に、もっと大胆に――マーガレットは過剰に声を荒げる。
「まあっ! 婚約破棄したばかりで、またあなたの婚約者になれと? 皆に不貞の女と後ろ指を指されながら、あなたに寄り添えとおっしゃるのですか!?」
悪役令嬢のように艶やかに、深く、仰々しく、ゆっくりと溜め息を吐き、肩を落としてみせる。
「……あなたは王城の夜会という公の場で、わざと私を晒し者にした。私の尊厳を傷付けたことを、忘れたとは言わせませんわ……はぁ、気分が悪いです。今日はもう、これ以上話すことはございません。お引き取りください」
胸元に纏わりつくゼファーを拒むように、マーガレットは両手を押し当て突き放した。
どう? 自分の非は棚に上げて、相手を悪し様に責め立てる。
これぞ悪役令嬢でしょう。
しかし、突き放したマーガレットの右手をゼファーは両手で掴み、許しを乞うように膝を突き、声を震わす。
「お願いだ。許してほしい。あの時は、結婚延期で苛々していたんだ。そのうえ、君と従者の写真を見つけて頭に血が上ってしまった。
婚約破棄だって、『一か月後の結婚式』までに必要なことだった。それなのに、君は従者と逃げて……っ!」
饒舌に言葉を連ねるゼファーだったが、マーガレットの耳は あるひと言に鋭く反応を示した。
え、待って……『一か月後の結婚式』って、何?
予定されていた式は、国王の暗殺未遂事件で無期限延期になったはず。
それに、さっきからクレイグのことを、従者って呼ぶのはやめてほしいわ。
その従者の件で、ゼファーの怒りのメーターが跳ねるように上がるのをマーガレットは肌で感じ取った。
人を手の上で転がすというのは思い通りにいかず、中々に難儀である。
うーん、殿下の怒りを抑えるには…………あ。
喉の奥から勝手に漏れ出たように、ボソリとこぼす。
「私、オーロラの実が食べたいです」
その独り言めいたマーガレットの呟きを、ゼファーは聞き逃さなかった。片眉を僅かに跳ね上げ、「まさか……」とばかりに目を細めた。
「え? オーロラの実って、最も寒い大寒の時期に数個だけ実るという、あの?」
「はい、もしオーロラの実を食べたのなら、少しは許す気になるやもしれません……私のためなら、入手するのも容易いものでしょう、ゼファー?」
ふっと艶やかな微笑みを唇に湛え、潤みを帯びた翡翠の瞳はゼファーをそっと捉える。左手の人差し指を伸ばし、ゼファーの鼻先につんと触れた。
瞬間、開かずの扉が開いたかの如くゼファーの瞳孔が広がり、ごくりと生唾を呑みこむ。唇は閉じているが、僅かに吊り上がったその口角は、マーガレットの艶やかな魅惑に屈した証だった。
ゼファーの反応を見届けたマーガレットは優雅に微笑む。
今は夏の盛りへと向かっている時期。真冬のオーロラの実なんて取れるはずがない。題して――かぐや姫の無理難題で追い返し作戦よ。
どこか小悪魔のように弧を描く唇は、ゼファーの男心をくすぐるように甘く囁く。
「オーロラの実を持ち帰った暁には、あなたの愛を少しは認めてさしあげてもよくってよ。その際には、オーロラの実のスイーツで、二人きりで甘いお茶会をいたしましょう?」
―ズキュン。心臓を打ち抜かれたように、ゼファーはときめく胸を押さえた。肩を上下に動かし、息は乱れ――しかしその表情は、希望と歓喜で満ちあふれていた。
「―――~っ!? わかった! 絶対に探してくるから、待っていてっ。また来るよ」
立ち上がったゼファーは、当然のようにマーガレットにくちづけを試みる。しかし、先ほどのお預けの言葉を思い出し、誘惑を振り切るように首を振ると、静かに部屋を立ち去った。
ゼファーの顔がいつもより幸福感に満ちていたのは気のせいだろうか。
実は、こういう悪役令嬢がお好みなのかしら。
開いた扉から覗く側近たちもマーガレットに揃って頭を下げ、ゼファーの後に続く。
残されたのは、胸の中で勝利の雄叫びを上げ、声を殺して静かにハイタッチを交わすマーガレットとミモザだけだった。




