三.安らぎと決意 ―8
静貴に勧められてソファに座ってまもなく、梔子ははたと思い出した。
(……いけない。安心して忘れてしまうところだった)
今日、梔子が静貴のもとを訪れたのは謝罪のためだが、もう一つ目的があったのだ。
「静貴さま。紅月さまから、たびたびお土産ものをいただいていたと聞きました。どうもありがとうございます。それと、申し訳ございません。お礼を申し上げるのが遅れてしまって……」
「土産? ……ああ、もしや最近でいうとすいかのことか? いや、礼には及ばないさ。あれは出先にあった店でたまたま見かけて、きみ達の顔が浮かんだから買ってきたまでのことだ。別に大した品じゃない」
先日、紅月と一緒に食べたすいかが静貴からの贈り物であったことは、昨日聞かされたばかりのことだった。
すいかの他にも、紅月が外出先でもらったと言って時おり持ち帰ってくる品は、ほとんど静貴からのものだったらしい。
わだかまりが解けたとはいえ、どうしても初対面での印象から、静貴はどことなく気位が高く近寄りがたい印象のある人だと感じていたけれど、それは違うのかもしれない、と梔子は思った。
(本当は、紅月さまと同じ……優しい人なのかもしれない)
そういえば、と静貴が言ったのは、そんな時のことだった。
「梔子さんは紅月のところに来て、そろそろひと月が過ぎた頃なんだろう。何か困っていることはないかね? 芸術家にはありがちなんだろうが、この男は昔からいろいろと変わったところがあるからね」
「変わったところ? やれやれ、心外だな。お前にそのように思われていたとは。たとえば私のどこが変なのかな、静貴」
梔子が答える前に、不服そうな声を上げたのは紅月だ。
もちろん、梔子は慌てた。
だって、そうだ。
(紅月さまと暮らしていて、困っていることなんてあるわけがないのに――)
そう言いたいが、お互いに呆れ顔をして応酬を始めてしまった二人の間に、なかなか割って入ることができなかった。
静貴はティーカップから紅茶を一口飲んだ後、肩をすくめながら答え始める。
「そうだな。まず、話が長い。昔に巴里で起こった市民革命のいきさつだの、砂漠の国々の風習だの、僕のよくわからない蘊蓄話を語り始めたと思ったらだいたい一時間は止まらないだろう、きみは。僕はそういうところを心配しているのだよ」
「そうか。それならその心配は無用だね。何せお前と違って、梔子は私の話を好きだと言ってくれたのだから」
あでやかな笑顔を浮かべて答えた紅月に、静貴はぎょっとしたような表情を浮かべる。
「す、好き……? まさか、いつも終わりの見えない紅月の話がか? ……梔子さん、無理はしなくていい。本当のところはどうなのだね」
「い、いいえっ! 私は無理などしておりません。紅月さまが語ってくださるお話はいつもとても楽しくて……時の経つのを忘れてしまうほどですから」
「…………」
よほど衝撃を受けたのか、静貴は目を見開いて絶句していた。
そんな静貴を見て、紅月は勝ち誇ったような表情を見せる。
「ほら、静貴。私の言ったとおりだっただろう?」
「……そのようだ。心配してまったく損をしたよ」
「梔子、ありがとう。味方をしてくれて嬉しかったよ」
美しい顔で微笑まれて、梔子は思わずたじろいでしまう。
こうやってふいに微笑みかけられると、紅月の見目があまりによいことも相まって、とても心臓に悪いのだ。
目のやり場に困って視線を彷徨わせる梔子と、そんな梔子を微笑みながら見つめている紅月を前に、静貴はぼそぼそと呟いた。
「…………。なんだろう。僕はここにいない方がいいんじゃなかろうか……。さっきから邪魔にしかなっていない気が……」
「ん? 何か言ったかな、静貴」
「……別に、大したことではない。はたから見ていると照れくさくなってくるくらい、きみ達は仲がいいんだなと言いたかっただけさ」
……そうしてそれからも会話は弾んで。
時はあっという間に過ぎていった。
紅月が前に言ってきたように、彼と静貴とは、かなり長い付き合いであるらしかった。
知らない人が聞いていれば、二人はお互いに憎まれ口を叩いているように見えるだろう。
けれど、仲が悪いのではない。逆だ。
遠慮せずぽんぽんと物を言い合えるのは、彼らが親友だからこそだと思える。
ひそかに笑いを零して、梔子は思った。
(仲がいいのだわ。私がそんなことを言ったら、きっとお二人とも否定なさるのかもしれないけれど……)
……楽しい、と梔子は思った。
他人の輪の中に自分が自然に受け入れられていることが、梔子にはそれだけで信じがたく、まるで夢を見ているみたいだった。
(……ここに来て、よかった)
それからしばらくして、静貴がふと時計を見て言った。
「おや、ずいぶんと時間が過ぎていたな。紅月、梔子さん。きみ達、この後は何か予定があるのかね。今日は一日休みなんだろう?」
「せっかくこのあたりまで来たからね。行きつけの仕立て屋に梔子を連れていこうと思っていたところだよ。彼女が秋に着るものをそろそろ頼んでおこうかと思っていたからね」
「ああ……そういえば、梔子さんは嫁入り道具どころか日常着さえろくに持たされていなかったと言っていたんだったな。まったくとんでもない話だよ」
眉間に皺を寄せ、呆れたように静貴が言う。
その様子からは、どうやら静貴も、八條家に関する梔子の事情を知っているらしいことが窺えた。
……と、静貴が急に目を瞬かせたのは、その時のことだった。
黙り込んでしまった静貴に、紅月が訝しげに尋ねる。
「……? 静貴。いったいどうした」
「……紅月。きみに一つ、頼みたいことがある。聞いてくれるかね」
「頼みたいこと? 内容によるな。いったい何かな」
「梔子さんに関係することだと言ったら?」
「なおさら内容次第だね」
私に関係すること……?
梔子も静貴の言葉が気になった。
そうして、静貴が告げたのは、思いがけない提案だった。




