35 謹賀新年【最終話】
「リンダさん、すいません。もう大丈夫ですから、行ってください。私なんかに構ってる場合じゃ……」
「ほっといてほしかったら、なんで家にいないですか?」
……怒られた。
「ゔ、ゔぇぇぇ」
「人といたいだから、ここにいるでしょ。ね、由実さん」
「ゔぇぇぇぇぇん、ゔぇぇぇぇぇん」
そのとき、外からカウントダウンの声が聞こえ始めた。
「五十八、五十七……」
「あ、リンダさん行ってください外。年越さないと。ちゃんとジョニーさんと!」
「いいです。あの人、だいじょぶ」
「だいじょぶじゃない!」
「陽はまた昇ります」
ぶふっ。何だそれ、ギャグか。
「四十五、四十四……」
「ちょっとリンダさんお願いだから。やだから私」
「やだじゃない。由実さんと一緒に行く」
うーん、わからず屋め。
「三十六、三十五……」
あっ、あっ、どうしよ。明けちゃう明けちゃう。せめて鼻をかみたい。ペーパーを取り、ブーッと思い切り鼻をかんだ。それを便器に流し、何とか立ち上がる。うぅっ、気持ち悪い。
「二十二、二十一……」
「てってっ手を」
「洗う。はい」
リンダさんが手伝ってくれて、手を洗う。しかし。
「う、うぅぅぅゔぉええっっっ」
まだ余ゲロがあったらしい。さっき飲んだ水で促されてしまったか。ギリギリ便器に吐けたからいいようなものの。
「あーあ」
リンダさんの「あーあ」は完璧なイントネーションだった。
ペッペッと全部吐き切り、もう一度鼻をかむ。……そのとき。
わぁっと歓声が上がった。続いて、ボォーという汽笛。一つや二つではなさそうだ。そして、パ・パーンと花火の音。パーン、パ・パ・パーン。
「……明けた?」
「明けた」
「あ……あはは、あはあはあは」
もう笑いが止まらない。
「明けまして、おめでと」
「おめでとう、リンダさん。あっははは、何やってんですか、ほんともう」
こんな酔っ払いと男子トイレで明けちゃったリンダさん、可笑しすぎる。
「花火、見る」
とリンダさんは宣言し、私をしっかりと支えた。
「うん、行こ」
よろつきながらデッキに上がると、まばゆい光が次々と空へ駆け上り、横浜の夜を照らしていた。デッキのど真ん中では、ジョニーさんが日本人女性っぽい集団とノリノリで乾杯している。なるほど、だいじょぶだ、この人は。娘たちは、そんな親父の写真を撮ってはキャハキャハ笑い転げていた。
私たちはこんなに浮かれて盛り上がってるけど、今この瞬間に死んだ人も世界のどこかにはいるよなあ、などと考えてしまう。今年もどうやら、私のネガティブは絶好調。
汽笛が鳴り止み、周囲の祝賀ラッシュがご歓談モードにまで治まると、リンダさんが不意に真顔になった。
「由実さん、船乗っただけど、まだこれしか来てない」
と、すぐそこに見えている陸との距離を手で示す。
「もっと漕がないと、何もわからない」
「うん、そうだね……」
しんみりしかけていたのに、見上げるとそこには、うまいこと言った風なリンダさんのドヤ顔。
「リンダさん、もおー!」
気付けば、彼女に抱きついていた。細い体から、あったかいハグが返ってくる。今日初めて会った人なのに、私は勝手に友達気分だった。
さんざん泣き、吐いた後だし、メイクも中途半端に落ちて、私はさぞかしひどい顔をしているだろう。でも、リンダさんたちと写真を撮りたい。ちゃんと出会えたことを知らせてあげたい。きっと……ニコニコしてくれる。
「うっ……ゔぇぇぇ」
「また泣く」
「ゔぇぇぇぇぇん、ごべんださいぃぃ」
「あ、由実さん」
「ふぇ」
「アイス。アイス出てきた。食べよ」
「んえ?」
見回す間もなく、リンダさんに連行される。
先を争う人々にもみくちゃにされている間に、リンダさんが私の分も取ってきてくれた。バニラにチョコレート、ストロベリー、カフェオレ、あとは何だろう、マンゴーと青リンゴ、かな?
「すごい、リンダさん。グッジョブ」
「すごい。おいしい」
「うん、おいしい」
吐いた後だから余計にかもしれないが、どれも絶品だった。すぐ傍で、若い男の子たちが背中を丸めてアイスを食べながら「てゆーか寒くね?」を連発しているのがかわいい。
観覧車の時計は、〇時二十分を告げていた。今年が、もう始まっている。
船を、出さなければ。
沖へ……行けるところまで。
私の涙腺と腹筋が闘っていた。アイスを投入して腹筋を応援する。
ふと見上げれば、地上の光を映した灰色の空。その向こうに、新年の抱負でも語り合うかのように懸命に瞬く星たちが見えるような気がした。
【了】




