1 ♢私の中のあなた
♢♢♢ 私の中のあなた ♢♢♢
己花さんは、ある日突然……私の中に現れた。
『無様ですわね』
「誰っ?」
驚いて振り返る。
今は放課後で、私は教室前の廊下に立っている。散見する生徒らが、こちらへ目を向けてくるけど。誰も……何も言わずに、通り過ぎて行く。
違う。彼らじゃない。もっと近くから聞こえた。
でも。声の主らしき人物は、見当たらない。聞き間違い?
再び体を元の方向へ戻す。目の前に立つ裏原さんが顔をしかめている。私と同じ紺色のセーラー服姿で、肩下まである黒髪は結ばずに垂らしている。彼女の右隣には肩上までの長さの髪型の子、左隣には長い髪をポニーテールにしている子がいる。三人ともクラスメイトだ。
――彼女たちは、いわゆる……いじめっ子というやつだった。
季節は六月。中学三年の頃の話。
廊下で数人の女子生徒から、すれ違いざまに悪口を言われた。彼女たちは振り返り、私を見てニヤニヤしている。
『侮辱されて、言い返す事もできないんですの?』
また、声が聞こえた!
だけど……。声が聞こえるだけで、私の近くには裏原さんたちしかいない。彼女たちの声とは違う……耳に心地いい響きで、どこかで聞いた事のあるような気配を感じる。
お嬢様めいた口調には、呆れの混じった雰囲気がある。
『大体……あなた、視力がよろしくありませんのに。ちゃんと、眼鏡を掛けた方がよくてよ。相手の顔を、ご覧なさい』
言われて、恐る恐る……裏原さんたちを見る。お世辞にもキレイとは言えない、悪の権化の如き表情をしている。
『醜悪な者に負けてはダメよ。……わたくしが代わりに、灸を据えてあげましょうか?』
『ほんとに?』
言葉に出さず、思考してみる。私に語り掛けてくるこの子は……私の心が生み出した、私に都合のいい想像なのではないかと思い至ったからだ。中学校生活のストレスや寝不足もあって……私の精神、イカレた?
『ええ。あなたの中で、ずっと見ていたの。今まで助けてあげられなくて、ごめんなさい』
心で紡いだ言葉は、彼女に届いた。返事をしてくれた。涙が流れ落ちてしまう。彼女は……知っているのだ。私の過去を。
『眼鏡を掛けた時は、わたくしが代わりを務めますわ。安心なさって』
謎の女性の声と脳内会話をしている時分、私が涙を零し何も言わない状態だったので……裏原さんたちが、ニヤニヤを濃くしている。
「あらあ? 泣いてる! うちらにビビってんの? ウケるんですけど!」
裏原さんが耳障りな、大きめの声で言い及ぶ。
もういい加減、こちらも限界だった。精神に異常をきたす程に、うんざりしていたらしい。私の中にいる私じゃない人物が、彼女たちにどう対処するのか見当もつかなかったけど。不確かな妄想の世迷い言に、自分を委ねてしまえるくらいには……投げ遣りになっていた。
ポケットに手を入れ、眼鏡を出す。
「え? うわっ! ダサッ! 見て、まりな。こいつ、眼鏡掛けてる!」
裏原さんたちが、ギャーギャーと騒いでいたみたいだけど。声が遠くなったように感じる。
「眼鏡を……そして、わたくしの可愛い音芽を侮辱するのは、おやめなさい」
「は? 何て言った? 『わたくし』? 『おやめなさい』? ちょっ! 聞いた? マジウケるー! ははは!」
「三年二組、裏原せりな。あなた……サッカー部の吉園君が好きなのでしょう?」
「……は?」
「残念でしたね。彼は一組に彼女がいますの」
「はっ? お前、嘘つくな! おととい確認したら、彼女はいないって言ってたんだけど?」
「昨日、両想いになってもらいましたわ」
「えっ?」
「わたくし……あなたが、ずっと目障りだったんですのよ? 毎回毎回、わたくしの音芽に嫌がらせをしてきて。ですから、あなたにもちょっとした不幸をお返ししたくて。キューピッド役をさせていただきましたの」
「はっ! 意味分かんない! 吉園君は私のだしっ! 彼も私の事が好きだから、そんな……彼女とか嘘じゃん!」
「それは……ご自分で、お確かめになってはいかが?」
わざと、ニッコリと。笑顔を向けて差し上げます。ゆったりとした足取りで廊下を横切り、隣の教室の引き戸を開けます。
室内の出入り口の側に、黒の短髪で背の高い男子生徒が立っています。吉園君です。前もって、待機をお願いしていました。彼は引きつった表情で、裏原さんを見ています。
裏原さんの顔が、強張っていく様が痛快です。
「吉園く……」
「裏原……お前、そんな風に考えてたの?」
吉園君は、裏原さんが何か言い掛けている途中で話し始めました。
「怖っ! ただ、喋った事があるだけで……好意あるって決めつけんの?」
彼のすぐ傍には、彼女さんの姿もありました。二人とも……裏原さんへ、どん引きしていらっしゃるご様子です。
「誤解も解けて、何よりですね」
顔を真っ赤にしている裏原さんへ、うふふと笑ってあげます。何日も前から、準備してきた甲斐がありました。
「実は裏原さんの取り巻きの皆様にも、色々と準備をしていましたの」
「い……行こっ!」
これから、更に面白くなりそうなところでしたのに。いじめっ子三人組は、廊下を走って逃げ去りました。幾分、スッキリした心持ちになれました。笑いが漏れてしまいます。
「今後、音芽に何かしたら……相応に報いを受けていただきますわ! オホホホホホ」
――そんな事があったらしい。件の場面で意識がなかった。まるで、記憶が抜け落ちているみたいに。「知らなかった」感覚に近いかもしれない。後から己花さんに、その時の詳細を教えてもらい分かった。
そっか。何をしていたのか記憶にないって、たまに思う事があったけど。己花さんが、体を動かしていたのね。
私の中にいたお嬢様っぽい言葉遣いの女の子……己花さん。
今はもう、高校生になった私だけど。己花さんという存在が生まれた原因に、一つ……思い当たる事がある。
中学の頃、ネット小説や本を読み漁っていた。眠る時間も削って読んでいた弊害かな?
悪役令嬢的なキャラの思考が移ってしまった? 現実逃避したい時、無意識レベルでなり切ってる?
日曜日、商店街にある本屋に立ち寄る。並ぶ本の表紙を眺め、うっとりする。正に天国。
今日は学校が休みなので、私服で来た。黒のズボンと白の大きめな半袖Tシャツを着ている。髪は、いつものように後ろで一つに束ねている。鎖骨くらいまでの長さがある。今の季節は、特に……ジメジメしていて暑いので、結んでいる事が多い。
本を試し読みする度に、ずり落ちるトートバッグの紐を肩に掛け直しつつ。表紙の綺麗な一冊に手を伸ばす。
読書が好きだ。色々な物語の主人公になれる。特にファンタジーや冒険、恋愛の絡むものが好みだった。
私も、いつか誰かと恋をするのかな? 今まで片想いめいたものはあったけど、物語で語られる恋とは違う気がしていた。もしかしたら、憧れを恋だと思っていたのかも。
中学の三年間、暇があれば読書していた。とりわけ悪役令嬢的な、強気なヒロインに惹かれていた。
その弊害かもしれない。私の心の中に、別の人格らしきものが顔を出した。強気なお嬢様風の。
異変は日に日に大きく……存在を増していく。
そして高校生になった私は今現在、当たり前のように……もう一つの人格と共存している。
彼女の名前は「己花」さん。
彼女のおかげで、中学時代は色々あった。卒業する頃には、同じ学年の子たちに「変な人」認定されていたり。何故か一部の人たちから、遠巻きに崇められたりしていた。けれど……特段、いじわるされる事もなく。割と平穏に過ごせた。
高校生になり同じ中学だった子も少なかったので、これまでに絡んでくる人もいなかった。クラスメイトにも、中学での件は知られていない……と思う。
眼鏡を掛けると人格がチェンジして、己花さんが「私」を主導する。
家では、さっそく家族に気付かれたけど。学校では特にトラブルもなく、己花さんと入れ替わる機会もなかった。
しかし。最近、更に視力が低下してきたようで……黒板の字が見えづらい。だからと言って、眼鏡を掛けたら己花さんに替わってしまうし。
次の席替えで、前の方に移動できればいいな。
それにしても。さっきから右横で立ち読みしている、お兄さんが近い。腕とか……くっつけてくるし。嫌だな。
左に離れても、横向きに移動して近付いて来る。
「ねぇ君。さっきから、ずっとここにいるよね。高校生?」
突然……その人が声を掛けてきて、びっくりする。視界に入った男性は、センター分けの前髪で……白いシャツ、薄ピンク色のズボンという外見だ。
「この漫画が好きなの?」
たまたま目前に置かれている漫画について聞かれるけど、何と答えたらいいのか。あなたが近付いてくるのが嫌だから、逃げてたらこのコーナーまで来ていただけです……とも言いづらい。
「よかったら……一緒に、ご飯食べに行かない? この漫画について話そうよ」
「行きません」
はっきりと断った。しかし……彼は、しつこかった。
「いいから。心配しなくても、ボクが奢るよ?」
対処法を考えている間にも、事態は悪い方へ向かっていく。ニチャッとした笑みを見せられ、背筋がゾワッとする。
う~~~。己花さん、お願いしますっ!
眼鏡を掛けている最中、手首を掴まれてしまう。
「その手を放しなさい。けだものめが」
静かだった店内に、わたくしの声が響きます。
「何だと? こっちが優しくしてやってんのに、調子に乗って……」
男が怒った態度で、手に力を込めてきます。
「やはり。本性を見せましたわね? こちらも、遠慮せずに済みますわ」
微笑みました。息を吸い込みます。
周囲に、男の暴力を知らしめようとしていた時。わたくしの前に、何者かが立ちました。




