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僕の物語― それでも、前へ ―  作者: シロイルカ
第四幕 孤独な抗戦
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第二章 ハンバーガーヒル 後編

交代してしばらく経った頃に、僕達は呼ばれた。

名前を呼ばれた、その一瞬で、さっきまでの雑談や気の緩みはすべて消えた。

空気が変わる、というのはこういうことを言うのだろう。


立ち上がる足が、ほんの少しだけ重い。

けれど、不思議と震えはなかった。

覚悟は、もう決まっていたからだ。

扉の前に立つ。


この一枚の向こう側に、これまで積み上げてきたものと、これから失うかもしれないもの、そのすべてが詰まっている。

深く息を吸う。


――第2ラウンドの始まりだ。


最初に口を開いたのは、調査官だった。

淡々とした口調で、妻側の主張と要求が読み上げられていく。

まず、妻側の主張。

今回の離婚理由は、あくまで僕のDVによるものであり、不貞行為は離婚原因ではない、というものだった。

思わず、心の中で苦笑した。

ここまで来て、まだそれを言うのか。

そう思った。


不倫の事実はある。

証拠もある。

にもかかわらず、それでもなお、自分たちに都合のいい形へ話をねじ曲げてくる。


予想はしていた。


していたが、実際に言葉として突きつけられると、やはり胸の奥がチクリと痛くなる。

続いて提示されたのは、婚姻費用の要求だった。

離婚成立まで、婚姻継続費用として月13万円を支払え、という。


さらに、財産分与についても協議したいとのことだった。


なるほど。


要するに、金は払え。


だが子どもには会わせない。


そういう話だった。


そして、こちらが求めていた面会交流について。

妻側は、明確に拒否した。

理由は二つ。


ひとつは、妻が僕を恐れているから。


もうひとつは、子どもたちが父親を怖がっており、会いたがっていないから。


その言葉を聞いた瞬間、頭の中が一瞬だけ真っ白になった。


妻が僕を恐れている。

それは分かる。


子どもたちが、僕を怖がっている。

よくも、そこまで言えるな。


――そう思った。


怒り、というより。

呆れにや憤りに近かった。

ただ悲しかった、僕はそんなに悪い事をしたのだろうか。


誰より子どもたちを風呂に入れ、寝かしつけ、休日には遊びに連れていき、泣けば抱き上げ、熱を出せば夜通し看病してきた。


怖がられていた父親が、そんなことをするものなのか。


少なくとも、子どもたちと過ごしてきた時間の中に、そんな記憶は一度もない。


断じてない。


もちろん、夫婦の間に言い争いはあった。

感情的になったこともある。

それは否定しない。


だが、それとこれとは話が違う。


夫婦間の問題に、

子供達を巻き込まないで欲しい。


そう強く言いたかった。

けれど、ここで感情を爆発させれば、相手の思う壺だった。


「ほら、やはり乱暴だ」


そう言うための材料を、自分から差し出すことになる。


だから、飲み込んだ。

悲しみも、悔しさも、屈辱も。

全部、一度胸の奥に沈めた。

ここで必要なのは、激情じゃない。

反撃だ。


感情で殴るな。


事実で刺せ。


そう自分に言い聞かせながら、僕は静かに聞いていた。


その時だった。

それまで黙って聞いていた僕の弁護士が、静かに口を開いた。


「――それって、ずるくないですか?」


声を荒げたわけではない。


机を叩いたわけでもない。

感情を露わにしたわけでもない。


けれど、その一言には、抑え込んでいた怒りが確かにあった。


静かで、冷静で、だからこそ鋭い。


場の空気を切り裂くには、十分すぎる一言だった。


「金は払え。でも子どもには会わせない。

……そういうことですよね?」


調査官に向けられたその問いは、決して大きな声ではなかった。


だが、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせるには十分だった。

感情的ではない。

だからこそ、逃げ道がなかった。


ただ事実だけを並べ、相手の主張の歪さを、静かに突きつける。


まるで鈍器ではなく、細い刃物で急所だけを正確に刺すような言葉だった。

こちらは、譲歩してきた。


感情だけで突っ走らず、できる限り穏便に、できる限り円満に解決できるように。


子どもたちのためにも、せめて話し合いの余地だけは残したかった。

けれど、返ってきたのは――

金は払え。

子どもには会わせない。

父親としての権利は認めない。

だが義務だけは果たせ。

そんな一方的な要求だった。


普段温厚な僕ですら憤りを感じていた、隣でそれを聞いていた弁護士は、なおさらだったのだろう。

表情は変わらない。


だが、その声音には、はっきりとした苛立ちが滲んでいた。


そして、ここからこちらの要求が提示された。

まず、婚姻費用について。

こちらが提示したのは月7万円。

これは、子どもたちの養育に必要な費用だけを算出した金額だった。


勝手に家を出て行った妻本人の生活費は含まない。

あくまで、子どもたちに対して負う責任としての額だ。


当然だと思った。

養うべきは子どもであって、裏切った上に家を出て行った相手の生活ではない。


さらに、妻側が主張する「恐怖」についても、こちらは明確に反論した。


僕はもう、妻に対して何の感情も持っていない。

怒りも、執着も、未練もない。

あるのは、子どもたちに会いたいという思いだけだ。

正直に言えば、もう無関心だった。

そんな相手に対して、今さら一方的に「怖い」と言われても、こちらからすれば自意識過剰としか言いようがない。


少なくとも、面会交流を拒絶する正当な理由にはならない。


そして、最後にこちらの要求がはっきりと示された。

面会交流が実現しない限り、財産分与その他の協議には応じない。

当然だった。


父親から子どもを切り離しておきながら、金の話だけ先に進めようなど、筋が通るはずがない。

まず話すべきは、父親として子どもたちに会う権利のことだ。


順番が違う。


それを、僕の弁護士ははっきりと言葉にしてくれた。

感情任せではない。

だが、確かに心のある言葉だった。

依頼人の事情を理解し、

感情を汲み取り、

その上で冷静に、理屈で戦ってくれる。

その姿を見た時、心の底から思った。


――この弁護士に依頼して、本当に良かった。


そこまで話したところで、ひとまずこちらのターンは終わった。


再び別室へ戻され、また呼ばれるのを待つことになった。

さっきまで張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ緩む。

とはいえ、気が休まるような時間ではない。

ただ、次の呼び出しまでのわずかな猶予が与えられただけだった。


椅子に腰を下ろすと、弁護士が小さく息をついて言った。

まず、婚姻費用について。

結論から言えば、これは払った方がいい、とのことだった。

正直、納得はできなかった。

払いたくない気持ちは当然あった。

なぜ裏切られ、子どもにも会わせてもらえず、その上で金まで払わなければならないのか。

けれど、そういう話ではないらしい。

婚姻費用は、法的には「払うべきもの」として扱われる。


だからこそ、ここで重要なのは、払うかどうかではなく――

「こちらは払う意思がある」という事実を作ること。

それが大事なのだと、弁護士は言った。

こちらは要求を飲んでいる。

最低限の義務は果たしている。

譲歩もしている。


それでもなお、相手側は面会交流を拒否し続ける。

この構図が出来上がることに意味がある、という話だった。

なるほど、と思った。

感情だけで見れば、理不尽だ。

だが、調停や裁判で見られるのは、「誰がより正しいか」だけではない。

誰が冷静で、誰が誠実で、誰が筋を通しているか。

そういう積み重ねが、後々じわじわ効いてくるのだという。

こちらは払うべきものを払っている。

だが相手は、父親として当然の要求を拒み続けている。

その形が残れば、後々相手側の印象は確実に悪くなる。

表面上は静かでも、そういう“記録”は確実に積み上がっていくらしい。


さすがに場数が違う。


僕には到底見えない盤面を、この人はもう何手も先まで見ていた。

思わず、心の中で平伏した。


なるほど、戦っているようでいて、これはただ殴り合っているわけじゃない。

調停という名の盤上で、少しずつ形勢を作るゲームなのだ。


力任せに怒鳴る場所じゃない。

一手ずつ、相手の逃げ道を潰していく場所なんだと、ようやく分かってきた。

その後は、少しだけ空気が緩んだ。


妻と不倫相手がやり取りしていた履歴を弁護士に見せると、

「ああ、これ後で送ってください」

と、淡々と返ってきた。


その反応が妙に頼もしかった。

こちらにとっては胃が痛くなるような証拠でも、

この人にとっては、ただ盤面をひっくり返すための材料のひとつなのだろう。


そう思うと、少しだけ気が楽になった。

その後は、また他愛のない雑談をして過ごした。

さっきまであれだけ重かった空気が、少しだけ軽くなる。

もちろん、状況が好転したわけではない。

戦いが終わったわけでもない。

ただ、次に呼ばれるまでのわずかな時間だけ、

僕は少しだけ、笑顔に戻っていた。

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