第二章 ハンバーガーヒル 後編
交代してしばらく経った頃に、僕達は呼ばれた。
名前を呼ばれた、その一瞬で、さっきまでの雑談や気の緩みはすべて消えた。
空気が変わる、というのはこういうことを言うのだろう。
立ち上がる足が、ほんの少しだけ重い。
けれど、不思議と震えはなかった。
覚悟は、もう決まっていたからだ。
扉の前に立つ。
この一枚の向こう側に、これまで積み上げてきたものと、これから失うかもしれないもの、そのすべてが詰まっている。
深く息を吸う。
――第2ラウンドの始まりだ。
最初に口を開いたのは、調査官だった。
淡々とした口調で、妻側の主張と要求が読み上げられていく。
まず、妻側の主張。
今回の離婚理由は、あくまで僕のDVによるものであり、不貞行為は離婚原因ではない、というものだった。
思わず、心の中で苦笑した。
ここまで来て、まだそれを言うのか。
そう思った。
不倫の事実はある。
証拠もある。
にもかかわらず、それでもなお、自分たちに都合のいい形へ話をねじ曲げてくる。
予想はしていた。
していたが、実際に言葉として突きつけられると、やはり胸の奥がチクリと痛くなる。
続いて提示されたのは、婚姻費用の要求だった。
離婚成立まで、婚姻継続費用として月13万円を支払え、という。
さらに、財産分与についても協議したいとのことだった。
なるほど。
要するに、金は払え。
だが子どもには会わせない。
そういう話だった。
そして、こちらが求めていた面会交流について。
妻側は、明確に拒否した。
理由は二つ。
ひとつは、妻が僕を恐れているから。
もうひとつは、子どもたちが父親を怖がっており、会いたがっていないから。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が一瞬だけ真っ白になった。
妻が僕を恐れている。
それは分かる。
子どもたちが、僕を怖がっている。
よくも、そこまで言えるな。
――そう思った。
怒り、というより。
呆れにや憤りに近かった。
ただ悲しかった、僕はそんなに悪い事をしたのだろうか。
誰より子どもたちを風呂に入れ、寝かしつけ、休日には遊びに連れていき、泣けば抱き上げ、熱を出せば夜通し看病してきた。
怖がられていた父親が、そんなことをするものなのか。
少なくとも、子どもたちと過ごしてきた時間の中に、そんな記憶は一度もない。
断じてない。
もちろん、夫婦の間に言い争いはあった。
感情的になったこともある。
それは否定しない。
だが、それとこれとは話が違う。
夫婦間の問題に、
子供達を巻き込まないで欲しい。
そう強く言いたかった。
けれど、ここで感情を爆発させれば、相手の思う壺だった。
「ほら、やはり乱暴だ」
そう言うための材料を、自分から差し出すことになる。
だから、飲み込んだ。
悲しみも、悔しさも、屈辱も。
全部、一度胸の奥に沈めた。
ここで必要なのは、激情じゃない。
反撃だ。
感情で殴るな。
事実で刺せ。
そう自分に言い聞かせながら、僕は静かに聞いていた。
その時だった。
それまで黙って聞いていた僕の弁護士が、静かに口を開いた。
「――それって、ずるくないですか?」
声を荒げたわけではない。
机を叩いたわけでもない。
感情を露わにしたわけでもない。
けれど、その一言には、抑え込んでいた怒りが確かにあった。
静かで、冷静で、だからこそ鋭い。
場の空気を切り裂くには、十分すぎる一言だった。
「金は払え。でも子どもには会わせない。
……そういうことですよね?」
調査官に向けられたその問いは、決して大きな声ではなかった。
だが、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせるには十分だった。
感情的ではない。
だからこそ、逃げ道がなかった。
ただ事実だけを並べ、相手の主張の歪さを、静かに突きつける。
まるで鈍器ではなく、細い刃物で急所だけを正確に刺すような言葉だった。
こちらは、譲歩してきた。
感情だけで突っ走らず、できる限り穏便に、できる限り円満に解決できるように。
子どもたちのためにも、せめて話し合いの余地だけは残したかった。
けれど、返ってきたのは――
金は払え。
子どもには会わせない。
父親としての権利は認めない。
だが義務だけは果たせ。
そんな一方的な要求だった。
普段温厚な僕ですら憤りを感じていた、隣でそれを聞いていた弁護士は、なおさらだったのだろう。
表情は変わらない。
だが、その声音には、はっきりとした苛立ちが滲んでいた。
そして、ここからこちらの要求が提示された。
まず、婚姻費用について。
こちらが提示したのは月7万円。
これは、子どもたちの養育に必要な費用だけを算出した金額だった。
勝手に家を出て行った妻本人の生活費は含まない。
あくまで、子どもたちに対して負う責任としての額だ。
当然だと思った。
養うべきは子どもであって、裏切った上に家を出て行った相手の生活ではない。
さらに、妻側が主張する「恐怖」についても、こちらは明確に反論した。
僕はもう、妻に対して何の感情も持っていない。
怒りも、執着も、未練もない。
あるのは、子どもたちに会いたいという思いだけだ。
正直に言えば、もう無関心だった。
そんな相手に対して、今さら一方的に「怖い」と言われても、こちらからすれば自意識過剰としか言いようがない。
少なくとも、面会交流を拒絶する正当な理由にはならない。
そして、最後にこちらの要求がはっきりと示された。
面会交流が実現しない限り、財産分与その他の協議には応じない。
当然だった。
父親から子どもを切り離しておきながら、金の話だけ先に進めようなど、筋が通るはずがない。
まず話すべきは、父親として子どもたちに会う権利のことだ。
順番が違う。
それを、僕の弁護士ははっきりと言葉にしてくれた。
感情任せではない。
だが、確かに心のある言葉だった。
依頼人の事情を理解し、
感情を汲み取り、
その上で冷静に、理屈で戦ってくれる。
その姿を見た時、心の底から思った。
――この弁護士に依頼して、本当に良かった。
そこまで話したところで、ひとまずこちらのターンは終わった。
再び別室へ戻され、また呼ばれるのを待つことになった。
さっきまで張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ緩む。
とはいえ、気が休まるような時間ではない。
ただ、次の呼び出しまでのわずかな猶予が与えられただけだった。
椅子に腰を下ろすと、弁護士が小さく息をついて言った。
まず、婚姻費用について。
結論から言えば、これは払った方がいい、とのことだった。
正直、納得はできなかった。
払いたくない気持ちは当然あった。
なぜ裏切られ、子どもにも会わせてもらえず、その上で金まで払わなければならないのか。
けれど、そういう話ではないらしい。
婚姻費用は、法的には「払うべきもの」として扱われる。
だからこそ、ここで重要なのは、払うかどうかではなく――
「こちらは払う意思がある」という事実を作ること。
それが大事なのだと、弁護士は言った。
こちらは要求を飲んでいる。
最低限の義務は果たしている。
譲歩もしている。
それでもなお、相手側は面会交流を拒否し続ける。
この構図が出来上がることに意味がある、という話だった。
なるほど、と思った。
感情だけで見れば、理不尽だ。
だが、調停や裁判で見られるのは、「誰がより正しいか」だけではない。
誰が冷静で、誰が誠実で、誰が筋を通しているか。
そういう積み重ねが、後々じわじわ効いてくるのだという。
こちらは払うべきものを払っている。
だが相手は、父親として当然の要求を拒み続けている。
その形が残れば、後々相手側の印象は確実に悪くなる。
表面上は静かでも、そういう“記録”は確実に積み上がっていくらしい。
さすがに場数が違う。
僕には到底見えない盤面を、この人はもう何手も先まで見ていた。
思わず、心の中で平伏した。
なるほど、戦っているようでいて、これはただ殴り合っているわけじゃない。
調停という名の盤上で、少しずつ形勢を作るゲームなのだ。
力任せに怒鳴る場所じゃない。
一手ずつ、相手の逃げ道を潰していく場所なんだと、ようやく分かってきた。
その後は、少しだけ空気が緩んだ。
妻と不倫相手がやり取りしていた履歴を弁護士に見せると、
「ああ、これ後で送ってください」
と、淡々と返ってきた。
その反応が妙に頼もしかった。
こちらにとっては胃が痛くなるような証拠でも、
この人にとっては、ただ盤面をひっくり返すための材料のひとつなのだろう。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
その後は、また他愛のない雑談をして過ごした。
さっきまであれだけ重かった空気が、少しだけ軽くなる。
もちろん、状況が好転したわけではない。
戦いが終わったわけでもない。
ただ、次に呼ばれるまでのわずかな時間だけ、
僕は少しだけ、笑顔に戻っていた。




