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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第1部:野生の伯爵令嬢、野良王子を拾う
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第6話:金、銀、湯気の向こうの少女

「なんか、思ってたんと違う」


 港町レグスへの一歩を踏み入れた瞬間、メリーの口から漏れたのは、偽らざる落胆だった。

 革靴が地面を踏みしめる。

 ぐちゃり、と湿った音が鼓膜を打つ。

 靴底にへばりついたのは土ではない。

 腐った魚の内臓と、下水が混ざり合った黒い粘土だ。


「……違いますな」


 即座に反応したのはジャックだった。

 目深に被ったフードの下、その双眸はすでに油断なく周囲を巡回し、眉間に深く皺を刻んでいる。


 山腹から見下ろした際に輝いていた「銀色の屋根」は、塗装が剥げ落ち、湿気たカビが陽光を鈍く反射していたに過ぎない。

 古書に見る「黄金の港」の面影は、もはや瓦礫の下に埋没している。

 港に目を向けても、停泊しているのは穴の開いた帆を繕っただけの、今にも沈みそうなボロ船ばかり。

 かつて白帆を翻して世界を駆けた快速船など、どこにも見当たりはしない。

 鼻孔を犯すのは、憧れた潮騒の香りではなく、鼻の奥が痺れるほどの腐臭とアンモニアの刺激臭のみ。


「う、うーむ……」


 遅れて、アルが情けなく呻く。

 戦火を逃れた難民を装い、泥で汚した外套を纏ってはいるが、その立ち居振る舞いからは隠しきれない「異物感」が滲み出ている。

 通り過ぎる路地、虚ろな目をした住人たちが、ぬらりと視線を上げた。

 それは無関心ではない。

 彼らが纏う外套の下に金目のものがあるか、あるいは剥ぎ取る価値のある「肉」であるか、粘りつくように値踏みする捕食者の視線だ。


 その視線に晒され、アルは居心地悪そうに身を縮める。

 彼には、この敵意に満ちた空気が毒でしかない。


「感傷に浸る時間は無駄です。アル、荷物が濡れます。高く掲げなさい」


「あ、ああ。すまない」


 メリーは視線を汚泥から切り離し、足早に通りを抜ける。

 腐敗した大通り、踏みしめるたびに跳ねる汚水。

 彼女の瞳は、この非効率な泥濘を歩き続けることを拒絶し、唯一、雨風を凌げそうな石造りの建物を捉えた。


「このあたりで妥協しましょう。アル、顔を伏せなさい」


 大通りから一本外れた路地。

 周囲よりは幾分か堅牢な造りの宿屋を見つけ、三人はその扉を潜った。


     ──────


 建付けの悪い扉が、不快な軋みを上げて閉まる。

 外の湿気と腐臭を遮断するはずの壁は、逆に店内に澱んだ空気を閉じ込めていた。


 一階が酒場を兼ねたその宿は、薄暗く、死んだように静かだった。

 まばらに座る客たちは、誰一人として会話を交わしていない。

 ただ、泥水のように濁ったエールを啜る音と、時折漏れる咳払いだけが、この空間の生気のなさを強調していた。


「い、いらっしゃい……へぇ、こりゃまた……」


 カウンターの奥から、汚れたエプロンを掛けた主人が顔を出す。

 揉み手をしながら近づいてくるその視線は、三人の顔ではなく、外套の隙間から覗く革靴や、腰帯の金具に吸い寄せられていた。

 剥ぎ取れるか、騙し取れるか。

 値踏みするその瞳は、路地裏の浮浪者と同じ色をしている。


 三人は隅のテーブルを確保した。


「ジャック。相場と勢力図、それと足のつかない換金ルートの確保を」


 メリーは卓の下で、重みのある革袋を滑らせる。

 金貨の擦れる微かな音。

 主人の耳がピクリと動くのを尻目に、ジャックは無言でそれを受け止め、懐へと消した。


「晩餐までには」

「期待しています」


 老人は音もなく立ち上がる。

 何かを言い残すこともなく、ただ自然な歩調で出口へと向かい、扉を開けた。

 一瞬差し込んだ外光の中にその背中が混じり、扉が閉じた時には、すでに気配すら感じられなくなっていた。


 残されたテーブルに、夕食が運ばれてくる。

 硬い黒パンと、灰色のスープ。


 メリーは木製の匙でスープを一度だけ掬い、鼻を近づけた。

 煮え切らない野菜の腐敗臭と、鉄錆のような血の匂い。

 表面には正体不明の脂が、虹色の膜を作って浮いている。

 彼女は無表情のまま匙を戻した。

 毒味ですらない。これは「餌」だ。

 彼女は興味を失い、乾燥したパンを小さく千切って口へ運ぶ。

 味覚を遮断し、ただ乾いた燃料を炉にくべるような作業。


 ふと、視線を上げる。

 対面のアルは、匙を握りしめたまま彫像のように固まっていた。


「……これは」

「食べなさい。死にますよ」


「う、ぐ……」


 アルの喉が、引きつったように動く。

 極限の空腹であるはずだ。

 だが、王城で磨かれた彼の生存本能が、目の前の灰色の液体を生理的に拒絶している。

 口に運ぼうとする手が震え、匙から灰色の雫がこぼれ落ちた。


 その情けない様を、メリーはパンを咀嚼しながら冷ややかに見つめる。

 スープの水面を見つめるアルの瞳は、脂の膜に映る自身の顔ではなく、失われた過去の栄光を見ているようだった。


「アル」


 嚥下し、彼女は問う。


「あなた、奪われた椅子を取り戻しに行く気概は残っていて?」


 唐突な問い。

 アルが弾かれたように顔を上げる。


「……え?」


「言葉通りの意味ですわ。いつまでも私について回るのが、あなたの望みではないはずでしょう。いずれは奪われたものを奪い返さなければなりません。……それとも、このまま名もなき敗残者として、こんな泥の中で朽ち果てるおつもり?」


 アルの視線が泳ぐ。

 反論の言葉を探し、やがて力なく肩を落とした。

 視線は再び、手元の汚れたスープへと落ちていく。


「……今は、まだ自信がない。すべてを失った俺に、何ができるというのだ」


 彼は自嘲気味に笑い、震える手で匙を置いた。カラン、と乾いた音が響く。


「今の俺には、この不味いスープの一杯すら、自力で購う力すらないのだから」


「……そうですか」


 メリーは短く返し、最後のパンの欠片を口に放り込んだ。

 この話はもう終わりだ、という事だろう。

 アルも、これ以上何も言わなかった。


 下山初日の夜は、こうして淀んだ沈黙の中で過ぎていく。


     ──────


 宿の主人に金貨を握らせ、不潔な宿屋の中で唯一、まともに湯が張られた貸し切り風呂を確保させた。


 通された客室は、カビ臭く、万年床のような寝台が二つ置かれているだけの殺風景な部屋だった。

 メリーは寝台の一つに荷袋を降ろすと、手早く荷解きを始める。

 タオルと着替え、そして石鹸。

 必要なものを取り出した彼女は、最後に袋の底から、布に包まれた長尺物を取り出した。


「アル」


 雑に巻かれた布を解き、放り投げる。

 薄闇の中で、黄金の鍔と柄に埋め込まれた宝石がギラリと異質な輝きを放った。

 あの盗賊団のアジトで回収した戦利品だ。


「おっと……」


 不意に手渡された重量に、アルはたたらを踏んだ。

 鞘の装飾が擦れ、ジャラリと派手な金属音を立てる。


「今のあなたには、丸腰で私を守る実力も自信もないのでしょう? ならば、せめて道具で補いなさい」


「……ああ。分かった。君を守るために使おう」


 アルの手が、震えながらも柄を握りしめる。

 その覚悟のほどは定かではない。

 煌びやかな剣を抱えて薄汚れた部屋に立つ姿は、騎士というよりは、借り物の衣装を着せられた滑稽な道化に近い。

 だが、今の彼にはそれが精一杯の「実務」だった。


「ただし」


 メリーは着替えを抱え、冷ややかに釘を刺す。


「その剣は、あなたが死んで誰かの手に渡ることを禁止します」


「……肝に銘じよう」


「よろしい。私は泥と臭いを落としてきます。あなたは扉の前で番犬をなさい」


     ──────


 浴室に満ちる濃密な湯気。

 そこは、腐敗したレグスの中で唯一、時間が止まったような清浄な空間だった。


 ちゃぷん、と柔らかな水音が響く。

 湯船に身体を沈めると、強張っていた少女の四肢が、熱を含んだ湯の中でゆっくりと解けていく。


「……ふぅ」


 小さな唇から、ほう、と熱い吐息が漏れた。

 湯を掬い、細い腕を滑らせる。

 こびりついていた黒い粘土と、染みついた腐臭が湯に溶け出し、その下から透き通るような白い肌が露わになる。

 濡れたピンクブロンドの髪が肌に張り付き、湯気で紅潮した頬を縁取る。

 華奢な肩のライン、水面に揺れる鎖骨の窪み。

 それは、泥濘の中に咲いた一輪の花のように、圧倒的な「可憐さ」を以てそこに在った。


 パシャリ、パシャリ。

 無邪気に湯を遊ぶ水音が、扉越しに廊下へ響く。

 外の世界の汚濁をすべて洗い流し、ただの「少女」へと還る、束の間の安息。


 その幸福な水音を背に、アルは直立不動で警護を続けていた。

 視線は一点を見つめ、微動だにしない。


 そこへ。

 廊下の闇から、音もなく影が滲み出た。


「……お勤め、ご苦労様です」


「うわっ!?」


 アルが心臓を抑えて飛びのく。

 いつの間にか、その背後にはジャックが立っていた。

 床板を軋ませる音も、気配すらも断った、完全な隠密行動。

 その表情からは、先ほどまでの好々爺の柔和さは消え、獲物の情報を持ち帰った「梟」の鋭さが宿っている。


 老人はアルに一礼をすると、湯気の漏れる扉へ向かって静かに声を掛けた。


「……お待たせいたしました、メリー様。面白い話がいくつか拾えましたよ」


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