第5話:足跡、潮騒、その青の始まり
夜明けの薄明が、冷え切った山肌を青白く染め上げている。
撤収の号令が飛んだ。
昨夜の凄惨な蹂躙と、奇妙な契約の儀。
メリーは、一年間住処としたこの過酷な山脈を背に、眼下に広がるはずの文明社会を目指す準備を進めていた。
傍らでは、老人が音もなく動いている。
ジャックはメリーの指示を待つまでもなく、焚き火の痕跡を泥で埋め、回収した金貨の袋や物資を三人分の荷袋へと最適に分配し終えていた。
その一挙手一投足に無駄はなく、かつて『梟』として影を渡り歩いた職能の片鱗を、生活という卑近な場においても遺憾なく発揮している。
一方、もう一人の男は、歪に膨らんだ荷袋の前で立ち尽くしていた。
「メリー、この荷物はこれでいいのか? どうも……収まりが悪いのだが」
アルが困惑の表情で、革紐と格闘している。
指先は微かに震え、結び目一つ作るのにも不自然な時間が流れる。
剣を握れば一流かもしれないが、生活者としては落第点だ。
王族として傅かれることに最適化されたその手は、重い肉や雑多な日用品を荷詰めするという現実を前に、ただ持て余されていた。
両親を殺された絶望以前に、彼は「生活」という名の武器を持たざる、裸の赤子に等しい。
「入れ方が雑よ、アル。重心が偏ってる」
メリーは彼の手から荷袋を奪い取ると、無駄のない動作で中身を詰め直した。
重いものを背中側に、軽いものを外側に。
隙間には布を詰め、揺れを防ぐ。
山暮らしで身につけた、生きるための知恵だ。
「そんな足取りじゃ、下山の途中で荷崩れを起こして笑いものになるわよ。街へ降りれば、そこは他人の視線が支配する場所。その不器用さ一つが、私たちの首を絞めるのよ」
「……承知した。ボロが出ないよう、善処する」
「『善処』じゃなくて、呼吸をするようにこなせって言ってるの」
メリーは冷たく言い放ち、詰め直した荷袋を彼の胸へと押し戻した。
ずしりとした重みに、アルがよろめく。
嘆息を噛み殺し、メリーは歩き出す。
険しい岩場が終わり、腐葉土の柔らかな感触が足裏に伝わり始める。
空気の密度が変わった。
山頂付近の刺すような冷気は和らぎ、代わりに湿り気を帯びた重みのある風が、木々の隙間を吹き抜けていく。
「メリー。君は、街へ着いたらまず何をしたいのだ? やはり、温かい食事か?」
背後から、アルが的外れな問いを投げかけてくる。
慣れない山道の歩行と背中の重みに喘ぎながらも、父親役を意識しているのか、その顔には悲壮な決意と、隠しきれない世間知らずの不安が張り付いている。
メリーは振り返りすらしない。
「まずは、この泥と血の匂いを落としたいわね。それから、今後の拠点を決めるための情報収集。浮かれた予定などないわ」
「そ、そうか……。手厳しいな」
アルの苦笑いする気配が背中に刺さる。
だが、メリーの胸中もまた、言葉とは裏腹に早鐘を打っていた。
(街……。人が住み、物が溢れ、法と秩序がある場所)
この一年、彼女の世界は「食うか食われるか」しかなかった。
泥水を啜り、獣を狩り、時には人を殺して奪った。
そんな野生の暮らしが、今日で終わる。
地図の端に描かれた、インクの染みでしかなかった場所。
『黄金の港レグス』。
古書によれば、そこは大陸南西の交易の要衝であり、世界中の富が集まる輝かしい都市だという。
白い石壁、立ち並ぶ尖塔、そして港を埋め尽くす無数の船のマスト。
夜になれば街中の灯りが宝石箱のように輝き、海面に光の帯を描くのだと、物語は語っていた。
あそこに行けば、泥のスープではなく温かい食事が、岩肌ではなく柔らかいベッドが待っているはずだ。
人間としての尊厳を取り戻し、奪われた未来を再構築する。
そのための第一歩が、あの街にある。
下山を開始して数時間。
森の密度が下がり、頭上の空が広がり始めた。
風が変わる。
土と草の匂いの中に、微かに混じる塩の香り。
それは、記憶の底にある屋敷の図書室で読んだ、遠い異国の物語の香りを運んでくるようだった。
「……ジャック、アル。少し急ぐわよ」
はやる気持ちを抑えきれず、メリーの歩調が自然と早まる。
「おっと、待ってくれメリー」
「お気をつけて、足元が悪うございます」
二人の声を背に、彼女は光の射す方へと駆け出した。
突如として、視界を遮っていた木々の檻が尽きた。
「……」
メリーは足を止めた。
呼吸を忘れた。
視界の端から端までを、暴力的なまでの「蒼」が塗り潰していた。
水平線。
蔵の古書『蒼き境界の向こう側』の挿絵など、単なる記号に過ぎなかったと思い知らされる。
太陽の光を乱反射させ、無数の宝石を撒き散らしたように煌めく巨大な水塊。
自分を捨てた家も、血を流し合った刺客たちの記憶も、すべてを飲み込んで余りあるほどの圧倒的な質量。
潮騒の轟音が、重低音となって大地を震わせている。
「……あった」
メリーの唇が震えた。
瞳孔が開き、その色彩を貪るように焼き付ける。
「本当に……あったんだ……」
声が、風に溶けていく。
ただの青ではない。
空の青よりも深く、宝石のエメラルドよりも複雑で、生命の根源を揺さぶるような圧倒的な色彩。
それが、世界の果てまで続いている。
そして、その蒼と陸の境界線。
海岸線にへばりつくようにして、陽光を浴びて白く輝く巨大な街並みがあった。
「あれが……レグス……!」
ボロボロになった地図の端、インクの染みでしかなかった場所。
お伽噺の中でしか知らなかった、世界で一番輝いていると謳われた「黄金の港」。
白い石壁が陽光を弾き、立ち並ぶ尖塔が天を突き、港を埋め尽くす無数の船のマストが林立している。
それらが一斉に光を反射し、海と陸の境界線に巨大な光の帯を描き出していた。
幻ではなかった。
一年間、泥にまみれ、血を浴び、孤独に震えながら夢想した「希望」が、物理的な実体を持ってそこにあった。
「きれい……」
思わず漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、その圧倒的な美しさに魂が打ち震え、無意識にこぼれ落ちた感嘆だった。
胸の奥が熱くなる。
喉の奥から、熱い塊がせり上がってくる。
この景色を見るために、私は生きてきたのだ。
泥水を啜った日々も、人を殺した感触も、すべてはこの瞬間のためにあったのだと、世界が肯定してくれているようだった。
メリーは無意識に一歩、前へと踏み出していた。
風が、潮の香りを運んでくる。
その匂いを肺いっぱいに吸い込み、彼女は震える指先で、眼下の輝きを掴み取るように握りしめた。
「これが、海……」
追いついてきたアルが、隣で息を呑む気配がした。
「……すごいな。言葉にならない」
彼もまた、王都では見たことのない景色に圧倒されているようだった。
ジャックも無言で目を細め、その光景を眺めている。
「行きましょう」
メリーは振り返った。
その瞳は潤み、しかしこれまでにない強い光を宿していた。
もう、迷いはない。
あそこが、私の新しい戦場だ。
「日が暮れる前に街へ入るわよ」
メリーは二人の「家族」に顎をしゃくった。
「ここからは、ただの親子よ。……お父様?」
試すような視線に、アルが一瞬詰まり、そしてぎこちなく、しかし力強く頷いた。
「あ、ああ。……行こう、メリー」
一行は、山の出口へと続く最後の一歩を踏み出した。
背後には過酷な自然を、前方には輝かしい文明を。
偽りの仮面を被った三人の、新しい生存戦略が、あの光の中で始まろうとしていた。




