表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
57/71

第57話:害虫駆除、ガーディスを狩る者、お前のことは呼んでいない

「くそっ……忌々しい……」


 厚いビロードのカーテンが閉ざされた執務室に、湿り気を帯びた吐息が沈殿していく。

 デムハイト伯爵は、デスクに広げられた書状を、まるで腐肉でも見るかのような目で睨みつけた。


 指先が震えている。

 怒りではない。

 恐怖だ。


 ガーディスの名を冠する寄生虫どもが、中央の宰相府を盾にして送りつけてきた、狂気じみた命令。

 ――西からの食糧供給を妨害せよ。

 そんなもの、王命に背くどころか、王国全土を飢えに叩き落とす暴挙だ。

 だが拒めば、ガーディスの連中は容赦なく牙を剥く。

 すでに邸内の衛兵は半数以上が奴らの手先にすり替わり、後妻とその弟は、まるでこの家の主であるかのように振る舞っている。


 ――いつからだ。

 いつから自分は、こんなにも無力になった?

 デムハイト伯爵は、デスクの端を握りしめた。

 爪が白くなるほど力を込めても、震えは止まらない。

 王命に従えばガーディスに殺される。

 ガーディスに従えば王に処刑される。

 どちらに転んでも破滅だ。


 かつては領民に慕われ、王都からも信頼を寄せられた名家デムハイト。

 その名が、今や寄生虫どもに食い荒らされ、骨だけになりつつある。


 窓の外では、夜の静寂が領地を包んでいる。

 その静けさが、まるで自分の墓標を立てる前の“間”のように思えてならなかった。


「……私は、どこで間違えた……?」


 誰に届くこともない呟きが、冷え切った空気に吸い込まれていった。


「王命により重罪だと言われているだろうが! 西からの食糧供給の邪魔をするなど……私を、デムハイトを破滅させたいのか、奴らは……」


 誰に聞かせるでもない独白が、虚しく壁に跳ね返り、そのまま消えていく。

 その時だった。

 不意に、耳元で生温かい風が吹いたような錯覚に襲われた。

 気配は全くなかった。

 音もなく、光を遮る予兆すらなく、その「影」は室内の暗がりに溶け込むようにして、伯爵のすぐ傍らに立っていた。


「……その通りでしょうな」


 心臓を冷たい指で直接撫でられたような、戦慄が走る。


「な、何者だ! いつからそこに!」


 立ち上がろうとした拍子に、膝が激しく笑った。

 デスクの上のランプが、一瞬、不自然に揺らめき、影が大きく伸び上がる。

 そこにいたのは、外套を纏い、感情という色彩を一切削ぎ落としたような、底知れぬ瞳を持つ男――ジャックである。

 男の佇まいは、生きている人間というよりは、死の概念そのものが人の形を成してそこに留まっているかのようであった。

 男の視線は、伯爵という人間を見ているのではなく、ただそこに存在する一つの「物体」として処理している――そんな非人間的な無機質さが、部屋の空気を凍てつかせていく。


「貴方の身柄を保護しにまいりました。事が済むまで、この部屋から出ないでいただきたい」


 ジャックの声音には、一切の情動が混じっていなかった。

 ただ淡々と、しかし抗いがたい断絶を感じさせる響きを以て、目の前の事象をなぞるように言葉を置いた。

 その指先は、すでに懐に忍ばせた暗器の感触を確かめているかのようにも見える。

 室内を支配する空気の重圧が、物理的に肺を圧迫し、伯爵は呼吸することさえ忘れてその男を見つめるしかなかった。


「なんだと!? 保護だと……? 貴様、まさか暗殺者か。敵ではないというのか!」


「……さあ、それはデムハイト伯爵、貴方次第かと。このままガーディスの言いなりになって身を滅ぼすか、あるいは我々に従うか」


 ジャックの視線が、伯爵の魂の奥底、その醜い迷いと恐怖をすべて引きずり出すかのように突き刺さる。

 その言葉には、拒絶を許さない絶対的な重みが籠もっていた。

 ここで声を上げれば、門番が駆けつけるよりも早く、自身の喉笛は音もなく切り裂かれ、明日の朝日を見ることはないだろう。

 伯爵はそれを、本能で、理屈を超えた死の予感として察した。


「……ぐっ、選択肢などないと言うことか。わかった、従おう。どうせ、このままでは先はないのだ」


「賢明なご判断です。なに、すぐに済みますよ。害虫を掃討する間、貴方はここで座っているだけで良い」


 ジャックの口角が、微かに、そして酷く不気味に上がった。

 それは慈悲などではなく、獲物を檻に追い込んだ狩人が見せる、生物としての優越の証に他ならなかった。


「もう一度聞く。貴様……何者だ」


「西の手の者、と言えばわかりますな」


 その一言で、伯爵の脳裏に、かつてこの国を影から支え、そして今は西の果てで静かに牙を研ぎ澄ませている「あの男」の影が浮かんだ。

 もはや、抗う術も、逃れる術もない。

 デムハイト伯爵は、糸の切れた人形のように、深く、力なく椅子へと沈み込んだ。


「……あ、ああ。わかった。好きにするがいい」


 諦観という名の冷たい水が、彼の全身を満たしていく。

 ジャックの姿は、再び室内の陰影へと溶け込み、そこにはただ、主を失ったかのように静まり返った、不気味な執務室だけが残された。

 夜は、まだ始まったばかりであった。


     ──────


「ごきげんよう。夜分に失礼しますわ」


 静寂を切り裂いたのは、あまりに場にそぐわない、鈴を転がすような淑やかな響きだった。

 デムハイト伯爵邸の正面玄関。

 数人がかりでなければ動かぬはずの重厚なオーク材の扉が、まるで目に見えぬ巨人の手で押し開かれたかのように、無造作に、そして暴力的な音を立てて開かれた。

 外から流れ込んできたのは、湿り気を帯びた夜の冷気と、月光を背負った一人の少女の影だ。

 漆黒のドレスを纏ったその姿は、夜の闇が人の形を成して現れたかのようであり、その髪――夜闇の中でも鮮烈に輝くピンクブロンドだけが、この凄惨な夜における唯一の色彩であった。


「な、何だお前は!? ここをどこだと思っている! 門番! 門番はどうした!」


 広間に響き渡った怒声の主は、邸内の秩序を司る執事であった。

 彼は階段の上から、土足で踏み込んできた不速の客を見下ろし、顔をどす黒く染めて叫んだ。

 だが、その声は広大なエントランス・ホールを虚しく木霊するだけで、本来駆けつけるべき衛兵の足音はどこからも聞こえてこない。

 ただ、不気味なほどに深い静寂が、館の隅々まで澱のように沈殿している。


「門番も衛兵も、すでに処しましたよ」


 メリーの背後、濃密な影の中から、ふわりと一人の女が姿を現した。

 音もなく、まるで壁の染みから染み出したかのようなその出現に、執事の喉がひきつった。

 続いて、逆の側からも同じように、感情を欠落させた瞳を持つ『海鳥』の娘が、死神の鎌を思わせる無機質な佇まいで歩み出る。


「次は貴方の番です。……そうでしょう? ガーディス」


 娘の言葉には殺意すら混じっていない。

 ただ、道端の小石を退かすかのような、淡々とした事実の通告。

 執事の背筋に、氷柱を叩き込まれたような悪寒が走った。

 彼は本能で理解した。

 目の前にいるのは、法や理屈が通じる相手ではない。

 西側が長年、その暗部で研ぎ澄ませてきた「死」そのものなのだと。


「馬鹿な……! 伯爵家に直接、夜襲をかけるだと!? 正気か! このような暴挙、王都が黙っておらぬぞ!」


「ああ、逃げ道はすべて塞いだッス。逃げられるなどと思わない事ッスね」


 背後――勝手口の方角から、低く、しかし弾むような軽い声が届いた。

 赤毛の娘が、いつの間にか執事の背後の通路を塞いで立っている。

 館の空気は、もはや邸宅のそれではない。

 獲物を確実に仕留めるための、密閉された巨大な処刑場へと変貌していた。


「さて、あなたには選択肢があるわ。抵抗して、ここで無惨に殺されるか。あるいは、おとなしく捕まって……わずかながらの命を繋ぐか。どちらが賢明かしら?」


 メリーが、優雅に、まるで舞踏会の誘いでもかけるかのように右手を差し出した。

 その指先、白磁のような肌のすぐ上で、突如として蒼紫色の炎が揺らめき始めた。

 それは温もりを運ぶ火ではない。

 周囲の熱を、光を、そして命の気配を吸い尽くすかのような、忌まわしき虚無の揺らぎ。

 炎が放つ不気味な光影が、広間の壁画に描かれた英雄たちの顔を、苦悶に歪んだ亡者のように照らし出していく。


「馬鹿にするなっ! 小娘がッ!」


 絶望が理性を焼き切ったのか。

 執事は懐から、鋭利な一振りのナイフを抜き放った。

 それは執事が持つ護身用の域を超えた、暗殺用の得物だった。

 彼は階段を駆け下り、最短距離でメリーの喉笛を突き刺そうと、全霊を込めて踏み込んだ。


 だが、その刃がメリーの肌をかすめることすら、許されなかった。


 メリーが右手をついっと、羽虫を追い払うかのような軽やかさで振った。

 瞬間、蒼紫色の炎が糸のように細く、そして鋭く伸長した。

 音はなかった。

 ただ、一筋の光が空間を横切ったという視覚的な残像だけが、網膜に焼き付く。


 執事の身体が、走り抜ける勢いのまま、水平に「二つ」に分かたれた。

 断面からは血が噴き出す暇もなく、超高温によって、一瞬で炭化していく。

 上半身が磨き抜かれた床の上を無惨に滑り、床を汚した。


「相変わらずえげつないッスね。姐さんのそれ」


 赤毛の娘が、鼻を鳴らしながら歩み寄る。

 足元に転がった、もはや肉の塊に過ぎないものを見下ろす瞳には、同情も嫌悪もなかった。


「抵抗しなきゃいいのよ。おとなしく捕まるって選択肢も提示したじゃない」


 メリーは炎の消えた右手を、まるで汚れを払うように一振りした。

 その瞳に宿るのは、人としての温もりが介在する余地を完全に削ぎ落とした、絶対的な断絶を以て世界を俯瞰する世界の王女のような静謐さ。

 彼女にとって、この男の命を奪うことは、積もった塵を払うことと何ら変わらない作業に過ぎなかった。


「……そうッスけどね。私たちは勝手口を見張るんで、姐さんたちは玄関を見張っててくださいッス」


「ええ。逃げてきたやつは皆殺しで良いのよね?」


 メリーの問いかけは、あまりに無邪気で、それゆえに狂気に満ちていた。

 死を振り撒くことに、一片の罪悪感も、そして高揚感すら抱いていない。


「いいッスけど、どう見てもただの侍女は標的じゃないッスよ? 彼女たちまで殺したら、後片付けが大変ッス」


「そうね。侍女は捕まえて縛っておきましょうか」


 メリーは広間の奥、闇が深まる廊下の方を見据えた。

 そこにはまだ、掃討すべき『害虫』たちが、何が起きたかも分からず眠りに耽っているはずだ。

 これから始まるのは、救済ではない。

 寄生された肉体を守るために、病巣を根こそぎ抉り出す、凄惨なまでの浄化作業。

 西側の牙が、デムハイト伯爵邸の最奥へと、音もなく沈み込んでいった。


     ──────


「ふふ、姉上も心配性よな。西の連中など、所詮は辺境の田舎者……。中央の権威の前に、土下座して食糧を差し出せば良いのだ」


 デムハイト伯爵邸の一角、主人の部屋を凌ぐほどの贅を尽くした客室に、ねっとりと甘ったるい声が響いた。

 デムハイト伯爵の後妻、イネスの弟であるジェフリーは、絹のシーツの上で、傍らの女の白い肌を弄びながら、悦に入ったようにワインを煽った。

 部屋には高価な香油と、飲みこぼした酒の匂いが混じり合い、むせ返るような湿り気が充満している。

 彼にとって、この領地は自らの欲望を満たすための肥溜めに過ぎない。

 伯爵という宿主に寄生し、その栄養を吸い尽くして肥え太ることこそが、ガーディスの血を引く者の特権であると信じて疑わなかった。


「でも、ジェフリー様。なんだか外が騒がしいような……」


「気にするな。どうせ夜警の連中が、ネズミでも追いかけているのだろうよ」


 ジェフリーは鼻で笑い、女の首筋に顔を埋めた。

 だが、その瞬間だった。

 窓から差し込んでいた月光が、一瞬だけ、不自然に遮られた。

 風の音すらない。ただ、世界の色がほんの僅かに、闇に塗り潰されたような感覚。


 不意に、ジェフリーの視界が上下逆さまに回転した。


 言葉も、悲鳴も、出ることはなかった。

 寝台のすぐ傍らに、いつの間にか一人の女が立っていた。

 感情の起伏を一切排した、静まり返った湖面のような瞳を持つ『海鳥』の娘。

 彼女の指先が、流れるような所作でジェフリーの顎を跳ね上げたときには、すでに、薄い刃が彼の喉笛を深く、正確に断ち切っていた。


「……あ、……がっ……」


 ジェフリーの口から漏れたのは、言葉ではなく、汚濁に満ちた血の泡だった。

 彼は何が起きたのかを理解しようと、驚愕に目を見開いたが、その瞳に映ったのは、獲物を仕留めた達成感すら持たぬ、無機質な「処理」の光景でしかなかった。

 女が、ジェフリーの身体を物言わぬ肉塊として突き放す。

 傍らで女が甲高い悲鳴を上げようとしたが、それよりも早く、海鳥のもう一方の手が、彼女の意識を闇へと突き落とした。


「一匹目。……次へ行きます」


 海鳥の娘は、返り血を浴びた指先すら一顧だにせず、再び影の中に溶け込むようにして部屋を後にした。

 そこには、ただ、静かにシーツを赤く染めていく「害虫」の死骸だけが残された。


     ──────


「な、何事です!? この騒ぎは!」


 同じ邸内、階下の寝室では、後妻イネスが、肌を刺すような夜の冷気に身を震わせながら跳ね起きていた。

 邸内からは、時折、重いものが倒れるような音や、人の叫びとも風の唸りともつかぬ不気味な残響が、絶え間なく響いてくる。

 彼女の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いていた。


「奥様! 大丈夫ですか!」


 寝室の重厚な扉が開き、一人の侍女が駆け込んできた。

 主を案じるその姿に、イネスは縋り付くように声を上げた。


「あなた、何が起きているの? ここは、この部屋は安全なの?」


「賊が押し入ってきました。奥様はここから動かないでください」


 侍女の声は低く、淡々としていた。

 彼女は素早く扉を閉めると、金属質の乾いた音を立てて内側から鍵を下ろした。

 その響きは、一瞬の安堵をイネスに与えたが、同時に、この部屋が逃げ場のない檻と化したことを告げる、死の秒読みでもあった。


「え、ええ。そうね……鍵を閉めてちょうだい。門番は何をしているの? 早く、早く奴らを捕まえさせて!」


「奥様は逃げる準備を。まず動きやすい服に着替えて、靴を履いてください」


 侍女はクローゼットから、実用性だけを優先した地味な乗馬服を引っ張り出した。

 イネスはその異様なまでの手際の良さに、背筋が凍りつくような違和感を覚えた。

 死の影が、すぐ背後にまで迫っているという確信。


「わかったわ。ジェフリー……ジェフリーはどうしているかわかる? 逃げるなら弟も一緒に……あの子がいなければ、私は……」


 震える手で服を掴みながら、イネスは唯一の希望の名を呼んだ。

 共にこの家を蝕んできた同胞。彼さえいれば、王都の宰相ガメルの元へ辿り着けるはずだという、空虚な願い。


「ジェフリー様ですか? 逃げられるわけがありません。今頃、処されているかと」


 侍女の口から漏れた言葉は、あまりに無機質で、まるで明日の献立でも告げるような無造作な響きであった。


「……え?」


 イネスの手から、服が滑り落ちた。

 思考が停止し、目の前の現実が瓦解していく。


「鈍いですね。私の顔に見覚えはありますか?」


 侍女がゆっくりと顔を上げた。

 そこに、先ほどまでの忠実な面影は微塵もなかった。

 灯火を反射しない、深淵のように暗い瞳。

 感情という色彩を完全に削ぎ落とし、ただ目の前の対象を「処理すべき標的」としてのみ定義する、隔絶した生き物の視線。


「……あ、あなた、誰? 誰なの……!」


「ガーディスを狩る者、といえばわかりますか? ああ、わからなくてもいいです」


 侍女――『海鳥』の女は、懐から一振りの短剣を抜き放った。

 月光を吸い込んだ白銀の刃が、闇の中で一筋の凶悪な閃光を放つ。

 イネスが悲鳴を上げようとした、その刹那。


 音もなく間合いを詰めた『海鳥』の手が、吸い込まれるようにイネスの胸元へと伸びた。


 肉と骨を断つ湿った音が、静まり返った寝室に重く響いた。

 一瞬の出来事。

 イネスの視界から急速に光が失われ、喉からは、声にならない血の泡だけが漏れ出した。


「さて、こちらも片付きましたが……」


 女は、血に濡れた刃をイネスの服で丁寧に拭うと、再び室内の陰影へと溶け込むように佇んだ。

 デムハイトという巨木を蝕んでいた『害虫』の姉弟が、今、人知れず排除された。

 そこには達成感も、呵責もない。

 ただ、淡々と続く清掃作業の、その一段落を確認するだけの無機質な静寂。

 窓の外では、依然として不気味な月が、沈黙を守り続けていた。


     ──────


「ジャックさん、片付いたッス。死体も、そうじゃないのも、一階のホールに集めてあるッスよ」


 執務室の重い沈黙を切り裂いたのは、場にそぐわぬほど軽快な、しかしどこか乾いた響きを持つ赤毛の娘の声だった。

 彼女の指先には、まだ拭いきれぬわずかな赤黒い汚れが、月光を反射して不気味に光っている。


「逃げ出した者は?」


 ジャックが、影の中から問いかけた。

 その声には、作戦を完遂したという安堵も、あるいは同胞を労う温かさも一切存在しない。

 ただ、漏れがないかを確認するだけの、あまりに無機質な確認。


「誰も逃がしてないッス」


 ジャックは頷き、置物のように椅子へ沈み込んでいたデムハイト伯爵へと視線を向けた。

 もはや彼の瞳には、領主としての威厳も、あるいは反抗の意志すらも残っていない。ただ、巨大な渦に飲み込まれた矮小な生き物特有の、空虚な諦観が張り付いているだけだった。


「ご苦労。さあ、伯爵。一階へ移動しましょう」


 ジャックの促しは、丁寧ではあったが、拒絶を許さぬ氷のような重みを孕んでいた。

 伯爵は、糸の切れた人形のように、力なくその足で石畳の床をなぞり始めた。


     ──────


 一階の広大なホールは、もはやかつての格式高き邸宅のそれではなかった。

 シャンデリアの淡い光の下、冷たい石床の上には、モノのように積み上げられた「害虫」たちの死骸と、猿轡を噛まされ、縄で縛り上げられた生存者たちが、歪なコントラストを描いて並べられていた。

 先ほど排除されたイネスとその弟ジェフリーの亡骸も、そこには無造作に転がされている。

 生き残った侍女や料理人たちは、震える肩を寄せ合い、視線を床の一点に固定していた。

 彼らの瞳に宿るのは、背後に控える『海鳥』の娘たちが放つ、底知れぬ死の気配への本能的な恐怖だった。


「……終わったようですな」


 ジャックが周囲を一瞥し、短く告げた。

 そこへ、玄関の重厚な扉が開かれ、漆黒のドレスを纏ったメリーが、夜の闇を連れて歩み寄ってきた。

 彼女の歩みに合わせて、ドレスの裾がカサリ、カサリと、死神の羽音のような音を立てる。


「ええ。……ジャック、バルカスを呼んできてくれる?」


 メリーの声は、この惨劇の場においてさえ、どこまでも澄み渡っていた。

 だが、その問いに応えたのは、ジャックではなかった。


「その必要はない」


 正面玄関から、一人の男が入ってきた。

 バルカス・ブラッドレイ子爵。

 いつもと違い、余裕のない表情と緊迫した雰囲気を纏って彼は現れた。

 メリーが僅かに眉を寄せた、その時だった。


「やあ、何やら楽しそうなことをしているな」


 バルカスの背後から、重厚な、そして聞く者の魂を直接押し潰すような絶対的な威圧感を放つ声が響いた。

 バルカスが脇に寄り、道を空ける。

 そこから現れたのは、数人の近衛兵を従えた、王国の頂点に立つ男――。


 何故、ここにいるはずのない者が。

 何故、この凄惨な暗殺の現場に、国王たるこの男が踏み込んできたのか。


「ヴォルガン!?」


さあ、第3部の本編が始まりました

なるべく早めに書こうとは思っていますが、不定期なのは許してください

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ