第2話:命、剥き出しの肌、髪を切る音は潔く
「突撃! お前が晩御飯!」
雨上がりの静寂など、知ったことではない。
澄み渡るような少女の絶叫が、夕暮れの森を切り裂いた。
ターゲットは、夕暮れの中で悠然と草を食んでいた大鹿。
森の王を気取るその巨体は、一瞬で死の恐怖に染まった。
だが、遅い。
生存競争において、遭遇とはすなわち結果だ。
メリュジーヌの右手から、凶悪な切れ味を持った蒼紫の炎の剣が振り下ろされる。
一閃!
切断音は皆無に近い。
首筋を一刀両断された巨獣が、声もなく崩れ落ちる。
ドサリ、と泥を跳ね上げて沈むその音こそが、空腹を訴える彼女の腹の虫への、何よりの回答だった。
正直、昨日からその辺で入手した木の実しか食べていない。
やはり、肉を食わねば何事も始まらないのだ。
「……ふぅ。大物は久々ですわね」
蒼紫の炎の剣を消しメリュジーヌは優雅に歩み寄る。
泥濘に汚れたドレスの裾を、躊躇なく腰まで捲り上げる。太腿に固定した革ベルトから、無骨なナイフを抜き放つ。
目の前には、まだ温かい命の塊。
普通の九歳児なら泣き出して逃げる光景だ。
だが、彼女の瞳に宿るのは慈悲でも嫌悪でもない。食材の鮮度を見極める、シビアな料理人の目線だけ。
「さて。血抜きと解体はスピード勝負。……始めましょうか」
ナイフを逆手に持ち、迷いなく首筋へ突き立てる。
プシュッ。
溢れ出す鉄の臭い。指先に伝わる生温かい粘り気。
非力な少女の腕力では、厚い皮を剥ぐことすら困難だ。だが彼女は、指先に微弱な魔力を纏わせ、メスのように鋭利な「力場」を形成する。
ズブ、ズズズ……。
肉と皮の境界を、魔力で強制的に剥離させていく。
骨を外し、腱を断つ。
その手つきは、糸を紡ぐように滑らかで、ピアノを弾くように軽やかだ。
「おっ肉♪ おっ肉♪……ふふ、腿肉はローストに。あばら肉は……スープにする鍋がありませんわね。焼いてしまいましょう」
鼻歌まじりの解体ショー。
小さな手が鮮血に染まり、ドレスの袖が朱色に濡れていく。
グロテスクな光景。けれど彼女にとっては、四方を山に囲まれた領地で叩き込まれた、刺繍や楽器の練習と同列の「必須の教養」に過ぎない。
(お父様たちの数少ない美徳といえば、領主の義務として熱心に狩猟に励んでいたことくらいでしょうか。……まあ、一番面倒なこの作業は、すべて召使任せでしたけれど)
必要な部位を切り出し、巨大な葉に包む。残骸は森の獣たちへの施しとして放置する。
彼女は血のついた手を振ると、手慣れた様子で指を鳴らした。
パチン。
枯れ木に種火が灯る。
「……さて」
直火で炙られる鹿肉。
滴る脂が炭で爆ぜ、香ばしい煙が立ち上る。
完璧な火加減。プロの料理人も舌を巻くであろう、最高級のメインディッシュ。
焼き上がりを見計らったメリュジーヌは、流れるような動作で、そのへんで毟ってきた食べられそうな草を添える。
「いただきます」
誰もいない森で、恭しく手を合わせる。
まずは肉を齧る。
溢れる肉汁と、野性味あふれる脂の甘み。脳が痺れるほどの旨味。
彼女はうっとりと瞳を閉じ、その余韻が冷めやらぬうちに、付け合わせの雑草を口へ放り込んだ。
彼女はちょっとだけ顔をしかめながらも、真顔で咀嚼し、ごくりと飲み下した。
「肉を食うなら、野菜も食え」
誰に言うでもなく呟く。
それは、ただの食事の作法。
今の快楽のために、未来の自分を殺すことなどあってはならないという、彼女なりの矜持。
「……ふぅ。ごちそうさまでした」
手を合わせ、彼女は満足げに息を吐いた。
腹は満ちた。
──────
バサッ。
長く伸びたピンクブロンドの髪が、垂れ下がった枝に絡まる。
手で払いのけ、泥だらけのドレスを引きずり、道なき道を進む。
(……不便)
彼女は無言で、絡まった髪を乱暴に引っこ抜いた。
父が愛でた美しい髪も、職人が仕立てた靴も、この山ではただの枷でしかない。
やがて、森は深い夜の帳に包まれた。
安全な岩場を確保した彼女は、小さな焚き火の前で一息つく。
岩窪に溜まった水をろ過し、指先の熱で沸騰させる。
コポコポと湧く湯の中に、ハーブのように見えなくもないナニカを放り込んだ。
煮出された不穏な深緑色のハーブティーもどきの液体を優雅に啜る。
「……」
眉間に皺が寄る。
けれど、温かさが喉を下り、凍えた指先の感覚を呼び戻していく。
熱い蒸気の向こうで、爆ぜる火の粉を見つめる。
脳裏をよぎるのは、昨日の冷たい雨。
放り投げられた銀貨の音。
自分を殺しに来た男たちの、焦げた肉の臭い。
己が振るった蒼紫の炎。
あの時、恐れも後悔もなかった。
彼女は最後の一滴までハーブティーもどきを飲み干すと、空になった葉を火の中に投げ入れた。
「……ふぅ」
過去は、もういい。
一晩寝て、明日の朝、髪を切りましょう。
焚き火の傍ら、魔法で乾かしただけの土の上に横たわる。
屋敷の豪華な天蓋付きベッドよりも、この硬い地面の方が、今はよほど自分を肯定してくれている気がした。
見上げれば、木の葉の隙間から星が見える。
九歳の少女が独り、獣の領域で眠りにつく。
狂気の沙汰。だが、彼女を満たしているのは静謐な充足感だった。
「……おやすみなさい」
自分自身への挨拶。
彼女は静かに瞳を閉じた。
泥と血と、草の匂いに包まれて。
──────
翌朝。
鳥のさえずりと共に目覚めたメリュジーヌは、朝露に濡れる森を抜け、小さな渓流へと辿り着いた。
迷いなく、汚れたドレスを脱ぎ捨てる。
九歳の、白磁のごとき裸身を、容赦なき冷水へと沈めた。
「ひゃっ……! 冷たい……ですけれど、最高に気持ちが良いですわ!」
人目のない静寂の中、彼女は年相応に声を弾ませた。
指先で肌をなぞり、こびりついた返り血と泥を丁寧に拭い去っていく。
冷たさが感覚を研ぎ澄ませ、生の実感を肌に刻み込んでいく。
岩場に上がり、指先から放つ微かな温風で、じわじわと全身を乾かす。
だが、水分を吸って重くなった長い髪だけは、いつまでも首筋にまとわりつき、不快な冷たさを主張し続けていた。
(……不便。伯爵令嬢としては正解でも、今の私には不正解ですわね)
美しさを際立たせるための形式だった長い髪に、彼女は躊躇なくナイフの刃を当てた。
ジョリ。
無機質な断裁音が響く。
ピンクブロンドの束が、岩場へこぼれ落ちた。
「……ん。ちょっと不揃いですけれど、まあ、こんなものでしょう」
切り口を指先で探り、彼女はさして気に留める様子もなく頷いた。
汚れを落とした革靴を再び履き直し、ボロボロになったドレスの裾を整える。
ふと顔を上げれば、行く手に広がるのは、天を突くほどに険しく、神々しい山脈だった。
お父様の追手が差し向けられている可能性を考えれば、安易に山を下りるわけにはいかない。
しばらくはこの峻厳な岩壁に身を潜め、機を待つ必要がある。
風が、剥き出しになった首筋を撫でる。
少女は短くなった髪を一度だけ払い、静かに山を見据えた。




