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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第1部:野生の伯爵令嬢、野良王子を拾う
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第1話:銀貨、深森、月は変わらず綺麗に佇む

「……ぁ。これが」


 吐息が白く凍てつく、峠の頂。

 眼下には、空の青をすべて飲み干したような、果てしのない碧が横たわっていた。


 陽光を弾く波の鱗。

 彼方まで続く水平線。

 物語の挿絵でしか知らなかったその質量は、網膜を焼き尽くすほどに鮮烈だった。


 メリュジーヌは、吹きすさぶ風に髪を遊ばせながら、ただ瞬きも忘れて立ち尽くす。


     ──────


「メリュジーヌ。お前をこの家から追放する」


 あの日、世界は鉛色に塗り潰されていた。


 広間を打つギルガルド伯爵の声は、窓外で狂ったように叩きつける豪雨よりも冷たく、重い。

 高い天井に反響したその宣告は、一人の少女を「家」という名の安寧から切り離す、錆びた刃のようだった。


 父はそれきり口を閉ざし、無言で一枚の硬貨を放った。

 チャリ、と乾いた音が石床を滑る。

 回転する銀貨の残響。それが止まる瞬間こそが、この家の娘としての、終わりの合図だった。


 メリュジーヌは膝を折り、白磁のような指先で、その冷たい銀色を拾い上げる。

 そして、流れるような所作で懐へと収めた。

 それは手切れ金を受け取ったのではない。

 幕引きのために投げ与えられた最後の舞台装置を、彼女自身の意思で受け入れたに過ぎなかった。


 スカートの裾を摘み、深々と頭を下げる。

 その姿は、舞踏会の終演を飾る淑女のように洗練されていた。


「承知いたしました。……今まで、身に余る庇護を賜りましたこと、深く感謝申し上げます」


 父は何も答えなかった。

 娘の笑顔など見る価値もないとばかりに踵を返し、その背を向けて広間から去っていく。

 遠ざかる足音だけが、劇の終わりを告げる余韻のように響いていた。


 残された少女は、ゆっくりと扉に向き直る。

 重厚な扉が、ギィと悲鳴を上げて開かれる。

 途端、暴力的な風雨が吹き込み、彼女の小さな体を打ち据えた。


 吹き荒れる嵐。漆黒の闇。

 けれど彼女は、一度たりとも振り返らなかった。

 一歩。

 濡れた石畳を踏みしめ、その足を外の世界へと踏み出す。


 待ち受けていたのは、紋章を剥ぎ取られた一台の荷馬車。

 それは暗い口を開け、生贄を飲み込まんと待つ巨大な獣のようだった。


     ──────


 重々しい音と共に、外から錠が下ろされた。


 窓は厚い木板で塞がれ、車内は深淵のごとき漆黒に沈む。

 屋根を叩く雨音。

 車輪が泥を噛む不規則な振動。

 それだけが、彼女を拒絶の地へと運んでいく。


 揺れる闇の中で、メリュジーヌは背筋を伸ばし、ただ前を見据えていた。

 恐怖はない。嘆きもない。

 閉ざされた箱の中は、屋敷という名の鳥籠よりも、よほど静かで、自由だった。


 時間は、泥のように重く、緩慢に過ぎ去った。


 不意に、激しい制動がかかる。

 馬のいななき。怒号。

 蝶番が悲鳴を上げて扉がこじ開けられ、冷たい雨と共に、むせ返るような殺意が吹き込んだ。


「おい、降りろ!」


 無骨な手が伸び、彼女の細い腕を掴む。

 抵抗する間もなく泥濘の中へ引きずり出される。

 豪雨に打たれ、仕立ての良いドレスが瞬く間に泥を吸い、重く垂れ下がった。


 人の声も届かぬ、森の奥底。

 彼女を囲むのは四人の男。

 抜身の武器。

 雨に濡れたその表情には、弱者をいたぶる嗜虐の色と、金銭への卑しい欲望だけが張り付いている。

 騎士の礼節も、暗殺者の技量も感じられない。

 ただ暴力だけを売り物にする、三流のゴロツキ。


(……お父様の部下ではありませんわね。今日のために外から雇い入れた、使い捨ての余所者でしょう)


 メリュジーヌは、泥だらけの男たちを見て、感心したように内心で頷いた。


(さすがはお父様。家臣の手を汚さず、足のつかない捨て駒を使って私を処理する。家の名誉を守るための、完璧なリスク管理ですわ)


 その素晴らしい采配と手際の良さに、彼女は思わず喉を鳴らした。


「悪く思うなよ。伯爵様から『確かな証拠』を持ち帰れと仰せ付かってるんでな」


 男の一人が、短剣の切っ先を喉元に添えた。

 薄い皮膚一枚越しに伝わる、鉄の冷たさ。


 だが、メリュジーヌは悲鳴を上げなかった。

 命乞いもしなかった。

 ただ、雨に濡れた睫毛を伏せ、静かに息を吐いただけだった。


「……ふふ」


 こぼれ落ちたのは、死地にそぐわぬ鈴を転がすような笑い声。

 彼女はゆっくりと目を開く。

 その瞳は、喉元の刃など映していない。宝石のように硬質で、深い輝きだけを宿していた。


 ボッ。

 湿った空気を焼き、少女の両手に夜闇よりもなお深い、蒼紫の炎が揺らめいた。


「お父様もなかなかの切れ者ですわ。計画、段取り、手際は悪くありません」


 両手に炎の剣を携え、彼女は可愛らしく小首を傾げる。

 それは、これから始まる虐殺の合図。


「ただ……どうして、これほどに見積もりが甘くていらっしゃるのかしら」


 言葉が終わるより早く、泥が爆ぜた。


「な、あ……ッ!?」


 男の驚愕が、視界から消える。

 少女の姿が掻き消えたのではない。

 認識できない速度で、懐へ踏み込んでいたのだ。


 一閃。


 蒼い軌跡が、男の胴を薙ぐ。

 切断の感触すらない。

 刃が通り過ぎた直後、断面から血ではなく蒼紫の炎が爆発的に噴き出した。

 内臓を一瞬で薪に変え、行き場を失った熱量が傷口から暴れ狂う。


「が、あ……ッ!?」


 男は自分が斬られたことすら理解できず、上半身から崩れ落ちて泥に沈んだ。


「……ッ!? な、なんだ!?」


 残る男たちが色めき立つ。

 だが、彼らが武器を構え直すよりも早く、泥塗れのドレスを翻した少女は、舞踏会のように軽やかに踏み込んでいた。


 二人目。

 突き出された槍を、小さな体を沈めて潜り抜ける。

 すれ違いざまの横薙ぎ。

 九歳児の身長線――男の腹部を、蒼い軌跡が深々と切り裂いた。

 臓物がこぼれ落ちるより早く、裂け目から猛火が吹き出し、男の絶叫を呑み込んだ。


 三人目。

 恐怖に顔を歪め、大剣を振り上げた男の懐へ滑り込む。

 最短距離からの突き。

 炎の刃が心臓を貫き、背中へと突き抜ける。

 引き抜くと同時に、胸に穿たれた穴が赤熱し、内側から激しく爆ぜた。


 四人目。

 最後の一人が、武器を捨てて背を向けた。

 なりふり構わず、泥を跳ね上げて逃走を図る。


 メリュジーヌは追わなかった。

 ただ、迷いなく左手をかざし、逃げる背中へ狙いを定める。


 指先から放たれたのは、一本の蒼い矢。

 それは雨を裂いて直進し、男の背中へと吸い込まれた。


 ドォッ!


 鈍く、重い音がした。

 着弾した瞬間、男の体が内側から膨れ上がる。

 行き場を求めた熱量が体内を駆け巡り、眼球を内側から破裂させ、裂けた口から蒼紫の火焔を吐き出した。


 声にならぬ絶叫。

 人の形をした松明となり、男は数歩もつれ、泥の中へ無様に崩れ落ちた。


 静寂が戻る。

 いつの間にか、雨は小降りになっていた。

 少女は手の中の炎を握り消すと、汚れたスカートを払い、ただ静かに佇んだ。


     ──────


 不意に、風が止んだ。


 厚く垂れ込めていた雨雲が、巨人の手で引き裂かれたように割れていく。

 切れ間から溢れ出したのは、冷たく、透き通るような月光だった。


 足元には、内側から焼け焦げ、未だ赤い火の粉を散らす四つの肉塊。

 泥と血と、焦熱の臭い。


 少女は、それらには一瞥もくれず、ただ空を見上げていた。


 そこには、一点の曇りもない満月が鎮座していた。


 どこまでも高く。

 吸い込まれるほどに蒼く。


「……綺麗」


ストックのある間は平日12時頃更新(予定)

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