第5話 新しい依頼主
朝の『クリーン・コンフォート』は、どこか穏やかで、張りつめすぎない空気が漂っている。スタッフが次々と出勤し、それぞれのロッカーへ向かい、制服に着替えながら談笑したり、予定表を確認したり。透子はその中で、特別目立つわけではないけれど、自然と周囲から一目置かれている存在だった。
「おはようございます」
時間ぴったりに出勤した透子が扉を開けて入ってくると、数人の同僚が軽く会釈を返してくる。
「春野さん、今日のお昼から新規の依頼お願い」
そう声をかけてきたのはチーフの吉永。スケジュール表を確認しながら、タブレットとファイルを片手に持っていた。
この仕事を始めて数年。透子はその丁寧さと安定した対応力から、新規顧客の“初回訪問”を任されることが多い。最初の不安を取り除き、信頼を築くのも、サービスの一環だと彼女は考えていた。
「高山柚月様。女性スタッフ希望で、会話は最小限に、とのこと……それと、備考に“かなり部屋が散らかっています。よろしくお願いします”とも書かれてる。いつも通りお願いね」
「はい、大丈夫です。承知しました」
透子は落ち着いた声で返事をし、手渡されたファイルを丁寧に受け取る。その手元を見ながら、ふと目を細めた。中を開いて確認しながら、場所と間取りに目を通す。
「○○区の新しいマンションですね」
「最近人気のエリアだね。かなり散らかっているらしいから、初回は動線の確保とゴミ出しだけで十分だと思う。利用者さんの様子を見ながら、次回以降に本格的な清掃へ進めてほしい」
「もちろんです。丁寧に対応します」
透子は軽く会釈をしてから、自分のロッカーに向かった。
道具の準備も、彼女にとっては儀式のようなものだった。清掃バッグの中身は、用途別に整理され、どんな汚れにも対応できるよう厳選されたアイテムが並んでいる。新品のマイクロファイバークロス、細かなブラシ類、環境に配慮した中性洗剤、アルカリ電解水……。
「初めてのお客様だから、基本に忠実に」
小さく呟いて、手袋や替えのマスクまで丁寧に確認する。無駄はないけれど、どこか美しい。彼女の動作にはそう思わせる清潔感があった。
支度を整え、事務所を出るころには、空気が少し暖かくなっていた。日差しが窓から差し込み、ビルの外壁をやわらかく照らしている。
午前中は、週一で伺っている常連の田中さん宅へ。田中さんは足腰の不自由な高齢女性で、透子が来るといつもお茶とお菓子を用意してくれる。今日は浴室のカビ取りとリビングの拭き掃除が中心。手慣れた作業を一時間半で終えると、田中さんは「あなたは本当に頼りになるわねえ」と目を細めた。
「お変わりありませんか?」
「ええ、おかげさまで。午後は別のお客さま?」
「はい。新しくご依頼いただいた方のところへ行ってきます」
柔らかく会釈して田中さん宅を後にすると、時刻は十一時過ぎ。事務所に戻らず、そのまま次の現場へ向かう電車に乗った。
電車に乗り込み、静かな車内に揺られながら、透子は今日の依頼主についてぼんやりと思いを巡らせる。
(会話を控えめに、か……)
事情は人それぞれだ。病気療養中の人、産後で心身が不安定な人、過去に人間関係でつまずいた人。直接聞くことはないが、空気で察するしかない場面は多い。
(でも、そういう時にこそ、私たちの存在が必要になる)
気配を感じさせすぎず、でも、いるだけで安心してもらえるような仕事がしたい。それが透子の持つ理想像だった。
乗り換えを終えて、目的地の駅に着く頃には、彼女の中の「仕事モード」が自然と立ち上がっていた。緊張感ではなく、静かな集中。余計なことを考えず、目の前の空間と人に丁寧に向き合うだけ。
依頼先のマンションは、駅から少し歩いた先にあった。
白を基調にした外壁、手入れの行き届いた植栽、オートロック付きのエントランス。まだ新しい建物の匂いが、ほのかに鼻をくすぐる。
清潔で、穏やかで、少しだけ静かな場所。
「さて、どんな方が待っているのかな」
透子は制服の襟元を整え、清掃バッグを肩にかけ直した。
そして、インターホンの前に立ち、ひと呼吸置いてから――
そっと、指を伸ばした。




