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103/103

第103話 帰ってからも

 自宅の玄関を閉めたあと、柚月はしばらくその場に立っていた。


 手には、プリンの入った紙袋。


 ついさっきまで隣にいた春野さんは、もういない。


「……ただいま」


 誰もいない部屋に向かって呟き、リビングへ向かう。


 いつもと同じ部屋なのに、今日は少しだけ静かに感じられた。


 柚月は紙袋から二つの瓶を取り出した。


 自分で選んだ濃厚カスタードと、春野さんが選んでくれた、とろけるミルクプリン。


 濃厚カスタードを冷蔵庫へ入れ、とろけるミルクプリンを手元に残す。


 店でも一つ食べたばかりだった。


「……でも、食べたら感想送ってもいいって言ってたし」


 それは食べる理由にはなっていない気もしたが、柚月は気にしないことにした。


 着替えを済ませ、ローテーブルの前に座る。


 瓶の蓋を開け、スプーンを差し込むと、ほとんど抵抗なく中へ沈んだ。


「いただきます」


 一口すくって、口へ運ぶ。


 名前の通り、とろりと舌の上でほどけた。


 店で食べた固めのプリンは卵の味がしっかりしていたが、こちらはミルクのまろやかさが強い。濃厚なのに重くなく、飲み込んだあとにもやさしい甘さが残った。


「……おいしい」


 春野さんが、違う食感の方がよいと思って選んでくれたプリン。


 その理由を思い出すと、もう一口が少しだけ特別なものに感じられた。


 半分ほど食べたところで、柚月はスマートフォンを手に取った。


 メッセージの入力欄を開く。


『今日はありがとうございました。無事に家に着きました』


 そこまで打って、指が止まる。


 間違ってはいない。


 少し考えてから、一文を加える。


『映画もプリンも、すごく楽しかったです』


 読み返す。


 これなら、今日伝えたかったことがきちんと入っている。


 柚月は送信ボタンを押した。


 続けて、食べかけのプリンを撮る。


『春野さんが選んでくれた方、もう食べました』


『すごくなめらかで、ミルクの味が濃くておいしいです』


 写真と一緒に送る。


 画面に並んだ吹き出しを見てから、柚月は小さく息を吐いた。


「……早かったかな」


 プリンを食べるのも、連絡するのも。


 今日は長い時間を一緒に過ごした。


 それなのに、別れてすぐにまた連絡している。


 けれど、春野さんから返事が来てほしいとも思っていた。


 スマートフォンをテーブルへ置こうとしたところで、既読がついた。


 柚月は再び画面を見つめた。


 






 透子が自宅へ戻り、持ち帰ったプリンを冷蔵庫へ入れたところで、スマートフォンが震えた。


 画面には、柚月からのメッセージが表示されている。


『今日はありがとうございました。無事に家に着きました』


『映画もプリンも、すごく楽しかったです』


 透子の口元が自然とやわらいだ。


 無事に帰宅したことへの安心よりも、その次の一文の方が強く心に残った。


 今日は楽しかった。


 自分も同じだった。


『ご連絡ありがとうございます。私も先ほど帰宅しました』


 そこまで入力してから、一度指を止める。


 普段なら、これで返信としては十分だった。


 けれど今日は、仕事の連絡ではない。


 用件を返すだけではなく、自分の気持ちも伝えてよいのだろう。


『今日は私も、とても楽しかったです』


 そう付け足し、送信する。


 続けて届いていた写真を見ると、とろけるミルクプリンはすでに半分ほどなくなっていた。


『もう召し上がったんですね。お口に合ってよかったです』


 すぐに返事が届く。


『我慢できませんでした』


 短い一文を見て、透子は小さく笑った。


 柚月が甘いものを好むことはよく知っている。


 それでも、別れた直後に食べてしまったことをわざわざ報告してくる姿は、仕事中に見る高山さんとは少し違って見えた。


『私は、高山さんが選んでくださった苺と練乳を、明日いただこうと思います』


 透子が送ると、少し間を置いて返信が届いた。


『春野さんらしいです』


 透子は画面を見つめた。


(私らしい、ですか)


『そうでしょうか』


『ちゃんと明日の楽しみに取っておけるところです』


 冷蔵庫へ視線を向ける。


 今日は店でも一つ食べたため、残りは明日にした。


 透子にとっては、それだけの判断だった。


 けれど柚月は、そこに自分らしさを感じたらしい。


 料理が上手い。


 掃除が丁寧。


 仕事が正確。


 これまで柚月から聞いた自分への評価は、そのようなものが多かった。


 けれど今は、何をいつ食べるのかという小さな選択まで見て、春野さんらしいと言ってくれている。


 そのことが、透子には思っていた以上に嬉しかった。


『高山さんは、今日の楽しみを今日のうちに味わう方なのですね』


『プリンに関しては、たぶんそうです』


 また笑みがこぼれる。


 帰宅してからもこうして同じ話題を続けていることが、透子には少し不思議だった。


 映画の日程を決めるためでも、仕事の確認をするためでもない。


 ただ食べたプリンの感想を伝え、短い言葉を送り合っている。


 用事がなくても連絡をする。


 友達になったという言葉よりも、今のやり取りの方が、その変化をはっきりと感じさせた。


 透子は簡単に夕食を済ませ、食器を片付けた。


 時計を見る。


 明日は火曜日。


 午後一時から、いつものように柚月宅へ伺う日だった。


 映画の原作を貸す約束をしている。


 透子はリビングの本棚の前に立ち、上段から上下巻の二冊を取り出した。


 何年か前に読んだ本だが、表紙に大きな傷みはない。


 乾いた布で埃を払い、ページの間に何か挟まっていないか確認する。


 上巻を開いたところで、映画で描かれていた場面を思い出した。


 柚月は、原作を読んでどのような感想を持つのだろう。


 映画の方がよかったと言うかもしれない。


 原作にしかない場面を気に入るかもしれない。


 先に説明したいことはいくつもあったが、透子は本を閉じた。


(まずは、高山さんご自身で読んでいただきましょう)


 読む前に自分の感想を伝えすぎては、柚月が自由に物語を受け取れなくなってしまう。


 読み終えたあとに、ゆっくり話せばいい。


 二冊を布製のブックカバーへ入れ、明日の仕事用バッグのそばへ置く。


 それからスマートフォンを手に取った。


『映画の原作も、明日お持ちしますね』


 送信すると、それほど待たずに返事が届いた。


『ありがとうございます。楽しみにしてます』


 透子は用意した本へ目を向けた。


 映画を観に行くという約束は、今日で終わった。


 けれど、その映画から新しい約束が一つ生まれている。


『はい。高山さんのペースで読んでくださいね』


 返信を送り、スマートフォンを伏せる。


 明日は、いつもの火曜日。


 いつもの時間に、いつもの部屋へ伺う。


 そこへ今日は、二冊の本が加わっていた。

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