十二、御手付き
どうやら、イム・ヒェリョンは、ほんとうにちょっとした記憶喪失になっているらしい。
「池に落ちたのですか? 私が?」
「ああ、芙蓉池に沈んでいた」
「へえー……」
芙蓉池は、医女と世子として出会ったあの日、まだ五歳だった彼が沈んでいたところだ。何の因果か、今度は彼女が沈んで彼が飛び込んでいた。
一国の王ともあろうお方が、たかが女官風情のために。いきなり池へ、どぼん。
これが〝初めまして〟であって御手付きではなさそうだと知れたのは良かったが、そんな形をして池で出会ったとなれば、お付きの内官たちは肝を潰したことだろう。恨まれていたらどうしよう。もう王を惑わした罪人ということになっているかもしれない。神聖なる玉湯にも入ってしまったようだし。
(さっき首ちょんぱになったばかりなのに、また斬られるのは嫌だなあ)
三度目、ヒェリョンの人生は始まりから波乱だ。
「覚えていないのか」
「はい、まったく、ぜんぜん」
湯殿を出た後。両班の娘らしい小綺麗な服を着せられたヒェリョンは、ひっそりと王宮の一室に閉じ込められた。そこでうっかり足を滑らせたふりをして転んで頭を打って記憶喪失ということになろうとしたら、想像以上に逞しく成長していた彼に背後から抱きとめられ、危なっかしさにお小言をいただいて今に至る。
王はヒェリョンの腰を抱き、彼女の臍の下あたりを撫でた。手付きが妙にいやらしい。
あの可愛い六歳児がどうしてこれになってしまったのか。二十六歳児ならこんなものなのか。彼の父王はこんなふうではなかったが……。
イム・ヒェリョンという人間として動いて生きていることに彼女の心はまだうまく追いつかず、調子は狂ったままだ。この女官はきちんと食事をとっていたとしても、罪人だった二十年前の医女の頭には栄養も足りていなかった。その名残もあるのかもしれない。
「また蓮花のあやかしでもいたのか? リョンハ」
「さあ? 覚えておりませんが、いたのかもしれませんね。私は、妖察府の女官ですし? 妙なものを見つけて池にいたのでは?」
今の私は、イム・リョンハではなくイム・ヒェリョンです――と名を主張するのは諦め、ぶっきらぼうに返す。どうせ変な状況なのだ、もう細かいことは気にしない。こんな図太さも、かつてのリョンハが生き延びるための武器になっていたはずだ。そういうことにしておく。
妖察府は、その名の通り、あやかし関係の部署である。王や妃嬪の愛玩あやかしの管理や、王宮内に現れる野生あやかしの対処を担っている。こちらの異世界独自のお仕事だ。医女リョンハの時代にもあった。
この頭に残っている〝ヒェリョン〟の記憶によれば、ヒェリョンは対あやかしに役立つ才をもつ女人だったらしい。彼女の生まれが何だとかと誰かに言われてここの配属になったのだとか。この件も落ち着いたら考え直すとしよう。
今は王とのあれこれに追われていてそれどころではない。
「なるほど、今は妖察府にいるのか。どうりで内医院や典医監には姿が見えなかったのだな」
「…………殿下?」
「ルェと呼べ」
「さすがにそれは畏れ多いのですが!?」
ついつい大きな声が出てしまった。
いったい何をどうしたら王の名など呼べるというのか。これまで〝面白い女〟を演ってきた彼女でも、異世界仕様の文化でも、これは越えてはいけない線である。さすがに分かる。
「なんだ、呼んでくれないのか。ちぇっ」
王イ・ルェは、わざとらしく拗ねた声を出した。
(誰か助けて……)
ヒェリョンは心の中で声を上げるも、もちろん誰にも届かない。ここには王と女官のふたりきりだ。
二十六歳の王となったルェは、なかなか好き勝手にやっているようで。こっそりと今ヒェリョンがいる部屋にひとりで忍び込んで抱きしめてきたかと思えば、追いかけてきたお付きの者たちに『下がれ!』と怒鳴った。するとお付きの者たちはすごすごと出ていってしまい、ふたりきりにされた。皆さま戸の向こうには控えているようだが、王の横暴を止めてくれる気配はない。
今のルェからは、かつてのリョンハが憂慮した〝暴君〟の気色が見えていた。
「主上殿下……。私は、仕事に戻らなければなりませんので、どうか」
「ああ、それならもう人を遣っているから心配ない。そなたはしばらく欠勤だ」
しばらく欠勤とは、もうこのまま帰れないんじゃないかしら。王の腕に捕まえられながら、ヒェリョンは憂う。
「もう逃さないぞ、覚悟しろ、リョンハ」
(私は、もうリョンハではないけれど……ヒェリョンだけれど……中身はそうだし、ああ、仕方ないわね)
ええいままよ、と。彼女は彼に身を委ねた。あとは察していた通りだ。覚悟の通りだ。
そうして女官イム・ヒェリョンは、王の御手付きになってしまった。