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22.レオの告白(2)

突然、夜の海に投げ出された。

流出した燃料の鼻を突くような臭いと断末魔の人間の声以外は何もない、真っ

暗闇の世界だった。機体の残骸にしがみつき救援隊の到着と夜が明けるのを

じっと待った。墜落直後は数名いたと思われる生存者の喘ぎ声も夜明けとともに

次々に消え、日の出とともに俺の視界に入ってきた光景は筆舌に尽くし難いもの

だった。生きているのが奇跡としか言いようのない惨状に一刻も早くその場から

逃れたい衝動に駆られた。散乱する物体の中から浮遊するライフジャケットを

両腕にはめ、座席のクッションを浮輪代わりにして海流に身を任せた。

思ったより潮の流れは速く墜落現場がどんどん遠のいて行った。

翌日もその翌日も捜索の機影らしきものを見ることはなかった。

だが、俺は決して望みを捨てなかった。意識が薄れるたびに「待ってる、ずっと

待ってるから」と言った亜希の顔を思い浮かべ、彼女を迎えに行くまでは絶対

死ぬわけにはいかないと自分に言い聞かせた。そして、墜落事故から救助される

までの五日間、周囲に島影ひとつない絶海を漂流し生き延びることができた。

生への強い執念が不可能を可能にしたのかもしれない。

いくつかの幸運も重なった。雨が降り続いたことで雨水を飲料水代わりにできた

こと、真夏の南半球の直射日光を凌げたこと、そして貨物船の航路近くに流され

たことだった。



「もう大丈夫だ、助かったんだぞ!」

深い眠りから覚めると、真っ黒に日焼けした東洋人風の若い男が俺の顔を覗き

込んでいた。アクセントのない綺麗な日本語だった。

俺を救出してくれたのはカリブ海から南太平洋に航行中の雑貨船だった。

船から投げ入れられた救命浮輪に向かって最後の力を振り絞り必死で泳いだこと

しか覚えていない。海から引き揚げられ流動食を与えられると精根尽きたように

丸一昼夜眠り続けていたらしい。

「日本人だろ?」という問いかけに俺はコクリと頷いた。

「よかったな、奥さん〝アキ” さんっていうのか? 俺のおふくろも同じ名前

なんだ」男は柔和な笑みを浮かべた。うわ言で何度も亜希の名を呼んでいたのと

左手の結婚指輪から妻帯者の日本人と推測したらしい。

「名前は? あの事故機に乗っていたのか? まっ、いいか。今はゆっくり

休んで体力を回復させないとな。心配しなくても〝アキ” さんに、またすぐ

会えるさ」咄嗟に言葉の出てこない俺を励ますように言った。

頭の中はまだ朦朧としていたが、亜希に逢えるという男の言葉に安心したように

再び深い眠りに落ちていった・・・

これが、俺とレオとの出逢いだった。



* * * * * * * 



「やはり、あのエアバスの生存者ですかね?」

「おそらくな、あの水域での漁船や小型船舶の遭難の報告は入っていない

からな。タチの悪いギリシャ船や中国船から海に投げ出された密航者でも

ない限り、ほぼ間違いないだろう。それにしても、よく生きてたなあ…」


夜中に目が醒めた。

よく眠ったせいか頭の中はすっきり冴えていた。深夜の船内は不気味なくらい

静まり返り、隣室から訛りの強い英語の会話が耳に入ってきた。

当直を終えたブラジル人の三等航海士とフィリピン人の操舵手だった。

船は毎日24時間休みなく3人の航海士と操舵手がペアを組んで4時間交代で

当直に当たる。二人は夜食をしながら俺のことを話題にし、それぞれが航海中

に経験した遭難者や密航者のエピソードを話していた。


断片的な会話の内容から俺は自分の置かれている状況を頭の中で整理した。

事故発生からちょうど一週間が経っていた。二日後に墜落地点が確認され形式

程度に救援機が海上を捜索したが、あまりの惨状に当局は直ちに乗員乗客全員

死亡、生存者なしと結論付けた。だが、この船の船長をはじめ上級乗組員らは

俺のことを事故機の生存者の可能性が高いと判断していた。

事故機の搭乗者だと名乗り出れば、例えパスポートや免許書など身分を証明

するものを所持していなくても関係機関と連絡を取り身元の確認ができ次第、

速やかに本国への送還が実現する。

おそらく、次の寄港地からタヒチのパペーテへ移送され直行便で帰国、成田

空港には新婚旅行中に事故死したはずの夫の奇跡の生還を待ち構えるワイド

ショーのリポーターや週刊誌の記者たちが大挙して押し寄せるだろう。

そして、俺はまた否応なしに時の人、マスメディアの格好の餌食となり世間の

晒し者になる。そんなことになれば、そう簡単に亜希のもとへは行けなくなる。

が、もし、俺があの事故機の生存者ではないとすれば・・・


航海士の話によると、ほとんどの国の入国管理局は身分証明のない密航者や

身元不明者の入国を拒否する反面、人道的配慮から船側に保護を要請する。

そのため受け入れ国が見つからない場合、最悪のケース、一航海ずっと生活を

共にせざるを得ないこともあるらしい。南米船籍のこの船はポリネシアの島々、ニュージーランドの港で荷物を積み下ろし二月の末には帰港の予定だった。

発展途上国では密入国や偽造パスポートの入手などそれほど難しいことでは

ない。とにかく、中南米まで辿り着けば後は何とかなる・・・

今思えば、ずいぶん滅茶苦茶な考え、無謀な行為だったかもしれない。だが、

俺の中に日本に戻ると言う選択肢はなかった。ただ一刻も早く亜希に逢いたい

という思いで頭の中がいっぱいだった。そのためなら自分のアイデンティティー

を抹消することにも何の躊躇いもなかった。むしろ、愛のない結婚相手との

虚構の人生と決別する最善の方法、天から与えられたチャンスにさえ思えた。



* * * * * * * 



俺は苦肉の策として密航者を装うことにした。

犯罪に巻き込まれ正規のルートで渡航できないため密航を斡旋する裏組織を

利用したが、パスポート、クレジットカード、現金を奪われた挙句、海上に

投棄された。どうしても妻のいる北米にいかなければならない、何でもする

から帰港まで乗船させてほしいと、レオを通じ船長に懇願した。

最初は難色を示していたコロンビア人の船長も、甲板部員の不足と悪天候に

よる運航の遅れから、労働奉仕を条件に『記憶喪失の密航者』として一航海

をともにする事を渋々承知した。南米船籍の雑貨船という文字通りなんでも

(違法物)運ぶ船であったため、寄港地の税関や入国管理に関わることを極力

避けようとしたのかもしれない。とにかく、ここでも幾つかの幸運が俺に味方し

不可能を可能にしてくれた。なかでも、同じ日本人の血を引くレオ佐伯との

運命的な出会いが最大の幸運だった。


レオは当時二十三歳、外航船に乗り始めて間もない甲板員、一番下っ端の

セーラーだった。外航船は通常、船長、航海士、機関士など免許を持つ

オフィサーとその下で働く甲板部員、機関部員、調理人などのクルーが乗船

している。甲板部員はリーダーの甲板長の補佐と航海士を手伝う甲板手、

その下の甲板員で構成されている。甲板部のレオの上司は航海士を除いて全員

フィリピン人だった。

現在では日本船籍の貨物船でさえ船長と機関長以外はすべて外国人乗組員と

いうのが珍しくない。賃金が安く一隻乗船契約、期間雇用の東南アジア、東欧

南米の外国人乗組員は船会社の需要が多い。特にフィリピン人船員は世界中で

大きなシェアを占めている。彼らの仕事ぶりは国民性というか、とにかく

大まかで狡賢いと定評がある。仕事は最小限、不平不満は最大限で、計画性や

管理能力が低い代わりに責任転嫁、回避能力には人一倍優れている。


レオはそんな上司の下、荷物の積み下ろしから船体の整備や修理、炎天下の

デッキでのペンキ塗り等の重労働に加え、先輩たちから押し付けられた虐めにも

近いような仕事を文句も言わず黙々とこなしていた。

『三食にありつけてベッドの上で寝られるんだから、こんなもん屁でもないさ』

と言って理不尽な扱いをものともしなかった。

震災で両親を亡くし妹と生き別れになったこと以外、多くを語らなかったが、

養護施設を出てからの生活は容易に想像できた。

レオを支えていたのは、乗船履歴を積み海技士試験に合格し、いつか外国航路の

二等航海士として七つの海を制覇するという大きな夢だった。

そして、その暁には堂々と胸を張ってアメリカ人の養女となった妹に会いに行く

つもりだと、瞳を輝かせていた。


俺は一日中額に汗し真っ黒に日焼けしながらがむしゃらに働いた。

生まれて初めての経験だった。それまでの自分がいかに甘っちょろい人間だった

かを思い知らされた。レオはそんな俺に船の仕事のことから、南米の裏社会の

仕組み、偽造身分証明書やグリーンカードの入手方法に至るまで詳しく教えて

くれた。スペイン語を習う代わりに海技士試験に必要な英語を教えるなど、

俺たちはいつしか互いに信頼できる仲間になって行った。嘘をついているのが

心苦しくなり、本当のことを話そうとした俺に『記憶喪失のタク』で十分だと

言ってレオは片目を瞑った。





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