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21.レオの告白(1)

十三年前、俺はアメリカでの医学研修を終え日本に帰国した。

それまでの怠惰な自分、親の敷いたレールの上を何の疑問もなく走る安易な人生

と決別、最愛の女と茨の道を歩む決意報告のための一時帰国、のはずだった。

だが、成田到着を目前にして起こった突発的な事故によって俺の人生は大きく

狂わされた。


搬送された病院のベッドの上で意識を回復したのは事故から二日後だった。

シートベルトをはずし座席を立った瞬間、乱気流に巻き込まれた機体は大きく

傾き、通路に投げ出された。大きな外傷はなく、頭を強打したことによる一過性

の記憶障害も徐々に回復し、一週間ほどで退院することができた。

ただ、留学期間中の記憶の一部が、そこだけ濃い霧のベールにでも覆われたよう

に思い出せない、いわゆる逆行性健忘症の状態がずっと続いた。

それまでの俺の自堕落な生活を知る悪友からは、どうせ女やドラッグ絡みの

消せるものなら消してしまいたいような黒歴史の部分だろうと、一笑された。

生活に支障をきたすものではないから心配するなと言う家族の言葉にも後押し

され、失った記憶『最愛の女』の存在はベールに包まれたまま、渡米時に約束

されていた教授の娘との結婚の道を辿った。

後になって思えばあの事故、息子の記憶喪失は親たちにとって不幸中の幸い

だったのかもしれない。帰国直前に父親に送ったメールの中でそれとなく、

『彼女』の存在を匂わせ、婚約解消の意思を伝えていた。

だが、自宅に戻ると携帯やノートPCは事故で紛失したことになり、スーツ

ケースの中の『彼女』に繋がる私物、痕跡はことごとく消去されていた。

結納、挙式の日取り等、両親はまるで時間を惜しむように事を急いだ。

おそらく記憶を取り戻す前に既成事実を作ろうとしたのだろう。そして、

俺の意思とは無関係にメディアを巻き込む盛大な婚約披露、政財界人を招いた

華燭の典、豪勢な新婚旅行と、虚飾に満ちた結婚がスタートした。


二週間にも及ぶ南半球への旅行中、何かが違う、本当にこれでいいのか・・・

言いようのない違和感を覚えると同時に、頭の隅に追いやっていた喪失した

記憶の中身が妙に気にかかり始めた。

オーストラリアの主要都市を巡りニュージーランドから最終地のタヒチに

着いた頃にはハネムーンとは言え、愛の存在しない夫婦が四六時中一緒にいる

ことに息苦しさを感じていた俺は、相手が興味を示さないことを、これ幸いと

ばかりに単独でチリ領のイースター島へ行くことにした。

モアイ像には昔から興味があり、留学中にサンティアゴ経由で行くつもりが

実現しなかった。タヒチのパペーテからだと六時間程のフライトなので、南米

経由よりも成田からタヒチへの直行便を利用し、このルートでイースター島を

訪れる日本人も多い。

このイースター島行きが、再び俺の人生を一変させる運命の旅になろうとは

その時、夢にも思わなった。



* * * * * * * 



パペーテ空港を深夜に離陸したエアバスは順調に飛行を続けていた。

夜間フライトのため乗客のほとんどは就寝状態にあったが、俺はなかなか

寝付けずオーディオチャンネルを聴きながらシートにもたれていた。

飛行時間の三分の二を消化した頃、突然シートベルト着用のサインが点灯し

気流の悪いところを通過中という機長のアナウンスがあった。その直後、

機体が大きく左右に揺れ乗客の中から響動どよめきが起こった。

半年前の成田上空での事故が一瞬、俺の脳裏を過ぎった。それを払拭させる

ようにヘッドフォンのボリュームをいっぱいに上げ目を閉じた。

音楽がダイナミックなオーケストラ演奏から静かなピアノの独奏に代わり、

聴き覚えのある甘美な旋律が流れてきた。クラシックの趣味があるわけでは

ないが、この曲を聴くたびに何か心が癒されほっとした気分になる。

そんなお気に入りのはずなのに、誰の何という曲なのかどうしても

思い出せず曲名が喉元まで出かかっているもどかしさに、俺は思わず

「えーと、何だっけ」と呟いた。すると、耳元で女の声が囁いた。

「ショパンのノクターンよ、忘れたの?」・・・ 

その声に、まるで稲妻の閃光が全身を駆けぬけるような衝撃が走った。

次の瞬間、ピアノに向かう若い女の姿、はにかむように微笑む綺麗な横顔が

瞼の裏に写し出された。


ーー「あっ、ゴメン、続けて。君の邪魔をする気はないんだ。

   名曲はいつ聴いても心に沁みるよなぁー クラシック大好きなんだ。

   これ、けっこう有名なヤツだよね。度忘れして曲名が出てこない… 

   えーと、何だっけ?」

   自分に注がれる熱い視線に気づき手を止めた彼女に向かって、口から

   出まかせに調子のいいことを並べた。そんな俺の嘘八百を見破り、

   「ショパンのノクターンよ、あなた、本当はクラシックなんて

   大っ嫌いなんでしょ?」と言って、くすっと笑った。ーー


成瀬亜希と初めて出逢ったのは留学二年目、研修先の大学病院だった。

彼女は当時ボランティアとして小児科病棟の子供たちのためにピアノを弾いて

いた。日本人形のような可憐なピアニストがいるという噂を聞きつけ、ピアノ

やクラシックに全く興味のない俺は、物見遊山のつもりで娯楽室を覗きに

行った。『クラシックなんてやるような女に美人はいない』独断と偏見に

満ちた勝手なイメージを抱いていた俺は、ピアノに向かう彼女の姿を見た瞬間

はっと息を呑んだ。化粧っ気のない素顔、無造作にポニーテールに束ねた髪、

洗いざらしのTシャツにジーンズと、まるで飾りっ気がないにもかかわらず、

透明感のある自然体の美しが俺の目を捉えた。それは、これまで付き合って

いた女たちのような作り物の人工美にはとうてい太刀打ちできない、上質な

天然素材だけが持つピュアな美しさだった。


娯楽室の出逢いから一年、俺たちは真剣に愛し合うようになった。

俺の中に迷いはなかった。研修期間が終了し帰国の日が近づいたある日、

ポトマック川沿いの満開の桜の木の下で意気揚々とプロポーズした。

「無理しないでいいよ。私なら大丈夫だから」無表情のまま亜希は淡々と

した口調で言った。彼女の反応は俺の期待を大きく裏切るものだった。

「どういう意味だよ、なんでそんなこと言うんだ!? 俺はずっと本気だった。

亜希も同じ気持ちでいてくれると信じてた!」即OKの返事が貰えると思って

いた俺は苛立つように声を荒げた。

「私だってタクを本気で愛してる… でも、あなたには約束された将来がある。

それに、帰りを待っている人が…」亜希は唇を噛みしめ視線を落とした。

留学の根回しをしてくれた教授の娘との婚約の噂は彼女の耳にも入っていた。

「婚約者のことなら、親同士が勝手に決めたことで俺の意思じゃない!

結婚相手は亜希以外には考えられない! ちゃんと話をつけて必ず君を迎えに

来る。二週間で戻って来るから俺のこと信じて待っててほしい」

婚約破棄が何を意味するか十分承知の上だった。恩師との亀裂、親兄弟との

絶縁、すべてを捨てる覚悟は出来ていた。亜希は、そんな俺の固い決意に

応えるように「分かった、待ってる、ずっと待ってるから」と、瞳を潤ませ

何度も頷いた。



はにかむような笑顔、甘い声、肌のぬくもり、髪の匂い・・・

半年間ベールに包まれていた愛しい女が俺の五感の中で鮮やかに蘇った。

彼女と過ごした日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、胸に熱いものが

こみ上げてきた。なぜ、どうしてこんなことに、やり場のない怒りと悲しみ、

二人を引き裂いた残酷な運命を俺は呪った。だが、感傷に浸っている時間は

ない、一刻も早く彼女を迎えに行かなければ・・・

俺はイースター島からそのまま南米経由で亜希の待つメリーランドへ行く

つもりだった。


半時間ほどして、突然大きな衝撃音と伴に再び機体が左右に激しく揺れ始めた。

今度は頭上の酸素マスクが落下し、マスク着用を指示する録音アナウンスが

流れた。続いて客室乗務員たちが、慌ただしく救命胴衣の着用と安全姿勢を

取るように乗客に呼びかけた。

恐怖と不安で騒然となった機内には悲痛な叫び声と伴に「堕ちるのか?! 

もうダメなのか?! 死にたくない!」という英語、フランス語、スペイン語が

飛び交っていた。すぐに恐ろしいほどの急降下が始まった。髪の毛が逆立ち、

ほとんど真っ逆さまに落ちていくような凄まじい感覚だった。

それから間もなく、エアバスはイースター島から数千キロも離れた南太平洋上に

墜落した。








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