静かな決意
掛け声と、足が床を踏み込む音だけが一定のリズムを作っている。
白刃 紗月がこの格闘技を続ける理由は、昔からずっと変わっていない。
五歳のとき、母親は事件に巻き込まれて亡くなった。
当時の記憶は曖昧だ。
泣き続ける大人たちの顔も、何度も訪れた知らない人たちの姿も、ほとんど覚えていない。
ただ一つだけ覚えていることがある。
母親はよく、父親について話していた。
「お父さんは遠いところで頑張っているのよ」
そんな言葉だった気がする。
結局、その父親がどこにいるのか、何をしているのかは知らないままだった。
母親が亡くなり、年老いた優しい祖父母に引き取られてからは考えることもなくなった。
残ったのは一つの現実だけだ。誰かが助けてくれるとは限らない。
理不尽な出来事は突然やってくる。だから自分の身は自分で守るしかない。
小学1年生で格闘技を始めたのも、そのためだった。
最初は護身術のつもりだった。
だが紗月には才能があった。
覚えるのが早く、勝つことにも慣れていった。
中学、高校と結果を残し、大学へは競技実績による推薦で進学した。
そして今も変わらず、道場の床の上に立っている。
「次、三分」
コーチの声が響く。
紗月はゆっくりと構えを取った。
構え、踏み込み、突き、引き。
動作は一定で、乱れはない。相手の動きに反応しているというより、その先に起きる流れをあらかじめ組み込んでいるような動きだった。
最初に道場へ来てから、同年代の中で頭ひとつ抜けるのに時間はかからなかった。
攻防は短く、無駄がない。相手が変わっても、その流れはほとんど揺らがない。
特別な空気はない。ただ、いつも通りの練習が積み重なっていく。
やがてコーチが手を叩いた。
「ラスト」
その一言が落ちると、道場の空気が一瞬だけ変わる。疲れが滲み始めていたはずの視線が、わずかに鋭さを取り戻した。
誰かの声をきっかけに、小さな熱が連鎖していく。大声で気持ちを上げるための言葉が飛び交う。
彼女もまた、呼吸を一度だけ整えた。
構え、踏み込み、突き、引き。
動きは変わらない。ただ、その一つ一つに乗る集中だけがわずかに研ぎ澄まされていく。
相手の動きは遅れず、流れは途切れない。最後だからといって、無駄な力は入らない。
短い攻防が続き、やがてコーチの視線が全体を見渡す。
「そこまで、ストレッチ」
声が落ちた瞬間、張りつめていたものが一気にほどける。
緊張と疲労が混ざった声が一斉に広がり、さっきまでの鋭さが嘘のように緩んでいく。
各自がマットの上や壁際に移動し、ストレッチを始める。脚を伸ばす者、肩を回す者、呼吸を整える者。
紗月も同じように床に座り、無言のまま足を伸ばした。筋肉の張りを確かめるようにゆっくりと呼吸を落とし、関節を一つずつ緩めていく。
やがてストレッチが終わると、道場の中央へ並び集まり正座する。
その号令とともに、全員が深く頭を下げる。道場に対して、コーチに対して、そして今日の練習そのものに対して。
一拍の静寂。
「ありがとうございました」
声が揃うと、空気は完全に日常へと戻っていく。
紗月もまた顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。道場の照明はまだ明るいままだが、その場に残る熱だけが、静かに夜へ溶けていった。
更衣室へ向かう途中、部員たちは今日の内容について軽く言葉を交わしている。疲れの中にある、いつもの雑談だった。
紗月は少し遅れて道場を出た。
外に出ると、空はすでに暗く沈んでいる。湿った夜風が頬に触れた瞬間、道場の中の熱が一気に遠ざかるような感覚があった。
駅へ向かう道は、同じ道場の仲間たちで少しだけ賑やかだった。
その流れの中で、後ろから声がかかる。
「紗月ー! 一緒に帰ろー、待ってー!」
振り返ると、部活の陽菜の佐々木 陽菜が小走りで駆け寄ってきて、そのまま隣に並ぶ。
しばらくは道場での練習内容や次の予定についての会話が続き、雑談のまま歩く速度と同じリズムで時間が流れていく。
駅が近づき、人の流れが増えてきたところで、陽菜が口を開く。
「ねぇちょっと相談っていうかさ」
紗月は視線を前に向けたまま返す。
「うん、なに」
陽菜は続ける。
「今付き合ってる人いるんだけどさー。その人さ、
ちょっと金欠っていうか、パチンコやりすぎてお金なくなっててさー。」
「またそんなのと付き合ってるの。」
紗月は呆れたように短く返し、そのまま歩く。
「そうなの、ほんと困るよねー」
陽菜は気にした様子もなく軽い愚痴の延長で続けていく。
「それで借金ってほどじゃないんだけど、お金足りないらしくてさ…
それで知り合いの人がさ、稼げるバイト紹介してくれるって言ってて、運動できる子なら結構時給?いいらしくて」
「ふーん」
「紗月さ、うちの部活のエースで全国チャンピオンだし、稼げちゃうんじゃない?と思って」
紗月は少し間を置いてから言う。
「それは関係ないでしょ」
陽菜は「まあね」と少し笑い返し、そのまま続ける。
「でもさ、ちょっと手伝ってくれない?っていうか、一緒にやらない?
てか、部活のメンバーみんなでとか一緒にやれたら楽しそうじゃない?」
紗月はそこで一度だけ陽菜の方を見たが、陽菜は特に気にした様子もなくそのまま歩き続けていた。
駅の明かりが近づいて人の流れが分かれ始めるところで、紗月は少しだけ間を置いてから
「大会もまだあるし、話聞く感じだと運動系っぽいから、怪我とかしたらちょっと怖いし私はいいかな」
と言葉を返した。
「あー、だよねー、そういうのあるよね」といつもの柔らかいテンションのまま頷いて、
「わかったわかった、大丈夫、それなら。無理しなくていいやつだし」と軽く笑いながら受け流した。
そのまま「じゃあまた普通にご飯とか行こ」とでも言うような調子で話を締めて、
二人は気まずさも残さないまま駅の改札へ向かう人の流れに自然に混ざっていった。
祖父母の待つ家につき、いつも通り皆で夕食を食べ、
その後2階の自室で大学の課題をこなしたあと就寝前に1階のトイレへと向かった。
階段を下りたその瞬間、リビングの明かりだけが妙に浮いて見えた。
夜の静けさの中で、祖父と祖母の声はいつもより低く、途切れ途切れに聞こえてくる。
「……もう、長くはないかもしれない」
その言葉に、足が止まった。息を潜めるつもりもなかったのに、身体が自然と動かなくなる。
祖母のすすり泣く音が続き、ソファの軋む音が小さく響く。
「治療をすれば……助かる可能性はある。でも……」
祖母は涙混じりの声で言った。
「じゃあ、どうして……」
祖父の声はそこで一度途切れ、重たい沈黙が落ちた。
「お金が、かかりすぎる」
その一言が、部屋の空気を決定的に変えたように感じた。
「保険が利いても足りない。入院も長くなる。治療を続ければ、貯金もほとんど残らん」
祖父は苦しそうに息を吐く。
「紗月はもう大学生だ。これから先、まだまだ金がいる。卒業だってあるし、就職だってある。結婚するかもしれん」
「でも……あなたが治る可能性があるのに……」
祖母の声は震えていた。
「俺も生きたいさ」
その言葉だけは、妙にはっきり聞こえた。
「生きたい。でもな……あの子にはもう十分苦労をかけた」
再び沈黙。
「治療に金を使い切って、俺だけ長生きしたところで何になる。
…このことは、あの子には言わないでおこう。余計な心配をさせるだけだ」
祖母は何かを言おうとして、結局言葉にならず俯いた。
握り締めた手が小さく震えている。
「そうね……」
絞り出すような声だった。
「そうね……あの子のためにも……」
そこまで言ったところで声が詰まる。
「でも……どうしてこんなことになるの……」
涙を堪えきれず、祖母は顔を覆った。
「娘もあんな形でいなくなって……」
嗚咽混じりの声が漏れる。
「やっと紗月も大学生になって、少しは安心できると思ったのに……」
祖父は何も答えない。
答えられないのだろう。
祖母は震える肩を押さえながら続けた。
「あなたがいなくなったら、私はどうしたらいいの……」
その問いに返事はなかった。
長年連れ添った夫婦だからこそ、その沈黙が答えだった。
祖母はしばらく俯いたまま涙を流し続ける。
やがて諦めたように、小さく息を吐いた。
「……あの子は優しいから」
祖母はぽつりと呟く。
「もし知ったら、自分のことなんて全部後回しにするわ」
涙声のままそう言うと、静かなすすり泣きだけがリビングに残った。
「だから知らなくていい。最後まで、普通に大学へ通って、普通に笑っていてくれればそれでいい」
それ以上は聞いていられなかった。
気づけば足音を殺して階段を上がり、自分の部屋のドアを閉めていた。
暗い天井を見つめながら、頭の中で何度も言葉が反響する。
知らされないまま進む時間。
そして、自分には何もできないという感覚。
スマートフォンを手に取ると、今日断ったはずの名前がすぐに浮かんだ。
画面をしばらく見つめたあと、指が勝手に動いた。
——やっぱり、あのバイトやる。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が冷たく沈んだまま、どこにも戻れない場所に踏み込んだような気がした。




