第18話: 誰が為に怒るのか
「ミアさん!解毒薬が効いていません!」
「鉤爪には普通の解毒薬では治せません!魔力を傷口から流し込んで体内から押し出すんです、でも慎重に!一歩間違えれば血管を裂きますから!」
「は、はい!」
先程の魔物との戦いの後、自然とミア達は多忙となった。傷だけ見れば重傷者はいなかったのだが、彼等には厄介な毒に苦しめられていた。全身を徐々に侵すような痛みと虫の這い回る不快な痒みの2つを凝縮した感覚が彼等を苦しめる。それは彼等の血管を通してそれは循環されていく、その度にその感覚は強くなり、高熱と共に最終的には衰弱死する。即死には至らないのは幸いだったが、苦しめる事に特化したそれは極めて悪質とも言えた。
「大丈夫、私達が貴方を助けますから……っ!」
解毒を終えた後に止血等の処置を施しながら、脳裏に1人の姿が浮かぶ。今も恐らく甲板で戦うその少年を。
(滝沢さん……無事でしょうか)
祈るような思いのみが胸の奥で木霊した。魔王と戦わねばならない宿命を持った少年を思って。彼女の祈りの訳も、彼自身も知らぬまま──
*
勇者達の前に出されていたのは紛れもなく、保護されるべき人間。魔王の使徒である飛鳥連理という少女は勇者を差し出してもらう代わりに、この哀れな人間の命を保証するという取引を口にしてきたのだ。彼女よりも年も背丈も上のはずの中年ぐらいの男性が、親指の上に乗せられた蟻が今にも人差し指で押し潰されようとしているかの様に、容赦も選択肢もないまま命を容易く握られている。
「即答は難しいわよね。でも取引を持ち帰って考えて良いとは言ってあげられないの、分かってくれるでしょう?」
「申し訳なさそうに言う必要はない。貴殿等のやりそうなやり方だと思ったのみだ」
「それは心外だわ。好きでやってる様に見える?」
「使徒だからな」
「それもそうね、そう言われたら返す言葉もないわ。理解はしていたけど改めて悲しいレッテルね」
理屈のみで言うのならば、即答で断ると言っても良いレベルの話だ。勇者は世界を背負う者、だが目の前の男性はなんて事ない一般人だ、世界を背負う資質も当然持たず、彼の放棄によって世界に影響は起きないのだから、取引として成立するはずもない。
だが、そう断じれるはずがない。人命の関わる事態が起きている、それも勇者達が保護すべき無辜の民が殺される危機に陥っている。感情的にも、そして状況的にもそれは最悪だ。勇者は多くを助けなければならない立場なのにその多くの内の1である者を見捨てればどうなるか、それが知られたら勇者に対する信用に傷がつく。
状況が状況だ、エレンの判断を待たねばならない。
「あっ!申し訳ないわね。この人だけでは流石に釣り合わないのは分かっているわ、船員の命も保証してあげる。勇者の身柄さえ確保出来たら後は自由だもの」
範囲は広がった、1人ではなく戦闘員、非戦闘員問わず。不幸中の幸いは彼女は勇者以外の話には全て応じるつもりでいるところか。
「差し出せ、と言ったな。勇者をその場で殺すつもりはないのか?」
「ええ、でもその後を知る必要はある?」
「ある、勇者は無関係な人間ではない。敵に生きたまま連れて行かれる仲間がどうなるか、興味深いだろう」
「ふうぅ…………うーーん」
鎖を持ったまま顎に指を当てて考えている様子だけ見れば、年相応の可愛い女性の姿だ。16歳ほどだろうか、普通ならば制服を着て学校に行っているような人なのだと思わせる。
暫くしてその無垢な動作の延長線上のままに、葵の方に一度視線を向けた後、満面の笑みと共に小さく頷く。
「良いわ、教えてあげる」
葵は動揺を見せない為に下唇を噛んで表情を抑制しているが、不快感と心のざらつきが徐々に葵の中でうるさくなってくる。それでもまだ、まだ耐えられる。
「指と爪の間に針をプレゼントしてあげたいわ」
それはまるで、どんな風に今日遊ぶのかを考える子供の様な期待に満ちた目で。
「爪を剥がすのも良いし、足の腱も切ってあげたいわ、よくある鞭打ちも良いし、舌を抜く……のは悲鳴が聞けないからナシだわ。皮を少しずつ剥がすのも良いし、片目ぐらいなら目の裏側を責めても死なないわよね?足の裏を焼くのも良いし、車輪に巻きつける、肉を削ぐとかぁ、雄牛に閉じ込めるのもアリかしら!寄生虫に似た魔物もいるんだけれど、それを耳から入れるのも良いわね。ああ、私の仲間にはどうしようもないクズの変態野郎がいるんだけど、そいつにも貸してあげようかしら、でもでも殺すのは私なんだけれどね。まぁ噛み砕いたらそんなところかしら」
深呼吸をして、まだ言い足りない事の不満を吐き出す。もっと、もっと残虐で彼が拒絶する様な気の狂う方法を言うつもりなのだろう。原始的とすら言える拷問、心身共に痛めつける全て。
葵は思わず立ちくらみを起こし、ブランの部下が支える。何故そこまでしたいのか、苦痛を快楽とする人間性だったとしても葵にのみ絞られている殺意は不自然。彼女自身が勇者をひどく嫌っていて、恨んでいる、それはよく分かった。だが、普通の人間なら拷問なんて手段は考えない、あっても唾棄されるべきだろう、人の道を行きたいなら人としての道を生き続けたいなら。だが、そんな一線を簡単に越えようとしている。そう出来るほどの恨みを受けて、葵は思わず顔を覆って消え入るように言葉をこぼす。
「それが……この船の人々の命と見合う物なのか?」
使徒の笑顔が一瞬で消える、彼女の先程までのいっそ恍惚とすら言える様子の方が芝居がかったもので、彼女の根底に渦巻く感情に揺らぎなど起きていなかった。その目の奥に見える物は変わっていないのだから。
「っはあぁ……本当に馬鹿みたい。私は野蛮じゃないって言ったでしょ。だから、アンタだけは例外で、アンタの苦痛と最終的な死だけが私にとって意味があるの、今の私にはそれが唯一のやり甲斐」
もう片方の鎖を持つ右手を左側に強く引き上げ、銀の軌跡を描きながら鎖は舞う。その動作に反して、音は無機質に、無慈悲に鳴り続け、この場にいる全員が何があるのかを理解していただろう。
だが、予想通り上がってきたのはやはり人間だった、こちらも男性だが高校生ぐらいの年齢だろう。健康的な日焼けした肌と、染めたような茶髪に葵より高い身長の男子。変哲もない普通の人間が、葵にとっては予想通りで済ませられない相手だった──
「な、ん、で……大原。君が、ここに……っ!?」
「っ!?そ、そ、その声、お前、滝沢か!?」
星明高校、葵の通っていた市内の学校の制服を着た男子、大原義樹。小学校から高校まで同じ学校で顔を合わせ続けている、互いにとって知らないはずのない人間だった。
「同じ制服を着てるけど、もしかしてその顔……あの勇者と知り合いかしら?」
「ゆ、勇者!?じゃ、じゃあ滝沢目的で俺は捕まったのかよ!?」
「結果的に、そうなるわね。ごめんなさい」
「っ……!た、滝沢!じゃあこれって、お前の復讐なのか!?」
連理の方も意外な言葉が出てきたからか、黙して義樹の方を見ていた。当の義樹は喉を引き攣らせながら乱れた呼吸で葵に真っ直ぐと視線を向けている、縋るような、恨むような、そのどれもが混乱に収束するだろう。
だが、それでもまだダルガ達もブラン達も動かない。エレンからの指令は1つ。
『1分でも長く時間を稼いで、策があるの──』
彼女から聞いたその内容を反芻しながらブランは顎を撫でる。無茶をする事にはなるが、確かにこの場においてそれが有効である事にも違いはないだろう。故に、今は葵に託す時だった。彼にも今の指令は聞こえていたはずだから。
そして、当の葵は小さく肩を震わせていた。だがそれは恐怖からは程遠い、彼の激情を感じさせる震え。思えば、この世界で出会った人達にとって滝沢葵は礼儀正しく、お人好しで、良くも悪くも普通の人だった。人格的に言うなら好印象ではあれど、あまり大きく印象に残る人間性でもなかったかもしれない。だからこそ、彼のその反応は異質に思えた。
「嫌なタイプの知り合いなら丁度良いわ。勇者、この人を殺したら貴方だけ殺すのを後回しにしてあげる」
「……すぐにでも俺を殺したがっていた様に思えたけれど」
「その通りよ。でもね、勇者が自分の延命と引き換えに1人を殺すか、自分の命と引き換えに全てを助けるかの天秤に惑う苦痛は良い見せ物じゃない」
「…………なら、俺は君の恨みの分だけ君を楽しませる使命があるんだね」
まだふらつく足、体重で前に歩くように葵は船首の方に向かおうと動き出す。
「だ、ダメですよ勇者さん!」
「坊主!そりゃダメだぜ!!考え直せ!」
「良いから、どいて」
止めようとするダルガ達を押し退けて葵は歩いていく、魔物の地で汚れた革靴がその跡を残していく。皆が自然と緊張でそれぞれの構えをする中、葵の顔から表情は消えていた。
「た、滝沢……」
使徒の前に辿り着いた時、一番最初に口を開いたのは義樹だった。先程の戦闘で浴びた魔物の黒い体液を頭から伝わせながら、その片手に刀を持って見下ろしてくる人間はとても同級生には見えない、見えるはずがなかった。処刑人がこちらを見つめてくる様な思いだ、その命を握る立場の者、握られる者。
「そっちにしたのね、あまり迷わなかったのがつまらないけれど、良いわ。見守ってあげる」
連理はくす、くすと嘲笑う。口元を袖で隠す様にしながら葵を横目に見ていたが、彼の表情は彼の髪で隠れて見えなかった。正面に立たれているはずの義樹にすら、やけに眩しい月の逆光で何も見えない。
「た、滝沢……お前、俺を……っ」
無言で振り上げる刀、月光に照らされて黎明の色彩を刃が映す。
「俺は、選ぶよ」
そうして容赦も躊躇もなく振り下ろされる一撃。せめて骨ごと叩き切って苦しみを長引かせない為に、半端に痛みに悶えてしまわない様に。彼なりの慈悲で──
「っ!?」
刀は連理の右腕を狙って振り下ろされる。そう、躊躇いなく。
咄嗟に飛び退いてそれを回避するが、葵はそれで終わらせるつもりはなかった。
「リンド!!」
葵の中から膨大な魔力が銀の光を帯び、雪の様に舞い散らせながら人の形を成す。
「身の程を知りなさい、小娘」
魔力の奔流が吹雪の様に刃として連理に殺到する。正面から、左右から、だがそれそのものの物理攻撃が本体ではない。
「っ!ちっ!!」
そう、それに触れれば精神の壊死を招く。大蛇に使ったものよりは威力は落ちるが、同一の物かつ、相手が人間であればこれでも十分以上だ。回避と防御を急がねばならない状況下に晒された連理はさらに飛び退き、鎖を手放さざるを得なくなる。
ダルガ達にとってもリンドによる攻撃は彼女自体を認知出来ないからか、何が起きたのかは分からないままだ。それでも、彼等はすぐに人質を保護する為に動き、その間術師隊は防御隊に防壁を張り、それを支援。
「人質は確保した!船内に頼む!」
「防御隊を死ぬ気で支援しろ!!」
状況が動き続ける中、リンドの手を引いて葵は連理から急いで離れる。
「リンド、俺に捕まってて!」
「無論よ、貴方こそ離さないでね」
甲板にいたメンバーが一斉に伏せる、その違和感に気付いて行動するよりも早くそれは起きる。彼等に今魔道具越しに放たれた言葉はこれだ。
『総員!衝撃に備えろ!!』
グレムの叫ぶ声と共に岩山の1つに船ごと突っ込む。連理が振り返った時には船首は彼女を乗せたまま岩山に突き立てられたのだ。
*
砂山に突き立てたシャベルの様に刺さったまま動きを止めたノア。その際の勢いと速度によって、近くの物に皆捕まりこそしたが、甲板に身を投げ出している物は多い。葵もその1人だ。
「ったた……み、皆さん!無事ですか!?」
「俺達は平気だ、頑丈さが売りだからな!」
「おい、この馬鹿弟子共、さっさと起きろ!」
振り落とされた者がいないと分かって安堵の笑みをこぼす。だが、それも束の間の事。
リンドに肩を支えられながら立ち上がり、船首の方を見る。耳から聞こえてくる内容、それを抜きにしてもこの場にいた誰もがそれは確信していただろう。
『あの風の、あの魔力の残滓を観測した。“本番はここからだ”』
ミハエルからの報告と共に防御隊はブラン達を囲む様に隊列を整え、葵もまた辺りに意識を向けていた。だが、ふとあの戦闘後から覚えていた違和感を思い出す。その答え合わせの代わりに銃声というには重い音が船の真上に向かって響き渡る。
「気づいていたの?」
「スナイパーを舐めてもらっちゃあ困るな」
船の真上から鎌鼬の様な風を纏いながら使徒は舞い降りる。その最中にも真上に向けてライは銃を撃つ、風によって逸らされても何度も。
「弾の無駄よ、威力は大体分かったもの。地球人さん」
「無駄を楽しめる心のゆとりこそが良い女の秘訣だぜ、“お嬢さん”」
そう言った瞬間、歯で無理やり自分の爪を2枚剥がし、目の前の敵への意識よりも上回りそうな痛みがすぐに走るが、それを無視してそのリソースを銃に対して支払う。
「唸れ!エル・ドラード!! 」
風をも巻き込みながら放たれる銃弾、風で防げないと分かれば防壁を展開する。しかし、魔王の使徒である少女の防壁すら突き破る。直撃を避ける為にあえて防壁が破れた衝撃に任せて着地点を大きくズラすが、それでも左腕に掠った弾丸はその風圧で彼女の腕を無理やり後方に動かし、その骨を痛めつける。
「ぁうっ!?な、によ!!」
使徒との交戦がないならばそれで良く、そうでないならば使徒相手に不意打ちを入れる。そのつもりでライは魔物との交戦後、潜伏していた。人質の話が上手くまとまらず、好転しなかった場合も彼は引き金を引いて事を進めただろう。堂々と姿を晒した戦闘は彼の本懐ではない。
そんな彼の為にある銃。そして、彼だけの銃である“遙かな祈銃エル・ドラード”は普通の対物ライフルとしても使えるが、彼が支払う対価次第でその威力や性質を変化させる事が出来る。その対価が彼にとって重ければ重いほどにその威力は上がっていく。それこそ、防壁を容易に破壊は出来るほどに。
「術師隊全員撃てえぇぇぇ!!!」
片腕を抑えて宙を舞う少女に向けて放たれる術の乱打。容赦なく降り注ぐ攻撃はどれも防ぐゆとりはない、タイミングとしても良かった。
その、はずだった──
「最、悪!!」
その一言と共に風を足に纏わせながら踊る様に縦回転しながら少女は落ちてくる。
「させるかぁっ!!」
「うるさい!!死になさい!!」
葵がその一撃を止める為に跳躍し、その側面から斬撃を入れようとするが、足に纏っている鎌鼬が翼のように左右により広がって葵を包んで全身を鋭く切り裂く。
「っうあぁぁあ!!!」
「アオイ!!」
落下してくる葵を空中で受け止めながらリンドは素早く連理の攻撃範囲から離れる。
そして、連理のその遠心力を伴ったままに足が風で加速されながら振り下ろされ、甲板にヒビが入るほどの蹴りが入る。その周囲にいた人間がその衝撃で吹き飛び、仲間を庇う為に飛び出た防御隊の1人が大盾ごと叩き割られた──
「が、あ゛、ぁっ──」
「ロナリス!!!」
ロナリスと呼ばれたダルガの部下は陥没するほどの威力で額を叩き割られ、その腕はあらぬ方向に向かい、衝撃を受け止めた全身は内臓に主にダメージが及んだらしく、ろくな悲鳴も言葉もあげられないまま苦しみもがいている。
「ぁ、あ、ぁぃ、ぢょうッ」
「喋るな!深呼吸をしろ、ロナリス!おい!!」
「つ、まを……ぢ、ぎゅぅへ…………」
数度咳き込んでいたが、そのどれもが窒息しかねないほどの量の血を伴ってのもので、こんな瞬間を見慣れていない者ですら分かる。彼は助からない。
「あぁ……ッ」
リンドに抱えられながら、葵は嘆きの声を漏らした。自分自身も全身に切り傷を作り、血を垂れ流しているというのに、自分の痛みよりも、その様子に苦しんでいた。
この最中にも交渉決裂した後の使徒は風を起こして防御隊の頭を飛び越し、術師を切り刻まんと足を振り、それに対応する為に皆は動かざるを得なくなる。ロナリスを景色のように置いていかざるを得ないのだ。
「っ、ロナリス……許せ」
「……っ、てくだ、さ……ごぼっ!がっぁ!はぁ、は……どう、か地球…………へ」
ダルガが防御隊の元に戻る為に立ち上がったと同時に、安心した様にロナリスは目を閉じた。痛みに目を見開いていた先程までと打って変わって、良い夢を見ながら眠る様に。
「──」
葵の喉の奥から出た声は言葉にならず、それは悲鳴の様だった。風が悲鳴すらも攫っていき、人の死すらも過ぎていくものとして容易く連れていき、その命を奪ったのみならず悼みすらも強奪していったのだ。
リンドの腕から身を捻って抜け出し、驚く彼女に対して感謝と労りを示す様に一度笑みを向けてから連理に向けて駆けていく。
「ちょっと!アオイ!!」
彼の傷だって浅くない。他の事に思考を割かれていた直後でも連理の風には殺意が乗っていた、その証拠に胸の近くに行くほど傷は深くなっている。命を循環させる物がその行き先を外に変えて溢れ続ける。
それでも駆け出した、あの魔王の使徒に向かって。飛び込む様に刀を振り下ろし、連理はそれをギリギリの所で回避する。
「勇者……っ!!良いわ、殺してあげる!!」
「君が、何の為に、何を思って怒っているのか俺はまだ知らない。でも、分かったよ──」
「何を分かったというのよ!このクズ!!」
「君の命の認識は、軽い」
刀を構え直すと同時に葵の腕の後ろから黒曜石の腕と爪が浮かぶ。
「同じ地球人として、俺はそれを許さない」
「中でも勇者にそんな事を言われるなんてね……誇りも、尊厳も、全て失う様な死をくれてやるわ!!!」
「俺を殺せるものなら殺してみろ!!」
勇者と使徒がついにぶつかったのだった──