ベルゼブブ
俺はニアレット砦から、馬を飛ばし二日かけて移動して、ダルフォルネ領の中央都市に入り、この大通りまで辿り着いた。
大通りには、すでに人が溢れている。
「これじゃあ、広場まで入れないな――」
この大通りの先にある広場が、処刑場になっている。
処刑の為に作られた舞台は、ここからでも見える。
処刑台の上に、やつれた様子のソフィの姿が見えた。
彼女は手枷を付けられて、大きな本を抱えて断頭台の横に進み出てきた。
偽聖女の公開処刑を待ちわび熱気を帯びた民衆と、処刑台の上の彼女を見た瞬間に、俺はこの世界で嫌われるために創られたキャラクターは、自分一人ではなかったことに気付いた。
早く彼女を、あの場所から助けなければ――
俺は自然とそう思っていた。
それは、臣下に勝手なことをされてはメンツが潰れるとか、そういった理由からではなく……俺はただ、ソフィのことを助けたいと思っていた。
それはこの場に集まった民衆の期待を、裏切る行為だろう。
苛められている人間のことは、見捨てるのが賢い生き方なのかもしれないし、正解なのかもしれないが、その選択肢は俺にはなかった。
彼女の命を助けることを、こいつらは納得しないだろう。
俺は民衆の不興を買うことになる。
いつだって王権を倒すのは民衆の暴走なのだが、そんなことはどうでもよかった。
とにかく俺は、この処刑を止める。
その為に早くあそこまで行きたいが、馬で無理やり進んで民衆がパニックを起こせば身動きが取れなくなる。
裏道を通れば広場まではなんとか行けるかもしれないが、広場の中も人だらけだ。
大周りをして、広場の裏に回る――
「だが、時間があるか?」
間に合うかは分からないが、ここで迷っていても仕方がない。
とにかく、行くしかない。
俺がそう判断し、広場の裏まで向かおうとすると、近くを巡回していたダルフォルネの警備兵に囲まれてしまった。
急いでいるというのに――
これだけの民衆を、集めているのだ。
警備用の兵は、大勢動員されている。
武装して馬に乗っている俺は、当然職質されるだろう。
どうやってこの事態を切り抜けようか、俺が考えていると――
ソフィの声が聞こえた。
ここから処刑台までは、二キロ以上はあるだろう。
声の大きな人間が、大声を出せば聞こえるだろうが――
ソフィの声は、ぼそぼそと囁くような声だった。
ソフィのか細い声は、耳元で話しかけられているように、はっきりと聞こえた。
そして、声が聞こえたのは俺だけではないようで、俺の周りの連中も不思議がったり、不気味がったりしていた。
群衆は一瞬、静まり返り――
だが徐々に……
ソフィの訴えの内容に、激怒して罵声を浴びせた。
俺の左腕の、邪竜王の呪いが膨れ上がる。
黒い炎を解き放ち、目の前に蠢く民衆を焼き払いたい衝動に駆られる。
俺がそれを実行しようとする前に、彼女の声が再び聞こえた。
聖女の計画を暴露して、自分を罵倒する民衆を助けようと必死に訴えていた。
俺はこの時、彼女の優しさに救われたと思う。
彼女が助けようとしている奴らを、殺してしまうわけにはいかない。
邪竜王の呪いに突き動かされて、危うく民衆を虐殺してしまうところだった。
大勢の民衆から罵倒されながらも、それでも挫けることなく、ソフィは聖女の計画を暴露した。
だが、彼女の訴えを、民衆は取り合わなかった。
突然、逃げろとか悪魔だとか言われても、聞いた側はよく分からないし、誰も信じない。偽物が本物の聖女を悪く言っても、反感を買うだけだった。
いやそれ以前に、偽聖女として処刑されようとしている彼女が、どんな訴えをしたところで、言うことを信じる者はいないだろう。
俺以外は――。
聖女ローゼリアの悪辣さは、実際に戦って知っている。
王宮の禁書庫から悪魔召喚の魔導書が、盗賊団に盗まれたという報告があったことも思い出した。ソフィの持っている本が、恐らくそれだろう。
ローゼリアは、悪辣だ。
ソフィに悪魔を召喚させて、自分が悪魔を倒す。
そのマッチポンプが、聖女の計画なのだろう。
ローゼリアが聖女として名声を高めれば、俺は奴に手を出しにくくなる。
ソフィの訴えが正しければ、奴はそのうえで隣国に帰る予定だろう。
そうなれば、聖女を国内に引き留められなかった国の指導者は、さらなる批判にさらされることになる。
ここに集った民衆は、聖女の軍隊が略奪をしていることは知っているはずだ。
しかし怒りは、聖女ではなく偽聖女に向いている。
聖女に対する信仰心か?
それとも、聖女のもたらす利益に目が眩んでいるのか?
俺が聖女を殺せば、こいつらはどう反応する?
厄介な奴だ――
あいつのことは、なんとしてでも殺してやりたいが、殺すにしても工夫が必要になる。……本当に厄介な奴だ。
俺は周囲に集まった警備兵を『説得』しながら、奴への対処を考える。
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あの偽聖女は、ただ立っていた。
設置されているギロチンの横まで歩いていき、そこで何をするでもなく、ただ立っている。
本当にどんくさい、愚図な奴だ。
早く悪魔を召喚しなさいよ。
私は人に待たされるのって、嫌いなんだから!!
……
…………、
……………………。
ひょっとして、召喚できない?
……悪魔を召喚するには、強い願いが必要だ。
あいつに『死にたくない』という、気持ちが足りない……?
だったら、拷問でもしてみようかしら?
いや、でも――
それをするのは、危険な気もする。
あの時……あいつから感じた、あの不気味な威圧感は何だったのだろうか?
気のせい?
いや、これから私は悪魔と戦おうとしている。
……そのプレッシャーかしら?
聖(笑)で聖女ローゼリアは、悪魔ベルゼブブを討伐している。
しかし、この世界は聖(笑)世界とは細部に違いがあり、最近ではそれが顕著になってきている。
私は悪魔ベルゼブブに勝てるのか?
今になって、そんな疑問が湧いてきた。
…………。
悪魔召喚を中止して、偽聖女の公開処刑だけでも良いのではないか?
……そうね。
別に悪魔を倒さなくったって、民衆は真の聖女である私を求めている。
計画に支障はないわ。
私が悪魔召喚の取り止めを命じようとした時に、あの酷女の姿が何の前触れもなく変化していた。
それは映画の撮影を一旦止めて、役者にメイクを施してから、再び繋ぎ合わせて続けたような、そんな感じで――
一瞬で姿が、切り替わっていた。
髪の色と囚人服が、真っ白になっている。
そいつはゆっくりと、こちらを向いた。
瞳の色が、赤くなって……。
白い服と髪が死に装束を連想させて、まるで死神にでもなったかのように見えた。
「なによ……あれは――?」
コミカライズされた聖(笑)に出てくるベルゼブブは、ハエをモチーフにした姿をしていた。
上半身がハエで、下半身が筋肉質な人間の男という醜悪な姿だった。
小説では具体的な描写が無くて、単に名前だけだった。
ハエの悪魔は、どこにも見えない。
あの酷女の姿が、変わっただけだ。
…………。
あれが、この世界の『ベルゼブブ』なのだろうか?
…………。
いや、何か違う気がする。
あいつを見ていると、体が自然と震えてくる。
あれは――
悪魔とかではなくて、もっとこう……
自分の人生から一番、遠ざけておきたい……。
あれは――
「ええ、そうよ。人間が誰しも恐れて、遠ざけようとする――けれど決して、逃げられはしない……俺様は『人の死』そのものよ。そいつの人生の――」
「ギャアああぁぁぁ、アアアぁぁッッ!!!!!」
そいつがまだ、喋っている途中で――
私は全力で、『聖女の光』を撃ちこんだ。




