第5章
水南州の没落貴族の娘が見事な解答をした…!
驚嘆と、なぜあのような田舎の娘がという疑問が入り混じったどよめきがなかなか冷めやらぬ中、太老師がコツ!と杖で床を打った。
「では次の試問に移る」
杖の音と、老師の齢に似合わぬ朗とした声に広間はふたたび静まり返った。
「ではまず歌を歌ってもらいたい。なんの歌でもよい、楽器を弾きながらというのでもよい。それぞれお得意な歌を一曲歌われよ」
そう言うと、太老師は壁際の長卓に並べられた楽器を指し示した。
そこには、胡弓、二胡、十二弦琴、琵琶、月琴など、弾きながら歌うことのできるものがずらりと並んでいる。
老師の言葉を聞いて麗岐は口元に笑みを浮かべた。
歌は麗岐の最も得意とすることであったからである。
麗岐の高い美声は有名で、どのような難曲も歌いこなしてみせた。
しかしそこは深窓の令嬢であったから、麗岐の歌は噂ばかりで、なかなか聴く機会に恵まれない。
なかなか聴けないとなると聴きたくなるのが人の常で、その歌を一度でよいから聴きたいと思う者たちがなんとか丞相邸に招かれぬものかとあれやこれや画策していたくらいなのである。
一方で、漣花は内心頭を抱える思いだった。
漣花とて、けっして音痴なわけではないが、歌を習ったことがあるわけではない。
どころか令嬢の素養ともいうべき歌舞音曲の類には全く興味がなく、どちらかといえば敬遠していたくらいの代物。
流行りの歌も名曲の数々も漣花は持ち合わせていなかった。
ただ一つ、母譲りの月琴だけは弾くことができる。
月琴は、片腕で抱えられるほどの小さな三日月型の枠に、十本の弦を渡した簡単な楽器である。
女性向きの楽器というよりは、庶民の間で気軽に用いられる楽器で、音階が簡単なことが好まれた。
月琴を使おうか、そもそもなんの歌を歌おうかと考えている漣花を尻目に、麗岐がつと前へ進み出た。
「では私から披露させていただきます」
麗岐はすっと、太老師の譲った壇下の中央に立った。
その立ち姿は咲き誇る花のように美しい。
そっと父の丞相と目を合わせ微笑むと、たった今花開いたばかりの大輪の花を思わせる華やかな笑顔を広間全体に向けた。
麗岐の歌声が、広間に響き渡る。
高音の乙女の声で歌われる歌は、「君」を想う宮廷歌。
君は大河に、大海に、大空に喩えられ讃えられる。
君、とはつまり皇帝である。
「君」となぞらえて、皇帝を崇拝する歌。
即位式や年始などの饗宴の際によく歌われているが、高音で難曲であるため、歌いこなす歌い手はなかなかいなかった。
にもかかわらず、麗岐の歌声は鳴かない孔雀が歌うことができたなら斯くやと思われるような華やかな歌声だった。
脳髄にまで響くような高音が見事に難曲を歌い上げた。
その歌に陶酔するもの、感心するもの、驚嘆するもの。
広間の人々は噂どおりの麗岐の美声に聞きほれるばかりであった。
堂々と歌い終えて、麗岐は胸に片手を当てて、満足げに一礼をした。
歌い切った。国一番の歌い手と言われてもおかしくないほどに自分は歌えた。
きっと、太老師も驚いているにちがいない。
わっと歓声と拍手が起こる中、麗岐は壁際にしつらえられた卓子に座る老師にちらりと視線を向けた。
太老師は特に表情を変えることなく、平静なままだ。
きっと、むりに表情を変えないようにしていらっしゃるだけで、内心、私に満点を出さねばと思ってらっしゃるわ、と麗岐は思った。
自分が丞相の娘だという世辞を差し引いたとしてもこの拍手はどうだ。
これがすべてを物語っているではないか。
麗岐の胸は勝利と優越感でいっぱいだった。
それほどに、麗岐は自分の歌には自信を持っていたのである。
やっぱり麗岐殿は素晴らしい歌声…。
漣花は割れんばかりの拍手の中、自分とのあまりの差に落胆さえ忘れ、ただ単純に麗岐の歌声に聞き入っていた。
こんなにも実力に差があると、張り合おうなどとさっぱり思えないのが滑稽なほど。
実際、続いた春玉も明凛もさすがは貴族の令嬢なだけあって、技術は素晴らしかったが、到底麗岐の歌の迫力には及ぶべくもなく、及第点といったところだった。
義理まじりの拍手がそれを物語っている。
明凛が歌い終え、一礼して琵琶を置いた。
最後に漣花の番である。
こんな瀬戸際になっても、漣花は歌う歌を決めかねていた。
決めかねるほど、歌える歌があるわけではない。
前の三人は皆、皇帝や国を讃える歌だった。
なんの歌でもいいと言われたのに、やはり選ぶ歌はそんな歌になるのか…と漣花は思った。
楽器が並べられた長卓まで行き、月琴を手に取った。
漣花が月琴を手にしたのを見て、麗岐はあんな庶民の楽器を、と呆れ混じりに笑んだ。
広間の人々もそう思っているのか、やはり歌は麗岐様にかなうまいという視線を麗岐に向ける。
麗岐はその視線に気づかないように装いながら、漣花の歌を待った。
母に唯一習った月琴。
思えば、子守歌も、数え歌も、遊び歌も、母は月琴を弾きながら歌ってくれた。
私も弾きたいと言って、母から習ったのはいくつの時だったろう。
楽に持ち運べる月琴は、朝に夕に、漣花をなぐさめ、いたわり、亡き母を側に感じさせてくれるものだった。
使い慣れた母の形見の月琴ではないけれど、一曲よろしくね、という気持ちで、左腕の中の月琴を見る。
壇下の中央に立つと、広間の一番後方あたりに、英達や桃胡たちが見えた。
漣花をここに立たせるべく、奔走してくれた英達。
漣花を最も美しく仕上げようと苦心してくれた桃胡たち。
推薦状を持たせてくれた綜波。
漣花の幸せを願って送り出してくれた父。
そして。
二人目の推薦者になってくれた青嵐。
ここに至るまでに、自分はどんなに多くの人に支えられてきただろう。
自分がここに立っているのは、漣花自身の手柄でもなんでもなく、漣花を支えてくれた周りの人たちのおかげだ。
漣花のような田舎の没落貴族の娘が、国一番の学者である太老師の試験、しかも皇妃試験を受けられている。
そう思った時、漣花の中で一つの歌が現れた。
私は私をここへ来させてくれた人達へ、歌を贈ろう。
技巧も才も無い自分ができることは、せめて心を込めて歌うことだけ。
心からの、感謝を歌にして。
ぽろん…と月琴の無垢な音が鳴り始める。
漣花の歌は故郷で亡き母がよく歌ってくれた歌だった。
日々の恵みを与えてくれる自然に感謝しよう。
互いに助け合い、人と人をつないでくれる水に感謝しよう。
大地を父と水を母とし、光あふれるこの世に感謝を。
そんな、なんでもない歌だった。
麗岐のような類稀な美声も、春玉や明凛の技を聞かせた歌い方も、なにもない、素のままの漣花の声で歌った。
優しく、小さな歌。
ごくごく当たり前の日常を歌に乗せて。
穏やかで、誰の心にもすんなりと入ってきた。
寄せては返す、さざ波のように。
桃胡は漣花の歌を聴きながら、自分の目から大粒の涙がぽろりとこぼれるのを感じていた。
「英達様…」
「桃胡殿?」
「どうしてでしょう…、古いありきたりの、やさしい歌ですのに…なぜが心が震えて…涙が出てきます」
桃胡は涙をぬぐうのも忘れて、歌う漣花を見つめた。
桃胡だけでなく、広間で聞いている多くの人の心も同じような感情で満たされていた。
ある者は故郷の風景を。
ある者は残してきた父母や弟妹を。
ある者は普段忘れている当たり前の日常への感謝を。
それぞれに感じながら、心地よい素直な漣花の歌声を目を閉じて聞いていた。
歌声のさざ波がゆっくりと寄せることを終えてもなおその余韻は続き、人々は歓声をあげることも拍手を送ることもしばし忘れていた。
やがて、パラパラと我に返ったように始まったわずかな拍手は、あっという間に広間に広がり、多くのものが目頭を熱くしながら手を叩いた。
漣花は少し恥ずかしそうに微笑むと一礼して脇に控える他の三人に並んだ。
鳴りやまぬかに思えた拍手は太老師の一言で静まり返った。
「候補がた、それぞれに歌をご苦労であった。別室にて茶をとらせよう。その後試問を続けることとしよう」
その言葉に広間は緊張の糸が解けたようにざわざわと歓談が始まり、漣花たち四人は別室へと案内されていった。
漣花の視界の端に、桃胡が手を振るのが見え、それをたしなめる英達が見えた。
あの二人が歌を聴いてくれてよかった。
漣花はそれだけで十分だと思ったのだった。
四人が広間を出ていくと、太老師がガツンと床を杖で叩いた。
その音で、広間がびくりと静まる。
「静まれ、まだ試問の最中である!」
広間に、老師の声が響いた。
皇妃候補たる四人は小部屋に通された。
小部屋といえども四人それぞれに卓が用意され、それでもまだ悠々と往来できるほどの広さがあった。
宦官に案内され卓に着くと、一人の女官らしき老婆が心もとない足取りで、四人に蓋つきの茶器を置いていく。
大貴族の令嬢である麗岐や春玉、明凛もさすがに少し疲れたのか憮然とした表情で座っていた。
やっと休憩かと、漣花もほっと息をついた。
漣花に茶器を差し出してくれた老女官に声をかける。
「ありがとうございます」
老女官が意外そうに一瞬顔を上げたが、また恐縮したように顔を伏せていってしまった。
漣花がどうしたのだろうと思って女官の背中を見送っていると、春玉が口を開いた。
「…いやだこと。婢にまでへつらうだなんて」
「春玉様、田舎の方には当たり前のことなのではありません?わたくしたちとは暮らしが違いますもの」
応えるように明凛が言った。
「そうですわね。さっきの歌もなにかしらね、気品のかけらもなかったわ」
「水南の田舎には都で歌われる歌など伝わっていないのですわよ」
くすくすと、明らかな侮蔑を含んで春玉と明凛が漣花に聞こえるように話す。
正直、漣花もかちんときていたが、こんな娘たちに何を言っても無駄だと思ったし、実際のところ、さっきの歌は素人の歌で、麗岐はもとより、他の二人にも及ばないことも確かだったので黙っておいた。
気を取り直そうと、茶器のふたを開けると、お茶にしては珍しい液体が入っている。
器の底が見えないほど白く濁っており、傾けると若干とろりとしていた。
同じく蓋を開けた明凛が一口茶を含んで、苦い顔をした。
「なあに、この土臭いお茶!あの女官、淹れ間違ったにちがいないわ!」
「本当!不味いったら!あんな年寄りに給仕をさせるなんてどれだけ人手がないのかしらね」
麗岐も、一口二口飲んだものの途中でやめてしまっている。
漣花は熱いその不思議な茶の香りの中にわずかに甘い香りを感じて飲んでみた。
(これは……)
お茶を飲む漣花には構いもせず、春玉と明凛は席を立って麗岐に近づいた。
「麗岐様、さきほどのお歌、さすがは麗岐様でしたわ!」
「皆、聞きほれておりましたもの。お歌は麗岐様が一番ですわね」
麗岐とて、二人の言葉が世辞抜きにしても十分自分を評価するものだとわかっていた。
自画自賛と言われようと、自身の歌は客観的に聞いても抜きんでているのだから。
漣花の歌に涙する者もいたが、技術的にはなんら優れたものではない。
ただちょっと田舎の歌が珍しかっただけよ、と麗岐は納得していた。
「ありがとう。お二方のお歌も素晴らしかったわ」
余裕の表情で二人に微笑むと、二人はますます麗岐を讃えた。
「麗岐様のあのお歌、きっと陽都じゅうのうわさになりますわね」
「本当。直接聞くことができただなんて光栄ですわ」
二人とも、おそらくは後宮入りした後の自分の地位や身の処し方を考えているのであろう。
皇妃に当確視されている麗岐に少しでも取り入っておこうという算段なのかもしれなかった。
麗岐もそんな二人の思惑が透けて見えていたが、褒められること、讃えられることは嫌いではない。
麗岐は明らかにこの二人よりは容姿も教養も優れているのだから。
気になるのはあの漣花。
どうも得体が知れない。
でも第一の試問の正解はまぐれに決まっている。
皇妃になるのはこの私なのだ。
皇妃となって、国母となり、この紅華国で最も高貴な女性となり、父の期待に応える。
これだけが麗岐の生きる理由。
そうなるべく言い聞かされて育ってきたし、自分はいずれ皇妃になるのだと信じて疑っていなかった。
「皆さま、広間へお戻りください」
漣花がお茶を飲み終わった頃、宦官が迎えにやってきた。
次はおそらく最後の第三の試問。
四人はふたたびほんの少しの緊張をまとわせて広間へと向かった。
宦官に先導されて広間に一歩入ると、明らかに広間の雰囲気が変わっていた。
人が減ったわけでも、卓の配置が変わっていたわけでもない。
変わっているのは人々が漣花たちを見る視線だ。
見てはいけないものを見てしまったかのような、聞いてはいけないものを聞いてしまったかのようなそんな空気が流れている。
一様に皆、皇妃候補たちと目を合わさないようにしている、そんな違和感が広間に満ちていた。
なんとなく居心地の悪さを感じながらそれぞれの卓についた。
「さて。第二の試問じゃ」
「え…」
老師の言葉に、四人が四人とも驚いた。
第二の?
ではさきほどの歌は試問ではなかったと?
「あの、老師様、第2の試問はさきほどの歌であったのでは…」
春玉がおずおずと尋ねた。
漣花は歌の前の老師の言葉を頭の中で反芻した。
―ではまず歌を歌ってもらおうかの…
これが試問であるとは全く言っていなかった。
「某は『まず』歌を歌ってもらおうと言っただけであって、その歌を以って試問とするとは申しておらぬ」
「!」
だとしたら、老師はいったいなにを試問とするのか、と漣花は思った。
(それにしたって、少しやり方がずるいのでは…)
「では第2の試問である。さきほど別室にて飲んだものはなんであったか。答えよ」
唖然とする四人に老師はたたみかけるように質問した。
漣花を除く三人は明らかに狼狽した。
なにせ一口しか飲んでいない。
あれがなにかなど考えてもいなかった。
「春玉殿、いかがか」
「あの…じ、滋養によいお茶と思いいただきました。名前までは…浮かんでおりません…」
春玉はうろたえながらあてずっぽうに答えた。
老師がにっこりとその皺の刻まれた顔に笑みをのせる。
「ほお…一口のんで、年寄りの女官が淹れた不味い茶とおっしゃっていたのにそのように思われるか」
「え…」
どうして、さっきの春玉の言葉を知っているのかと疑問に思っているうちに老師は淡々と言葉を続ける。
「明凛殿はいかがか」
「…それはあの…わかりません」
「それはそうであろうな、土臭いと言って飲んではいないのじゃから」
「どうして…」
明凛の問いには答えずに、老師は麗岐を見る。
「麗岐殿、あなたはいかがか」
「…私は、なにか蓮根の煮たもののような気がしています。あまり飲みませんでしたのでわかりかねます」
「さもあらん。茶の味に嫌気がさして、他者を貶め、自分を讃える者の言に得意げになっておられたようじゃからな」
「な…!」
さすがの麗岐も、老師の言葉に頬に朱をのぼらせた。
「なぜ知っておるのかという顔じゃの。…これよ」
老師は壇上にある『何か』にかけられた布をさっと取り去った。
そこには円錐状の筒のようなものが、こちらへ大きく口を開けるように向いていた。
朝顔の花のようなその形は広間全体へと開くように置かれている。
老師はおもむろに、その筒の中へ向かって顔を近づけた。
「おおい、聞こえるかの」
「はい、よおく聞こえておりまするー」
老師の声に応えて、その筒からはっきりと声が伝わってきた。
その筒の後ろ側からはピンと糸が一本出ていて、広間のそとへ続いているようだった。
老師は漣花たちの方へ向き直ると説明を始めた。
「この糸の先はあなた方が茶を出されたあの部屋へつながっておるのよ。あの部屋に掛けてあった絵の裏に糸が貼ってある」
そう言われても明凛と春玉はなにがなにやらわからないようだった。
わかるのは、自分たちの話していたことが文字どおり筒抜けであったこと。
「音は、膜と膜の間を振動で伝わる。糸の振動がそれを伝え、部屋での言葉をここへ運んだ。そなたたちの言はここにいるすべての者が聞いた」
からくりが明かされ、自分たちの会話が広間の皆に聞かれていたとわかると、明凛はわっと泣き出し、その場から走り出た。
春玉も真っ赤になった顔を袖で覆い、そのあとを追った。
残されたのは麗岐と漣花である。
麗岐はありったけの自尊心でその場に立っていた。
この場から去ることの方が麗岐には恥を認めることになり、それは麗岐の矜持が許さなかった。
「さて、残るは漣花殿。答えはいかがかな」
漣花はきゅっとこぶしを握った。
まっすぐに老師を見つめ、口を開く。
「はい。お答えします。お答えしますが、もし私の答えが正解でしたら、そののち、一言申し上げる機会をいただいてよろしいでしょうか」
「…よろしい。まずは答えを」
この娘は何を言い出すのだと、いう雰囲気が広間に満ちたのが漣花にもわかった。
それでも一言言わねばおさまらなかった。
「答えは、葛葉茶です。土臭いのは葛の根から取った粉を溶かして、さらに葛の葉で淹れたお茶だからです。民の間では喉の炎症を予防し、咳を鎮める効果があり薬の代わりにも用います」
「それだけかな?」
「いえ、このお茶は口に苦く飲みにくいものですので、蜜を入れたり、干し柿を浸したりして甘味を加えて飲むのが一般的です。いただいたお茶にも、底に杏の干したものが入っておりました」
「…なるほど」
「歌を歌った私たちの喉をお気遣いくださってのお茶と理解いたしましたが、正解でしょうか」
「正解じゃな。言を許す」
すうっと呼吸を吸い直して、漣花は改めて老師に向き直った。
「ではお許しを得て申し上げます。試問の目的はともかく、試問の方法としては狡猾にすぎるかと思います。あえて申し上げれば卑怯です」
ざわっと、明らかに広間の空気が張り詰めた。
淡々と語る漣花に応じて老師が口を開く。
「ほう…。しかし試問の方法については某が陛下より一任されておる」
「なればこそ、老師がなさることとは思えない方法です」
漣花もここで引くわけにはいかなかった。
老師は漣花より背が低かったが、一段高い壇上に立っているので目の高さは漣花と同じだ。
老師の方も視線を逸らすことなく漣花に応える。
「より人の気をひく歌を歌わんとばかりを考え、影で他者の悪口を言い、年寄の女官を蔑んだ。人は油断した時にこそ真の姿を現す。某が確かめたかったのはそこじゃ」
「しかしながら、まるで盗み聞きのような手法には納得しかねます。本性を確かめたかったからといって、あのようにお二方を衆目の前で貶めてよい理由にはなりません」
「漣花どのはご自分がひどい言われようをしていたではないか」
「それは私の問題であって、彼女らへの裁きを老師に求めてはおりません。反論あらば、私自らで致します」
「では反論がなかったと?」
「私の歌は皆さまに比べれば少々趣も異なっておりましたし、人それぞれ感じ方も違いましょう。お茶に関しては足元のおぼつかない老婆が運んでくれました。私は年老いた媼がお茶を給仕てくれたことに素直に感謝いたしましたが、それを他者がどう思われようと私が持った感謝の意は変わりません」
「ほう…」
「ですので…はっきり申し上げれば」
「…」
「老師のなさったことは、おせっかいです」
広間が低くどよめいた。
真向から老師に対し、おせっかいなどと言い放つとは。
この漣花という娘はなんと不遜な、と誰もが思った。
このような試験において、心象はそれなりに響くものだというのに。
自らを窮地に追い詰めるような漣花の物言いに、聞いている者たちのほうが肝が冷えてくる。
相手は、国一番の学者であり、皇帝の信を得てこの皇妃試験を任された老師なのだ。
老師に意見することはつまり皇帝に意見することに等しいのではないのか。
漣花はそんな人々の思惑も意に介さず、まっすぐに老師に対峙している。
老師に意見したことに、漣花は悔いていなかった。
これで老師の漣花に対する心象が悪くなったのなら、国一番の学者とはいえ、狭量にすぎる。
そして本当にそんな老師を、皇妃試験の執行者と選んだ皇帝も、自分が敬い、仕えるに足る方とも思えない。
ならばここで失格して故郷に帰るとしても構わない、と思っていた。
自分は間違っていない。
漣花はひとかけらの揺らぎも持っていなかった。
迷いのないその瞳に、老師はふっと目を細めた。
「…なるほど一理ある。ならば漣花どのはこの第二の試問について、どうしたらよいと思われるか」
「それぞれ歌った歌も含め、歌からお茶に至るまで、全てを評価対象にしていただきたいと思います。私たちは全力で歌いましたし、広間の皆さまにも聞いていただきました。評価をいただいて当然かと思います」
「…よろしい。わかった。そのようにしよう。第三の試問はふたたび四人で挑んでもらえるよう考慮いたそう」
「ありがとうございます。発言をお許しいただきましたこと、感謝いたします」
漣花は深々と一礼した。
老師は宦官に命じて、明凛と春玉を呼びにやらせた。
漣花と老師のやりとりの一部始終を間近で見ていた麗岐は面白くなかった。
明らかに主役が漣花になってしまっている。
常に上位に立つのは私であったはずなのに。
麗岐はすっと漣花に近づくと、耳元でささやいた。
「…助けられたなどと思っておらぬ。そなたなどに」
漣花はあえて麗岐の顔を見ずに答えた。
「私も助けたつもりはありません」
静かな青い火花が二人の間に弾けた。
そんな瞬間だった。