壊れしもの
コンラートは、薬で眠らせた兄を、寝台の天蓋支柱に繋いだ。
目ざめた紅玉の瞳は、竜でなくコンラートだけを見つめていたし(睨んでいたとも言えるが)、白い耳は、竜の歌でなくコンラートの囁きだけを聞いていた(罵詈雑言でかき消されていたかもしれないが)
それはこの世の至宝を手中にした満足感を、コンラートに与えてくれた。
大魔法使いの称号を得た曾祖父と同様、たぐい稀なる聴き手である兄は、正真正銘、この世界になくてはならない、たからもの。
兄ならば、まだ知られぬ古竜の知識も得るだろう。太古の記憶を知る創世の古竜とすら出逢えるだろう。
竜たちを救い、延いては世界と人々を救う力を、兄は持っているのだから。
でもその天才も、今はコンラートだけのものだ。
閉じ込められた能力は、封印されたも同じ。
いつもひとりきりで森に消え、翼が生えたようにいなくなる兄自身ごと手の中におさめた。まるで仔猫のように、コンラートの思惑ひとつで、世界は貴重な聴き手を失う。
(兄上こそが、僕が握って生まれた贈りものだったんだ)
そして今、ようやく取り戻した。
「兄上。僕は今初めて、『生まれてきてよかった』と思えているかもしれません」
「お前なんか、森でくたばってりゃよかったんだ」
憎々しげに投げつけられる言葉まで、気分を高揚させてくれる。
兄は普段から勝手気ままに行方をくらまし、家族と過ごすこともない。使用人たちも寄せつけないから彼を捜しにくる者もない。ゆえに、この至福の時間を邪魔されることもない。
「兄上はまた夜中に帰ってきて、早朝に出かけたようですよ」などと言っておけば、誰も兄が監禁されてるなんて考えない。
コンラートが父から虐待されるようになって以来、使用人たちは彼に対しても腫れ物に触れるような態度になっている。
だから寝室に鍵をかけて執事に人払いを命じておけば、立ち入られる心配もない。
(改めて、おかしいよね、うちは)
いつものように父から「なぜ兄のようにできない」と詰られた夜。
鞭打たれ、じわじわと血の染み出す傷口に薬を塗りながら、コンラートは改めて考えた。
王都からは兄に「ぜひアカデミーにきてほしい」と何度も打診がきている。
優秀な聴き手を輩出するのは家門の誉れであるし、多額の謝礼金も出る。見栄っ張りの上に浪費家の父には、喉から手が出るほどありがたい話だろうに。
なのに父は、兄への幼稚な怒りと嫉妬から、飼い殺しにしている。
この家を出ればたからもの扱いされる人なのに、姿を消しても誰も心配しない。
もしも兄が森で死んでいても、しばらく気づかれないだろう。
血のついた衣服を着替え、傷に触らぬようよろめきながら寝室に戻ると、部屋の中は真っ白い羽根だらけになっていた。兄が怒りに任せて枕をいくつも引き裂いたらしい。
繋がれたままムスッとしている兄の顔を見ると、打たれた痛みも吹き飛んだ。
「ねえ、兄上。ドラコニア・アカデミーに入学したいですか?」
「……」
「兄上は集団生活に向かないと思うけれど。良家の子息が集まっているところなんか特に、合わないと思いますよ? ……ねえ、兄上」
「……」
最近は声も聴かせてくれなくなった。
沈黙が、最近よく降る雨の音を連れてくる。
閉じた世界に二人きり。
能力も竜も関係ない世界。
兄の横で丸くなって横たわれば、まるで二人、母の胎内に戻ったように思えた。
――だが。
そんなふうにコンラートが兄を独り占めできたのは、振り返ってみれば、たったの七日間だった。
兄にとっては、永遠に感じた七日間かもしれないけれど。
(まあ、永遠に続くなんて思わなかったけどね)
その日、みごとに破壊された寝室を見たとき、コンラートは肩を揺らして笑った。
怒り心頭に発した兄は、とうとう魔法で雷を起こすに至った。
皮肉なことにコンラートに対する怒りが、それまで扱えなかった雷魔法を――と言うより、扱う必要がないから出す機会もなかったのだろうが――雷を自在に落とすという荒っぽい魔法を、兄に体得させた。
拘束から解かれた兄は、自身が雷と化して荒れに荒れ、コンラートの寝室も勉強部屋も窓枠が吹っ飛ぶほど破壊し、雷で火災になる寸前に水魔法で消火するというマメさも発揮した。
当然コンラートの部屋以外も巻き込まれ、屋敷のあちらこちらが壊され焼かれ水浸しという、無残な光景ができあがった。
ただ、怪我の功名と言うべきか。
この暴れっぷりに『狂気の沙汰』と恐れおののいた両親は、一転、兄をアカデミーに入学させることに決めた。体のいい厄介払いだが、兄にとっては願ったり叶ったりだったろう。
コンラートが兄を閉じ込めたことが、結果的にアカデミーへと送り出す助けとなってしまった。
やることなすこと、望みと別の結果をもたらす。こうなるともう、苦笑いしか出てこない。
それから兄は、コンラートに一瞥もくれなくなった。
責めることも、罵ることすらしてくれない。
話しかけても、まるでそこにいないように無視される。
自業自得とわかってはいるが、無視されるのはひどくこたえた。
(結局、僕には贈りものなんてないということか)
雷雨の夜、黒い空に走る閃光を見つめながらコンラートは納得した。
最初から握っていなかったのだ、贈りものなんて。
素晴らしいものはすべて兄の手に詰め込まれて、自分の手はからっぽ。
なんなら『からっぽ』を握って生まれてきたのだろう。底の抜けた箱みたいに、夢も希望も入れた端から落下して、何も得られぬように。
そうでなければ、どうしてこれほど空虚なのだろう。
いくら努力しても望んでも報われず、痛みと傷ばかりが増えていく。
兄のように己の道を切り拓くこともできず、いっそ魔法で破壊し尽くすこともできず。いつだって間抜けな薄笑いを浮かべて、暗い穴の縁に立って、光を見上げるばかりで。
こんなにも無能で絶望的に嫌な人間だから、兄からも無視される。
こんなにも、からっぽ。
こんなにも、何も持っていない。
それならば――
深夜、またもどこかへ出かけていた兄が、雨に濡れて帰宅し、階段を上がってきたとき。
最上段でうずくまっていたコンラートは、立ち上がりざま、雨粒を払うことに気をとられていた兄を突き飛ばした。
そのときの兄の驚愕の表情を、コンラートは生涯忘れまい。
執事らが飛び起きてくるほど派手な音をたてて転がり落ちた兄は、命に関わる怪我こそ負わなかったものの、左目は負傷で視力を失った。
どうして、そんなことをしたのか。
コンラート自身、わからなかった。
★ ★ ★
兄がアカデミーへ出立した日も、冷たい雨が降っていた。
馬車に乗り込む寸前、振り返った兄は、ただひとり見送りに出ていたコンラートに歩み寄ってきた。
彼から視線を合わせてくれたのも、声をかけてくれたのも、監禁を破られたあの夜以来、初めてだった。
「俺がお前の部屋に行ったのは、あれが初めてじゃない」
一瞬、なんの話かと思ったが。
兄を閉じ込めた初日に『兄上が僕の部屋に来てくれたのは、これが初めてですね』と自分が言ったのだと、すぐ思い出した。
「お前が森で迷子になったあと、熱を出して寝込んだ夜に。生きてるか確認しに行った」
コンラートは息を呑んだ。
驚きのあまり、言葉が出てこない。
まさか本当に? この兄が、自分を心配してきてくれていた?
「だが、もう二度と会わない。弟とも思わない。親もいない。俺には今このときから、家族はいない。俺に弟はいないし、お前にも兄はいない」
隻眼となった紅玉は、すでに他人を見る者の目だった。
コンラートが言葉を返す隙も許さず、兄は馬車に乗り込み、オルデンブルク家に関わるすべてを捨てて去って行った。




