微笑むもの、と
「兄上がいなくなって、『心に穴があくとは、こういうことか』と実感しました。胸の中に真っ黒な虚ろがあって、それが日々の彩りも感触も、風の匂いすら吸い込むから、生きている実感がない。何を食べても味がしなくて、気づくとインクを飲んでいたこともありました。口から胸まで黒インクを垂らした僕を見て、使用人たちが腰を抜かしていましたっけ。今となっては笑い話です」
「砂粒ほども笑えない」
弟に背を向けてクロヴィスが廃神殿の外へ出ると、夜空は星で埋め尽くされていた。
過去を思い出していたせいか、それとも砂礫の降る建物の中にいたせいか。外は冷たい雨が降っていると思い込んでいたので、クロヴィスは一瞬、別世界に迷い込んだかと思った。
(らしくもねえ)
内心の動揺を、こぶしを握って押し込める。
コンラートが大祭司長であり、さらには呪術師となり果てていたという事実。そしてそれをまったく知らずにいたという自己嫌悪は、クロヴィスに大きな衝撃を与えていた。
だがラピスが泣いていたと把握した今、気持ちがメラメラと奮い立つ。
己の古傷も感傷も、目の前の弟すら、今はどうでもいい。
とにかくラピスだ。
自分は彼の師であり、保護者なのだから。
彼を守る。それが人生の最優先事項だ。
ラピスには、自分がしてほしかったこと、与えられなかったもの、すべて与えて守る。必ず守ってくれる人、安心して暮らせる日常、望むまま竜を追える自由も知識も、すべてを与えるのだ、あの子には。
「お待ちを、兄上」
ゆったりと追うように出てきたコンラートが、汚れた外套を払いながら微笑んだ。無視して去ろうとしたのだが。
「あの子の元へ行くのですか。あの子のために、王都の民すべての命を捨てると?」
「……はあ?」
苛立ちを隠さずすごむと、さらに癇に障る笑みが返された。
「あの子がなぜ、大切な『竜の書』を焼いたと? 王都の民の命がかかっているからですよ」
「……呪法か」
「当然です。竜王の力とはすさまじいものですね。長い長い年月をかけて蓄積された呪詛で変わり果てた姿になろうと、『ひと息に人と世界を壊せ』という命令は、まだ聞いてくれそうもありません。ですが王都を火の海にするくらいのことはしてくれそうですよ」
あっさりと、竜王を呪詛することに成功したのだと言っている。
今さらこの弟の言うことに、いちいち疑義をただしたりしない。
長き歳月と執念と入念な準備により呪法を成したのだということはすでにわかっているし、王都云々の話も真実なのだろう。
「……だったら話は簡単だ」
「はい?」
「王都の民なんぞどうでもいい。じゃあな」
「兄上!? た、たったひとりの弟子のために、王都九百万人の民の命がどうなってもいいと言うのですか!?」
「てめえが言うな」
今はもう、すっかり老いた弟。なのに幼児を相手にしているような気分になり、クロヴィスは大きなため息をこぼした。
「どうせその性格の悪さと呪法で、世界中に人質を用意できるんだろう。なら、てめえの言いなりになっても切りがねえ。俺を思い通りに動かしたきゃラピスを人質にとるしかねえが、できなかったんだろ? ジークはああ見えて優秀なカメム……護衛だからな」
「……実の家族にすら心をひらかなかったあなたが、赤の他人を信頼するようになるとは、昔は想像すらできませんでした。でも買いかぶりでしょう。第三騎士団団長だけなら、どうとでもできました。兄上の加護魔法と、予想以上にため込まれていたあの子の竜氣に阻まれさえしなければ」
弟の声に初めて苛立ちが滲んだが、逆にクロヴィスの気分は浮き立った。
愛弟子の素晴らしさは充分承知しているけれど、他者から認められるとまた格別に気分が上がる。
「まあな。確かにジークなんかより、うちの弟子がすごい。巡礼を始めた途端、古竜が次々会いにくるなんて普通はない。ラピスを応援するために出てきてくれたようなもんだ。あの極上の竜氣がなけりゃ、同行の王子たちもお前の呪詛にやられてたろうな」
嫌そうに顔を歪めた弟が、「そんなニヤついた顔を見るのも初めてです」と呟いた。
「弟子のことはともかく。何故ほかの者たちを巻き込んだのです? アシュクロフトが優秀なのは認めますし、現在の騎士たちの中では一番の実力者でしょう。が、兄上が参加していれば護衛など必要なかった。僕は今度こそ兄上が巡礼に参加されることを期待していたのですよ」
「……まさか俺を引っ張り出すために、世界中で災害を起こしたわけじゃねえだろうな」
「もちろん、それもあります。当然でしょう」
「当然じゃねえよ、クソが」
まったくもって滅茶苦茶な相手に腹立ちながらも、これほど弟と長々話すのは初めてではないかと気づく。
――いや、昔は弟に限らず、誰かと深く関わることを避けていたし、必要最低限の会話しかしなかった。
竜がいれば、それでよかった。
心通う相手は竜だけ。きっと一生そうなのだろうと思っていた。
ラピスと出会うまでは。
夜の森で、初めてラピスを見つけたときのことを思い出す。
竜の書を知らず、「おばけ本!?」と大騒ぎしていた子供。しかも幼竜を連れて。
思い出すだけで和んでにやけてしまう、『ラピス魔法』。
今の今まで、歪み切った弟に腹を立てていたのに。
「本当に、うちの弟子はすごい」
「なんですかいきなり。脈絡のない弟子自慢はやめてください。僕の中の兄上像がどんどん破壊されていく」
「瓦解しろ、そんなもの」
大祭司長としての習慣なのか、コンラートは祈るように天を仰いだ。
話しているあいだにもますます、一刻も早くラピスのもとへ駆けつけたくなったが、コンラートはしつこく話しかけてくる。
「もし弟子の成長を促すため巡礼に出したのなら、護衛はあなたがいれば充分のはず。なのになぜ加護魔法というまどろっこしい手段を用いてまで、他人に任せたのです? 昔のあなたなら、絶対にそんなことはしなかった。なぜです」
弟の言葉に、確かにそうだと内心うなずいた。
ラピスの成長のためでもあるし、彼ならできると信じたからでもある。古竜の歌を聴くことは弟子に任せて、自分は呪術師を追うつもりだったからでもある。
理由を挙げることは簡単だが、理屈で説明できない愛情もあるのだ。
知らず笑っていたらしい。
弟が驚いたように目を瞠った。
「……その表情」
「んあ?」
「あのときと一緒です。僕が初めて、竜の歌を聴く兄上を見たとき。あのときもあなたは、そんなふうに幸せそうに微笑っていました」
「知らんがな。けどラピんこと一緒にいりゃ、そりゃ微笑うさ」
「……え?」
気恥ずかしくなるほど素直で、小さな躰いっぱいに優しさを湛える弟子。
満天の星空のように、快晴の日の木漏れ日のように、ずっと見ていたくなるほどキラキラした笑顔で、皆の心を心地よく照らす。
あまりにたやすく人を信じるし、警戒心が薄すぎて心配になることも多々あるけれど。加えて、かなりそそっかしくて危なっかしいけれど。
ラピスを通して見る世界は、やわらかくて明るくて、どこまでも優しい。
ときには誰かを信じて、託してみようかなどとも思ってしまう。
自慢の弟子を、自分の保護下に閉じ込めるのでなく、もっと大勢の人に知ってもらいたいとも。
あの無邪気でおおらかで、まあるい心だからこそ、見える世界がきっとあるから。
「……なんにせよ、ラピスを呪詛したお前に話すことはない」
「あの子が憎くて呪詛したわけではありませんよ。兄上が弟子になどするから悪いのです」
「黙れクソ煮込み野郎。てめえといると、ますますラピんこが尊く思えるぜ」
あの愛らしい笑顔が恋しい。
早く会いたいと心が逸るせいか、可愛い声まで聞こえる気がする。
「おししょーさまーっ!」
幻聴にしては、はっきりと。
思わず、同じように目を丸くしたコンラートと顔を見合わせ、同時に夜空を見上げた。
天を埋め尽くすほどの星の中――最初に見えたのは、星空を黒く切り取る影。
遠目にも巨きな躰に、巨大な翼。
波のようにはためかせた翼がバサッバサッと音を立て、ぐんぐんこちらに近づいてくる。
「飛……竜……!?」
呆然と弟が呟いたが、クロヴィスの驚愕はそれどころではない。信じ難い思いで凝視していると――
「お師匠様あぁぁ!」
あっという間に頭上に迫った飛竜を、星々と弓張月が照らす。
夜闇の中でも瞬くように光る、水色の鱗の飛竜が旋回すると、その首辺りに、ちょこんと小さな生きものがとまって、泣き笑いで両手を振っていた。
「わあぁぁん、会いたかったです、お師匠様ーっ!」




