師匠の提案
結局、ジークムントとディードはクロヴィス宅に一泊し、翌朝、恐縮しつつ帰って行った。
実はジークムントの怪我を心配したラピスが、「今日は泊まっていかれたほうがいいのでは」と勧め、クロヴィスが「別に死ぬわけじゃなし、さっさと帰ったらいんじゃね?」と突き放しているあいだに、短い秋の日がどんどん傾き、おまけに飛竜が雨雲を連れてやって来て、土砂降りになった。
そうなるとさすがのクロヴィスも、「……泊まりたきゃ勝手に泊まれ」と肩を落とすしかなかったのだが。
客人たちは、クロヴィスの料理の美味さと、怪我がひと晩で驚くほど良くなったこと、おまけにぐっすりよく眠れて疲れもすっかり取れたことなどに、しきりに感謝していた。
そして帰り際、表情を改めたジークムントが、クロヴィスに頭を下げるのをラピスは見ていた。
「集歌の巡礼にあたり陛下は、『アカデミー所属外であろうと、実力のある聴き手を歓迎する』と仰いました。どうか私に、あなたの護衛の栄誉をお与えください……どちらの方にせよ……」
そこでジークムントは、「そのときには」と、ちらりとラピスに視線を流してきた。
「私、シュタイツベルク第三騎士団団長ジークムント・アシュクロフトが……命を懸けて、お守りすることを誓います」
地に右膝をついて誓いを立てたジークムントに、ディードも倣う。
しかし。
「なげえ名前」
弟子と同じ感想を持ったらしきクロヴィスに追い立てられて、返事を得ぬまま彼らは帰路についたのだった。
☆ ☆ ☆
その夜は、空の引っ掻き傷のような三日月で。
ラピスはクロヴィスと並んで軒下のベンチに座り、耳に心地よい声を聴きながら、買ってもらった金平糖みたいな星々を見上げていた。
北天の標となる天竜星。
全天を使って描かれた星座と、それにまつわる伝説。
星の読み方、方角の調べ方。
クロヴィスは満天の星空を指差しながら、これまで習ったこともそうでないことも、ラピスの記憶にしみ渡るのを確認するように、丁寧に教えてくれた。
この季節にしてはあたたかな夜だった。
それでも吐く息は白く、ほわほわと浮かんでは星空に溶けていく。
ラピスは毛布でくるまれていたが、頬が冷たくなってきたので、ぴとっと師の腕に顔をくっつけた。紅玉の瞳に見おろされて、「えへへ」と笑う。
クロヴィスの端整な顔にも笑みが浮かび、ラピスに絡みつかれていないほうの手で頭をくしゃくしゃ撫でてくれてから、「冷え切る前に、中に入るか」と促された。
本当はまだ一緒に空を見ていたかったけれど、素直にうなずく。
「――あの二人が俺を探しに来た理由は、もう知っているな?」
暖炉の前でホットミルクの入ったカップを手渡され、ラピスは首肯した。
「世界が一大事なのでお師匠様の力が必要だと、ディードから聞きました」
ラグの上に座ったラピスと並んで、クロヴィスも腰を下ろす。
白皙が炎の色に照らされて、ゆらゆらと陰影が踊るのを見つめながら、ラピスは師の言葉を待った。
やがて林檎酒を飲み干したクロヴィスが、静かに話し始めた。
「『アカデミー派閥』という言葉を、聞いたことはあるか?」
「いえ、ありません」
「そうか……。俺が王都にいた頃にはもう、『魔法使いはドラコニア・アカデミーに所属するのが当たり前』という認識が成立していた。そいつらをまとめて『アカデミー派閥』や『アカデミー派』と言う。俺が王都を去ったのは、そのアカデミー派で権力を握る貴族連中や一部の神殿関係者たち、そして当時の国王と、絶望的に意見が合わなかったからだ」
長い腕が器用に火バサミを操り、薪をくべる。
炎を見つめる綺麗な横顔は、遠い昔を見ているようだ。
「俺は地位や名誉や金儲けより、竜の歌を聴いていたかった。歌を解くという才能に恵まれたからには、そうでなければいけないと思った。だって竜はずっと警告し続けてくれていたんだからな。『いずれ竜の力は欠ける、対処法を探せ』と。なのに平和ボケした連中は、自分たちの代はまだ大丈夫だと思い込んで、ツケを先送りしようとしてばかりだった。――だが竜は、もうひとつ、大きな警告を歌っていた」
「大きな警告……?」
「そう。呪法について。つまり呪いだ」
「呪い!?」
いきなり飛び出した恐ろしい言葉にラピスが驚くと、クロヴィスは小さく笑って、また頭を撫でてくれた。
「そんなに驚くことじゃない。いつの時代も、そういうものはあるのさ。明るく善良に生きることを願う者もいれば、暗く破壊的な行動に走る者もいる。同じく竜に感謝する者もいれば、否定する者もいる」
「竜を否定」
「ああ、そうだ。そして否定する者たちの中には、竜を呪詛するという極端な行動に出る輩もいてな。大図書館の『竜の本』には、呪詛や呪具の記録も残っている。一般には閲覧禁止だが、当時、俺が見つけた呪具も保管されてるはずだ」
「呪詛……」
ラピスはにわかに鼓動が速まるのを感じた。
なぜだろう。恐ろしいという理由とは別に、何かが心に引っかかる。何かがちくちくと胸の奥を突いてくる。
「呪われた竜は、どうなっちゃうのですか?」
「どうもしない、通常であれば。世界を守護せし竜王や古竜たちは、万全ならば、呪詛なんかにビクともしない。だがどれほど偉大な存在だって、途方もない時間をずっと陰日向に人と世界とを守り続けていれば、いつかは綻びも出る。力が欠けるときもくる」
「そうですよね! 創世の頃からずーっとですもんね!」
「そうだな。そもそも竜は、星の世界の生きものなのだから。こちらに存在するということは、それだけで途轍もない生命力が必要なんだ。逆にラピんこが空で生きろと言われても、無理だろう?」
ラピスは「はい」とうなずきながら、クロヴィスの前に移動した。
広い胸に背中をあずけて寄りかかると、ようやく、なぜかしらざわめいていた気持ちが落ち着いてくる。
ラピスの小さな動揺を察してか、長い腕がラピスをつつんで、揺りかごのようにゆったりと揺らしてくれた。
「とにかく竜からは、『欠ける力』と合わせて『呪法』についても警告されていたんだ。だが『竜の本』には、呪法に対抗しようとして敗れ、殺された者たちも山ほど記録されている。当時の王やアカデミー派は、そのことにビビった」
「山ほど! ごめんなさいお師匠様。それは僕も怖いです」
「ラピんこが怖がるのは問題ないさ。だが民を守る立場だからこそ特権を得ている者たちが、『これまでだって竜たちは、呪いなんぞ跳ね返してきた。人の呪法なんて古竜たちには痛くもかゆくもない。出しゃばって死人が出るだけ無駄だ』などと言って問題を先送りすることしか考えないのでは、話にならん」
当時を思い出しているためか、クロヴィスの表情が険しくなった。
「結局奴らは、あれこれ理屈をつけて、呪法については静観すると決め込んでいた。だから『旨い汁ばっか吸ってねえで、てめえらの私財を擲ってでも、まともな聴き手を育てて解決法を探しやがれ』とガンガン訴えたら」
「う、訴えたら?」
「いろいろあって、しまいには反逆者だの不敬罪だのと糾弾された。簡単に言えばそういう理由で、俺は王都を去った。ほとほと嫌気がさして、あいつらとは二度と関わらない、死ぬまでひとりで自由に、竜とだけ向き合うと決めてな。……だが」
クロヴィスの顎が、ラピスの頭に乗っかる。
「竜が、お前との縁をつないでくれた。俺にはまだ、向き合うべき相手がいるとでもいうように。まさか弟子を持つなんて……想像すらしなかったよ」
「僕、竜に大大大感謝です!」
上半身をひねって振り返り、こぶしを振り振り言うと。
「……俺もだよ」
困ったような、照れ隠しのような笑顔。
ラピスはあまりに嬉しくてへらへら笑ってしまって、顔が戻らなくなった。
――しかし。
そんなラピスをじっと見つめ返していたクロヴィスが……
「――ドラコニア・アカデミーに、行ってみたいか?」
などと言い出したので、笑いが引っ込んだ。
「ほえ?」
「今回の『集歌令』には、参加者の登録が義務づけられている。登録会場はドラコニア・アカデミーだ。登録日も決まっているから、当日は参加者が一堂に会すことになる。参加者に競争意識を生み出すための演出なんだろうな。実に馬鹿らしい、あいつららしい発想だ」
「……へあ」
「なんだその返事」
苦笑した師の大きな手に、今夜何度目か、頭を撫でられた。
「――よくよく考えてみても、俺はやっぱり、あそこに戻る気にはならない。偉そうに集歌令なんぞ出されなくても、歌ならいつだって探しまくっとるし」
それはラピスも同感である。
竜の歌は参加登録などしなくても聴けるし、競う必要もない。
集歌の巡礼というものがアカデミー主導で行われるならば、それなりの手続きや制限は仕方ないのかもしれないが……。
クロヴィスは「けどな」と話を続けた。
「世界が変転の危機を迎えているこの時期に、竜がお前と引き合わせてくれた意味。それを考えずにはいられない。お前は眩しいほどの可能性を秘めているから」
「僕が……ですか?」
「そうだよ。未だ自覚はないようだが。……何を見て、何を感じて、何を選択するか。それはラピス、お前の自由だ。だからもしも望むなら――俺の代わりに、お前が挑戦してみるか? 竜と世界を救うための、集歌の巡礼に」




