師匠の教え でも師匠もちょっとわからないこと
弟子生活が始まってから、ラピスは毎日が楽しくて仕方ない。
夜は「今日も楽しくて嬉しかった!」と感謝いっぱいで眠りに落ちるし、朝がくるのが待ち遠しすぎて、夢の中で先に起きたりしている。
中でも強く幸せを感じるのが、クロヴィスと共に竜と遭遇したときだ。
クロヴィスと一緒に歌を解けるのは、最高に楽しい。
竜という、強大で神秘的な存在を目にするだけでも心ときめくのに、歌を解けば、彼らの個性豊かで奥深い知識に触れることもできる。
クロヴィスと一緒なら、その心震える感動を自分の中だけにとどめることなく共有できる。そんなのは母がいたとき以来のことだ。だからラピスは、本当に本当に毎日胸を弾ませている。
ただ、気になることもあった。
「お師匠様。僕、ブルフェルト街にいたときから思っていたのですけど」
パンの焼き上がりを待っていたとき、ふと思い出して尋ねてみた。
「うん?」
「母様がいた頃は、たまには古竜に会えたんです。古竜はすっっごく大きいからわかりますよね。でも今は、若い竜ばかりです」
クロヴィスが、赤い隻眼を瞠った。
驚いたように――いや、何かを確信したように。
それが優しい微笑みに変わって、「よく気づいたな」と大きな手に頭を撫でられたところで、パンが焼き上がった。
「焼きたてパンを食いながら勉強すると、どうなるかの実験をするか?」
「大賛成ですっ!」
甘く香ばしい匂いが満ちて、古竜の件が吹っ飛んでしまった。
クロヴィスはパン焼きに限らず、料理全般すごく美味しく作るので、ラピスはちょっぴり太ったような気もしている。
今も目の前にずらりと並んだ、大好きなチーズと林檎のふわふわパン。食欲を狙い撃ちする幸せな香りだ。
「はわ~……幸せのホカホカ」
「なに言ってんだ」
クロヴィスは笑いながら葡萄酒を器に注ぎ、ラピスがミルクをお供にハフハフと口の中でパンの熱を逃がす横で、炒った胡桃を皿に広げ始めた。
「ラピんこは『竜の書』について知らなかったが、王都の竜識学大図書館にある『竜の本』については知ってるんだな?」
「はい。それは星殿のお祈りのとき、祭司様が何度もお話しされてたので……ふおぉ、ありがとうございますっ」
メープルシロップをからめた胡桃をパンにのせてもらえた。そうするとまた違う美味しさになることはすでに学んでいるので、お礼と同時にかぶりつく。
「おいひぃでふ~!」
「よかったな。ふむ。『竜の本に歌が記録されている』ことについてはわかる、と」
そう。ラピスは母の意思により、魔法に関する知識から遠ざけられてはいたが、王都にある『竜識学大図書館』の『竜の本』については、創生竜たちを信奉する星殿の礼拝に通う習慣のある者なら、誰でも教わることだった。
祭司曰く……
――この世界は、竜王たちの歌によって創られました。
海も山も川も森も、竜の歌によって出現したのです。
それら偉大なる創世の古竜たちの歌は、『創世の竜の書』という特別な本に記録され、竜識学大図書館に保管されています。ただし一般の者は閲覧できません――
とのこと。
ラピスが習った内容を伝えると、クロヴィスが補足してくれた。
「聴き手個人が所有する『竜の書』と区別するために、大図書館にある竜の書は『竜の本』と呼ばれることも多いんだ。『創世の竜の書』はすごくぶ厚い本で、百冊以上にのぼる」
「そんなにあるのですか! お師匠様は全部読んだのですか?」
「暇だったからな」
「すごいでふ~!」
「ほら、落ち着いて食え」
クロヴィスは「大図書館の『竜の本』は、大きく分けて二種類ある」と、ラピスのミルク入りカップを指差した。
「『創世の竜の書』のように、機密内容が含まれていたり、厳重な保管が必要だったりで、一般人はまず閲覧できない本と」
次は自分の葡萄酒入りのカップを示す。
「一般に開放された知識や情報が掲載されている『竜の本』。こちらは何万冊とある……昔より増えてるだろうな」
小さな情報、深い知識、重大な警告等々。
竜の歌――すなわち竜から得られた情報が記された『竜の本』を、国の共有財産として保全・管理しているのが、竜識学大図書館なのだ。それらはアカデミーの管轄下にある。
そこまで話が進んだとき、クロヴィスは「そういえば」と立ち上がり、棚に置かれた大鍋の蓋を開けると、その中から分厚い本を取り出した。
黒革に赤と白銀の箔押し模様が美しい、とても重そうな本だ。
「これが、俺個人の『竜の書』なんだけど」
「え。えええっ! お、おおおお師匠様ってば! そのいかにもすごそうな本を、お鍋なんかにしまってたのですかっ!?」
間違って本が入った鍋を煮込み料理などに使っていたら大変なことになっていたと想像して焦るラピスに、クロヴィスは平然とうなずいた。
「ああ、料理の最中に読みたくなって、その流れで」
「その流れで! ひょえぇ」
「そういや教えたっけ? 自分の竜の書であれば、大きさを変えられるぞ」
そう話す最中にも、ラピスの頭より大きな黒革の本が目の前で縮み出した。
みるみるクロヴィスの片手にのるくらいまで小さくなったので、ラピスの頬は焼きたてパンのように熱くなった。
「うわぁ……すごい、すごいーっ! 魔法ですか、これが魔法ですかっ!」
「魔法なのは間違いないけど、これは竜から書を授けられた聴き手なら誰でもできることだから。自分の竜の書を持ってきて、やってみろ」
ラピスはあわてて手を洗い、居間の机から自分の水色の表紙の『竜の書』を抱えてきた。
今は両手で胸に抱えているその本に向かって、クロヴィスに言われた通り、小さくなれ、と念じてみる。
と、それが当たり前のように、両の手のひらに納まる大きさになった。
「ほわあ……!」
感動のあまり言葉を失ったままクロヴィスを見ると、「目キラッキラしてるぞ」と笑われた。
「俺も初めて大きさを変えたときは興奮したな。何十年ぶりかで思い出したわ」
「どのくらい変えられるんでしょう。おたまじゃくしくらいになるかなぁ」
やってみたが、片手からはみ出るくらいの大きさが精いっぱいだ。
だがクロヴィスは自分の『竜の書』を、おたまじゃくし大から机ほどの大きさまで変えて見せてくれて、ラピスは拍手喝采を送った。
「持ち主の魔法の熟練度により、限界は違うが。小さすぎても大きすぎても不便だし、携帯するとき便利な機能、くらいにおぼえとけ。で、だ」
クロヴィスが図鑑くらいの大きさに戻した『竜の書』をひらいて見せてくれる。それはまだ白紙も多いラピスの『竜の書』と違い、びっしりと文字で埋まっていた。
クロヴィスがこれまでの人生で聴き、解いた、膨大な竜の歌が記された本――であることは、ラピスにももうわかるのだが……
クロヴィスの本の頁は、黒い文字の中に頻繁に、金色に浮かび上がる文字も混じっている。紙の上で小さな星が瞬いているみたいで美しい。
師の白い指が、その金文字をなぞった。
「たとえばラピんこが、ある古竜の歌を解いたとして。それが大図書館の『竜の本』に未掲載の、貴重な知識だったとする。するとその知識を最初に得た証として、自分の『竜の書』にはこうして、金色の文字で記録されるんだ」
「じゃあ、お師匠様の『竜の書』にはいっぱい金の文字があるから、それだけたくさん、貴重な歌を最初に解いたってことですね? すごいです、さすが大魔法使い様ですー!」
「確かに俺はすごいが、お前の『竜の書』もいずれこうなるさ。話を戻すぞ。新しい知識を得て、解いた本人が了承すれば、大図書館の『竜の本』にも、その知識が自動的に浮かび上がる」
「ふおお」
「了承するってのはつまり、アカデミー及び大神殿の担当者と、『自分が解いた貴重な知識を公共の財産とします』という契約をするってことだ。そうすると大神殿の『竜の本』にも新たな知識が共有される。知識を寄贈した聴き手の名も記録されるし、貴重な歌には莫大な報奨金も出る。だから知識を出し渋る聴き手はまずいない。――ま、俺を除けば、だけど」
「えっ?」
何か大変なことを聞いた気がしたが、すぐに話題が変わった。
「それにしてもラピんこは、どうして竜の書を持ってなかったんだろうなぁ」
そうだった。
すっかり忘れていたが、『大抵は、初めて歌を解いたときに、相手の竜から授かる』と教わっていたのだ。
だがラピスは昔から歌を解いていたのに、幼竜から授かるまで、書の存在すら知らなかった。
「それから魔法な。基本的には、竜の歌をたくさん解くほど、さまざまな魔法が使えるようになる。竜氣が身の内に蓄積されるためだ。だからラピんこならもう、なんらかの魔法を使えるはずだぞ」
ラピスはきょとんと小首をかしげた。
「でも……つい最近まで、魔法使いは遠い世界の人と思ってたくらいの僕ですよ? 炎を噴いたこともありませんし」
「炎は俺も噴かねえわ。たぶん、ラピんこの母御の教えが『抑制の暗示』になってるんじゃないかと思うんだ。その辺を踏まえて訓練してみよう」
「は、はあ……」
ぽかんとひらいた口に、新たなパンが押し込まれる。
反射的にもぐもぐ食べるラピスを見ながら、「自信を持て」とクロヴィスは微笑んだ。
「持って生まれた才能ってのは、それ自体がきっと、そいつを助けるための補助魔法なんだ」




