60.消えたピアノ
(消えたピアノ)
愛実たちが家に戻ってから、愛実の様子がおかしくなった。
「アミ、どうしたのよ……?」
麗子は練習室から出ない愛実を、心配して見にやって来た。
「ちょっとね……」
愛実は、元気なく答える。
麗子も、愛実の辛い心は、わかっているつもりだったが、でも少し変だ。
「アミ、何、弾いてんの……?」
そのピアノのぎこちなさに、心臓が止まりそうな麗子だった。
「昔、弾いたでしょう……、童謡、唱歌かな……」
死んだような愛実の目と、表情のない顔……
「そうっ!……、アミ、あんた、変よ! いつもと違う……」
麗子は、焦る気持ちを抑えながら、愛実の戸惑いが胸に伝わってくる。
「アミ、どうしちゃたのよ……?」
麗子は、全身に鳥肌が走るのを覚えた。
「弾けなくなちゃった……」
乾いた愛実の笑顔が、麗子の心を刺す。
「どうして……?」
苦しい、愛実の表情を見れば、それは分かること……
「わからない! 頭の中に音が浮かんでこないのよ……」
「アミっ!」
麗子は絶句して、愛実を見た。
「不思議ね。前は、あんなに音楽が鳴り響いていたのに、今は何も聞こえないの……」
「アミ、いろいろあったから、疲れているのよ。そのうち戻ってくるわよ……」
慰めの言葉しか出てこない、麗子自身の至らなさに、わが身を恨んだ。
「そうねっ……」と言ったものの、時間がたてば戻ってくるとは思えなかった。
「私も、弾かせて―?」
麗子は、もう一つ椅子を持ってきて、幼い頃やっていたように、二人で並んでピアノを弾いた。
しかし、その後も愛実の心は元には戻らなかった。
音が、戻ってこない。歌が聞こえない。頭の中が真っ白だった。
しかし愛実は、ぎこちないピアノを一生懸命に弾き続けた。
ピアノを習い始めた時に戻ったつもりで、一からやり直してみた。
残りの夏休みの間、愛実は家から一歩も出ず、文字通り缶詰状態でピアノを弾き続けた。
その甲斐もあって楽譜を追うだけのピアノなら、なんとか弾けるようになるまでに戻ってきた。
しかし愛実は、それでは満足できなかった。
前のようにピアノとお話しがしたい。ピアノで歌うように弾きたい。
愛実は弾けなくなって始めてピアノと自分とが、切っても切れない存在であったことに気がついた。
麗子もたびたび愛実の家に訪れるが、愛実の真剣にピアノと取り組んでいる姿を見ると、そばには近づけず、黙って家に戻るしかなかった。
二学期が始まり、愛実は、やはり学校には出てこなかった。
麗子は成すすべがなく、せめて勉強が遅れないようにと、授業のノートをまとめて、愛実に見せることしかできないと思っていた。
そして、正美も愛実のことを心配していた。
「アミ、まだピアノ弾けないの?」
「こればっかりは、アミの心の問題だから……」
「でも、受験生でしょう?」
正美は、麗子も愛実も、この大事な時に受験以外で頭を悩ませていることが信じられなかった。
今、一番大切なことは、受験勉強のはずだった。
この二人には、そんな心配など微塵もなかった。
「そうね……、勉強もしないとね……」
麗子が正美の心配をよそに、力なく呟く。
「当たり前じゃない、受験生よ!」
「でも、アミが、もしこのままピアノが弾けなくなったら、その方がもっと大変っ!」
麗子は、真剣な眼差しで正美を睨んだ。
正美は、普通でない二人にあきれながら、それ以上なにも言えなかった。
クラスの中では、中学生活最後の運動会、合唱コンクールの話し合いが進められていた。
そして、九月は瞬く間に過ぎようとしていた頃、正美が教室に飛びこんできた。
「レイっ! アミが体育館でピアノを弾いているわよ!」と息を弾ませて麗子に叫んだ。
「そんなこと、ないわよ……」
相変わらず、麗子は机から離れず、愛実に見せるノートをせっせとまとめていた。
「本当よ! 放送器具を体育館に取りに行ったら、ピアノを弾いているのよ!」
正美は麗子の所まできて、腕を引っ張った。
「じゃ―あ、なんでここにこないのよー、別の人よ!」
麗子は、正美にはお構いなしに、ノートをまとめ続けた。
「間違いないって……」
更に正美は麗子の腕を引っ張り、椅子から立たせた。
「もーおー、正美っ、放送部の手伝い、させようと思っているでしょう?」
麗子は立ったまま、ノートを片付けながら言った。
「違うって!」
「ま―いいわ、少しぐらいなら、手伝ってあげるわよ!」
「何でもいいから、早く来てちょうだい!」
正美は、麗子の手を取って、体育館に向かった。




