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1.壁に掛けられている写真

(壁に掛けられている写真)


 愛実の家は古い黒の板塀と山茶花の垣根に囲まれた広い敷地の中にあった。

 昔はさぞかし立派だった門構えも、今は朽ち果ててしまい格子戸も屋根もなく、ただの太い柱だけが今も二本、誇らしげに立っていた。

 この門をくぐると、山茶花の植え込みがゆるやかに曲がりながら玄関まで続いている。

 その行く道には枇杷の木や栗、欅、梅、つつじなどの高木が、あまり手入れもされずに茂っていた。

 そして母屋は、やはり古く純日本風のたたずまいで、当時に比べればかなり手直ししているものの、表の壁板などは京都の町屋のようなおもむきがあった。

「おはようございま―す」と元気な声あげて入って来たのは、愛実の親友の麗子だ。

 麗子の家は、愛実の家のすぐ右側のお隣さんだ。

 彼女が愛実の家に上がる時は、いつも玄関を使わない。

 玄関に入る少し手前に庭へ通じる垣根の切れ目があり、そこから庭を横切って、南向きの長い縁側の窓から上がる。

「おはようございます。アミ、起きています?」

 麗子は縁側のちょうど真ん中の窓をあけて、廊下の向こうの居間で新聞を広げて見ていた愛実の祖父、栄二郎に挨拶をした。

「おはよう、麗子ちゃん。セーラー服似合うね―」

 栄二郎は目を細めながらご満悦で麗子を見ていた。

「おじ様、昨日もアミと見せに来たばかりじゃない」

「そんなことはないよ。女の子は一日一日と美しくなるからね―」

「ありがとうございます。おせいじでも嬉しいわ。それより、アミは……?」

 栄二郎は、また新聞に目をやりながら、

「起きているよ。昨日から寝てないみたいだから……」

「またですか。今日から学校が始まるというのに、学校、行くんでしょうね?」

 麗子は困った顔で、祖父を責めた。

 栄二郎は少し顔を麗子に向けながら……

「そりゃ―、行くだろう―。セーラー服を着て、わしらに見せて、はしゃいでいたからね―」

 栄二郎は、その時のようすを思いだしたように微笑んで見せた。

「でもアミのばあい、セーラー服が好きと、学校に行くのとは別問題だから……」

 麗子は、そう言いながら踏み石の上に靴を揃えて廊下に上がった。

「それより、おじ様。ずいぶん、のんびりしているようですけど、入学式には行かないんですか?」

 栄二郎は驚いたように麗子に聞き返した。

「麗子ちゃん。入学式というのは親子同伴なのかね。アミは何もいわなかったが―」

「それはですねー。親子同伴とは決められてないですけど、参列は自由で、案内のプリントに書いてありませんでした?」

「いや、見てないけど……」

 麗子は、祖父の無関心さに驚きながらも……

(こう言う、お父さんもいいな―、この場合は祖父だけど)と思っていた。

 麗子の家では、かわいい娘とあって、父親母親そろって、めかし込んで出かけてくる。

 そのうえビデオカメラまでかついでくると言う騒ぎだから、子供としては恥ずかしい。

 それでいて何かほっとする気持ちは、親に愛されているという確認なのかも知れない。

 麗子は、このさい愛実だけに気楽な思いをさせてなるものかと……

「普通はどこの親も行きますよ。私の親も行きますから。それに誰にも見てもらえないというのも子供としては寂しいものですよ……」と心にもないことを言った。

 栄二郎は新聞をゆっくりと畳みながら……

「そうだね―、私がアミを学校には行かせたくないと思っているから、それで気遣って、なにも言えなかったのかも知れないね―」

「きっとそうよ。アミはやさしい子だから。だから今度は、おじ様がアミの気持ちをわかってあげてっ!」

と言いながら顔をそらして、小さくベロをだした。

 麗子は、愛実の部屋に向かおうとしたとき、庭の奥から祖母、文枝の声がした。

「レイちゃん。アミならピアノの部屋よ!」

 麗子は慌てて飛び込んできたので、庭を通りながら庭の手入れをしていた文枝に気がつかなかった。

「あっ!おはようございます。おば様も入学式に行かないんですか?」

「私も行ってもいいのかね―。入学するわけでもないのに?」

 麗子は、だんだんいらだってきた。

 そのいらだちが急いでいたことを思い出させた。

「そうだ、こうしてはいられないんだ。おば様、アミのためにも絶対来てよね!」と言い残して麗子は、廊下を少し早歩きで離れに向かった。


 離れとは、母屋の西側のはずれに増築された所で、防音設備の整ったピアノ専用の練習室だった。

 広さは三十畳ほどだが、天昇までの高さは六メートルくらいある。その真ん中にコンサート用のグランド・ピアノが一台置かれていた。

 麗子は微かに聞こえるピアノの音で、愛実がいることがわかった。

 そして、重い扉をゆっくり開けると、今まで重い扉に押さえられていた音たちが、小さなすき間を目指して一斉に飛び出してきた。

「あっち……」

 その音たちは、麗子の体に体当たりでぶつかり、跳ね返り通り過ぎていった。

「熱が入っているな―」

 愛実は、すでにセーラー服に着がえていて、学校に行く準備は整っていた。

 麗子は普段と違う愛実に、何か特別のものを感じて、うかつに声をかけられなかった。

 でも時間がない。

「アミ、もう時間よ!」

 しかし、ピアノは鳴りやまない。

 麗子は仕方なく愛実の演奏をしばらく聴くことにして、壁に張り付くように置かれているソファに腰を下した。

 ふと目線を正面の壁に移したとき、愛実の両親が仲良く並んで笑っている写真に気が付いた。

 愛実の両親は、愛実が生まれて一歳のとき、飛行機事故で帰らぬ人となった。

 愛実の母真理は、少しは名の通ったピアニストで、ちょうどその時、パリでの演奏旅行の帰だった。

 そして、もっと悲惨なことには、栄二郎夫妻の勧めで、まだ赤ちゃんだった愛実の面倒を見ることで、栄二郎の息子、愛美の父、俊之介も一緒に行き、帰らぬ人となった。

 栄二郎は自分が勧めたことで二人を死なせてしまったことに責任を感じ嘆き悲しんだ。

 そして、この息子以外に子供がいなかった栄二郎は息子に報いるためにも、自分のすべての財産を愛実に受け継いでもらうためにも、親戚の反対にもかかわらず、愛実を育てることになった。

 しかし、そんなことよりも息子に代わって、愛実を立派に育てたいと言う気持ちが強かったことは言うまでもない。

「お母さんに、報告しているの……」

 愛実からの返事はなかった。

 そして、ピアノが一段と激しく鳴り響いてから、静かに余韻を残すように終わった。

「そんなこと、ないよ。ここんとこ春休みに入ってから、絵ばかり描いていて、ピアノがお留守だったから。やっぱり、全然調子よくいかないや―」

 愛実からの始めての返事だった。

「そう、絵は描けたの?」

「まだ全然だめ!」

「でも今日から、学校が始まるよっ!」

「わかってる……」

 愛実は、ピアノのふたを閉めて立ち上がった。

「さ―早く、学校に行かなくっちゃ!」

 愛実は、演奏の余韻に浸っている麗子の手を引っ張るようにして、練習室を小走りに出た。

「ちょっと、待ってよっ!」

 麗子は、からまりそうになる足に気を取られながら、さっきまでの愛実の寂しそうな後ろ姿を思い浮かべていた。

 愛実は、麗子のそんな気持ちを吹き飛ばすように廊下を走り抜けようとしていた。

 バタバタバタ、バタバタバタ……

 何しろ時代物の屋敷だけに、その音は家中を駆けめぐった。

 もちろん、栄二郎の耳にも届いた。

 栄二郎は、起きあがりながら廊下に向かって一括しようと思ったが。

 しかし、その時には二人の姿はもう庭先を出て行くところだった。

 去っていく二人は、恥じらいもなくスカートの裾を跳ね上げて無邪気だった。

 あのまま学校まで駆けて行くのではないかと栄二郎は心配した。


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