朝日に震える
人ならざる超常のものにとっては人間など蟻の群れに等しい。
その存在が巨大にして究極であるがゆえに……この世のことわりを曲げる黄泉返りによって一人の憤死した騎士に復讐の機会を与えたことは、邪神である酷使者にとっては取るに足らぬ些細な事であった。
だが、今はその捻じ曲がった道理がありがたい。
セルディオはリーシャを庇うように動き、剣を構えた。
すでに心臓の停止した身の上。肉体は氷のように冷たい。黄泉返った死者が生者を襲うのは自分自身の冷たい肉体に耐え切れず、命の暖かさを求めて血を、肉のぬくもりを欲するからだ。
黄泉返ることがこれほどの痛苦とは。セルディオは全身を切り刻むような寒気をどうにか耐え忍んでいた。
この寒さに耐え切れず、たいていのアンデットはたちまちのうちに自我を失い獣も同然となる。
セルディオがどうにか自我を保っているのは……その腹のうちに宿した激烈な憎悪の炎が、死の冷たささえも圧しているからだ。
「……せ、セルディオ……なぜ黄泉返った!」
「…………」
セルディオは無言を貫く。
内心では『何を分かりきったことをわざわざ尋ねる?』といぶかしむ気持ちがあった。
だがファリクはさも心外だという気持ちを顔に貼り付けて叫ぶ。
「ああ、貴様を射殺しはしたがあれは仕方なかったのだ! あそこで即断せずに接敵を許せば陣地に大きな損害が出る、あそこで……あそこでローズメイめが出て敵を打ち砕かなければ、俺の判断は間違ったことにならなかったのだ!」
「そんな……そんな事を言うのか、自分の名声や人望を、兵達の命より大事だという男だったのか……あなたは」
セルディオは心の中で失望と落胆が広がるのを隠し切れなかった。
彼の言葉でおおよその察しは付いた。あの黄金の女がどうにかしてしまい……そのため、ファリクは味方ごと敵を射るという非道が浮き彫りになって、おおいに面目を失ったのだ。
悲しかった。
セルディオは、彼の父親であり恩人でもあるドミウス=ケラーの下でファリクと会話した事も何度かある。
それほど悪い印象はなかった。際立って愚物でもなく無意味なまでに残虐でもない。親しい関係ではなかったが、顔を合わせれば挨拶ぐらいはした。
戦争が、この人の小胆を暴いてしまった。
彼自身こそが自分の肝の小ささにもっとも失望しているのかもしれない。
「……死ねぇー!!」
一瞬、セルディオの心を憎悪と復讐よりも憐憫が上回り。
ファリクは彼の心理の変化を隙だと誤認してしまう。短刀を引っつかんで体ごとぶつかるような突進に対してセルディオは死してもなお体に染み付く武技のまま剣を奮った。
もとより、単騎で騎士を幾人も返り討ちにするセルディオとファリクとでは実力に天と地ほどの差がある。
銀光が袈裟懸けに迸り、彼の肩口から鎖骨を砕き、心臓を破り切っ先が通り抜ける。
信じられないものを見たように目を見開くファリクはそのまま前のめりに倒れこんだ。口内より血の泡を吹きながらも手を暴れさせる。
「がっ……ぐ、きさ……きさま……ち、父上に……恩を……おきながら……」
「……殺さなければ、こちらを殺していただろう? ……いや、少しおかしいな。すでに死んでいるのに」
生前の記憶にひっぱっられてファリクを殺害したセルディオは血糊を拭い剣を収める。
ファリクは憎憎しげな目をセルディオに向け、手を伸ばし幾度か虚空を掻いたが……次第に力を失い、そのまま息を引き取った。
「セルディオ様!」
「……怖い思いをさせた、リーシャ」
リーシャは涙をこぼしながらセルディオに縋りつき……その体が氷のように冷たい事実に、雷にうたれたごとく震えた。
燭台の明かりがうつす彼の顔色は文字通りの死相。どうして生きているかのように動くのか、と当たり前の疑問が浮かぶ。
ああ、だが、道理よ去れ、彼岸へ行くなとリーシャは彼の体の冷たさなど気にもならぬと言いたげにしっかりと抱き締めた。セルディオも不器用ながらに抱きつき返す。
リーシャは口ごもった。
話したい事は山ほどある。良くぞご無事で……と言おうとして言葉に詰まった。無事であるはずがない。彼は目の前で死んだ。
あるいは神が最後に言葉を交わすため情けをかけてくれたのか。あるいは魔が二度目の死別の苦しみを味あわせるために道理を曲げたのか。
なんでもいい。
ただこの一瞬が永遠であれば、と思うだけだった。
「いいんだ。リーシャ。すまない、ありがとう」
「いいえ……いいえっ」
「我が身はもはや朝焼けと共に儚くなる。それが道理というものだろう……」
あるいは。
酷使者が完全に地上へと降臨し、生と死の境目が曖昧になる新たな世界が訪れればセルディオもまた永遠になるかもしれないが、それは許されてはいけない。
そうしているうちに……数名の人の気配がこちらへと近づいてくる。
「……セルディオ……様」
「その声は我が家に仕えてくれた騎士、ハリュだな」
ちょうどその頃、陣地にあるという不可解な気配を辿りハリュとシディアの二人が天幕へとやってきて……絶句した。
天幕の中心ではすでに血の海に息絶えるファリクの姿がある。返り血からして何があったかは明白だ。
「リーシャ、下がれ!!」
ハリュが叫びと共に剣を構え、シディアが魔術の行使を準備しようとするのも無理はない。
常識で考えれば、アンデットとは自我もなく生者を殺戮するだけしかしないからだ。
「待って、ハリュ! セルディオ様はファリクに殺されそうになった私を庇ってくれたの!」
その言葉にハリュは何があったのか想像を巡らせ、眉を寄せた。
「……では、どうして君がファリク様の天幕にいる? ……これはどう判断すべきだ」
「え……ちょっと、どういう状況なの、ハリュ」
シディアが困惑の声を漏らすのも無理はない。
まったく、奇奇怪怪な状況だとハリュは剣を構えつつも内心では頭を抱えていた。
ファリクの天幕にリーシャがいるのは……これはもう復讐が目的だとしか思えない。
だがファリクとて武人の端くれ、リーシャの細腕が抗し得る相手ではなく返り討ちにあうところだったのだろう。そこに冥府より彷徨い出でたセルディオが間に入りファリクを殺害した。
……普通、人は死ねばそれまで。
リーシャのやろうとした事は、動機は大いに理解できる。しかし騎士の立場として認めることはできない。
果たしてファリクの死に対して誰に責任を求めるべきなのだろう。
邪神が生死のことわりを曲げたせいで様々なところが歪んでいる。
「冥府より彷徨い出でたものが恨みのまま復讐を果たした。
……騎士ハリュ。それならば君は私を倒して手柄を立てるといい」
ハリュはその言葉に数秒の沈黙をし……熟考の末、剣をしまう。
幼馴染であるリーシャが泣いて懇願するから……ではない。剣士としての実力はセルディオが数段上と分かる程度には、ハリュは優れている。シディアと二人で挑みかかったところで負ける目はあるし、その静謐な眼差しは……血に狂った獣とは違う。
「え、いいの、ハリュ。その人、もう……」
「いや……いい。いずれ朝日が裁きを下してくださる」
シディアの言葉に、リーシャはびくりと震えた。他人の口から改めて彼が死人であると突きつけられることは、身を切り刻まれるより辛い。
「セルディオ様、朝日が昇るまで耐えられますか?」
セルディオは頷いた。
怒りの炎が身の内で燃え盛っているからこそ正気を保っているのだと思っていたが、セルディオは死した体に不思議な温かみが差していることに気付いた。
「……なんとかな」
それは全身に浴びたファリクの返り血の、断末魔の熱が乗り移ったせいだろうか。
黄泉返った肉体だが、邪神の強制力は働かず、その両手足は自分の意思に従っている。
セルディオは剣を握る手にかすかに力を込めた。
自分は死んでいる。
これは神の手違いによって生み出された残忍な奇跡だ。
誰かと生きる喜びをわかち合うこともできず、いずれ灰になって消え行く身だ。
人を手に掛けたこともあるゆえ、此度は自分がそうなっただけ。
だから仕方ないことだと……受け入れようとした。
だが、死して凍てついた涙腺の奥から涙の衝動のみが吹き上がる。
死病にかかり余命を宣告された病人のみが感じる、死までの時間を指折り数えることに似た緩慢な恐怖に、彼は震えた。
「セルディオ様、あの、どうかなさいましたか?」
リーシャの心配げな声に大丈夫だと首を振る。みっともなく泣き喚き、叫びだしたくなる無様だけはどうにか押し殺した。
戦場の死は一瞬で、恐ろしく迅速だ。
だが朝日と共に滅ぶ我が身は恐ろしく緩慢で、そして逃げるすべがない。セルディオは華々しく戦って散ることとは違う恐怖に怯えた。
幸いなのか、不幸なのか。
邪神を討ち果たし、自らの破滅の為に戦うのだと意識を改めるセルディオの苦しみを察してやれるものなど、全知全能の神でもない限りいるわけがなく。
『まだだ』
『まだ、諦めるな』
脳裏に響く誰かの声は、幻聴のようにしか聞こえなかった。
いつも読んでくださりありがとうございます。
とりあえず八月中に第一部完結をめどにしています。遅れてすみませんでした。