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エピローグ2

 正午前、僕と奥田を乗せた列車は滞りなく北岸市駅を離れた。車窓からのぞいていた田園風景がやがて少なくなり山間部に入ってゆく。


 皆川さんが言ったとおり僕は今普通に電車に乗れている。一応万全を期して特急ではなくローカルの山間線で帰ることにした。時間はかかるけど別に急がなきゃいけない理由はない。


 通路を挟んだ隣の席では大仰な荷物を抱えた、サングラスをかけた無精ひげを生やした小汚い若い男が座っていた。旅行者だろうか、一人で向い合わせの座席をすべて占領している。カメラの三脚が荷物から見えることからなにかの撮影にでも行っていたのはわかる。全体としてはアウトドアの装備で、彼自身は野球帽にTシャツに短パンというラフな出で立ちで窓の外をぼんやり眺めている。


 おおかた夏山登山でも行っていたクチだろう。特にそれ以上の思いも浮かばなかった。


 そういえば四年前も僕はあんな感じでアウトドアのザックに荷物を詰め込んでこの路線に乗っていた。あんなふうに座席を占領して。全てあそこから始まった。そして今日終わった。目の前でうたた寝をする奥田の顔を見つめて強く思った。


「あっれぇ? 伸也?」突然隣の男が僕に向かって体を傾けた。


 戸惑う僕を見て彼はそそくさとサングラスを外す。


 アリさんだ。なんでこんなとこに。僕は咄嗟に向かい側で眠りこける奥田のことをどう説明しようか考え出していた。


「ああ、ロケの帰りかよ。それにしては荷物少ないけど?」


「うん、ああ、いや、荷物は先に送っちゃったから。で、帰る日取りが奥田と合ったから、こうして一緒に――」


「うおっ、奥田か! あれ、なんか雰囲気変わったな」


 メガネをかけていないせいだろう。アリさんも学校のみんなも奥田がメガネをかけていない顔なんて見たことなかったはずだから。


「ところでアリさんは、どこ行ってたのさ? 樫尾町には行かないんじゃなかったっけ?」


「おれかぁ? 俺はな、なんと聞いて驚くな。竹田島だ」


 それを聞いて驚くなという方が無理だ。数秒間顔のパーツのすべての動きが止まってしまった。


「そこでとんでもねぇもんを俺は撮っちまったぜ」


 気が遠くなりそうだ……。


「嘘だろ……だっ、だいたい竹田島には一般人は上陸できないじゃないか、それに船だって出ていないし、漁師に頼んだって出してくれない」


「へぇ、よく知ってるな。そうだよ、だから自力で行ったんだよ」


 アリさんは自分の傍らの荷物をポンポンと叩いて笑った。なんだよ、そのでかい荷物?


「ボート漕いでせっせとな、丸一日かかっちまったよ。途中でオールは流されるし。向こうにわたって数日はこっそり野営してたんだけど、案の定国防軍の連中に見つかっちまってよ。咄嗟に、撮影したフィルムだけは没収されちゃかなわんと思って、このゴムボートの中に隠した」


「そのゴムボートの中……フィルムは今でもその中に……?」


僕はじとりと荷物の山を見つめ、自動的とも思えるほど、そのゴムボートを奪う算段を始めていた。


「ああ、世紀のスクープだぜ!」


「アリさんは、なんで竹田島なんかに……」


「竹田島にゃ今まで漁船ですら近づけなかっただろう? だからチャンスがあれば是非行って確かめたかった。キタギシアシカが本当に絶滅しちまったのかってのをな」


「キタギシアシカ?」


「そう、アシカ。海獣だよ。七十年代に絶滅したって言われてたんだが、その後教国が竹田島を占拠してから調査されていなかった。ある意味あの場所ほど人間が立ち入らない海域もないってことさ。なら、平穏を望む動物たちは竹田島近海を根城にすると考えたんだ、俺は」


「そのために竹田島に?」


「ああ、そんで見つけたさ、キタギシアシカをな。群れとまではいかなかったけど、数頭は目撃した。ばっちりここに収めたぜ! 俺はさ、ネイチャーフォトグラファー目指してるんだ。今はまだ資金貯めてる途中だけど、いずれは――」


 アリさんに気づかれないように僕は安堵の息を吐いて、向かいの席の奥田を見た。すると彼女は目が覚めていたらしく、窓の外の景色に視線を投げていた。


「やれやれ、だよ」そうつぶやいて僕も彼女に倣って窓の外を見る。すると彼女は小声でこんな事を言う。


「夏休みの課題……どうしよう」と、確かにそれは問題だ。


 北岸市でイムを撮影したフィルムは皆川さんのものと合わせて恵美さんに渡してしまっていた。埠頭で彼女との別れ際に。恵美さんが必要なら使ってくれたっていい、って言い添えて。あのフィルム達は世界を再びひっくり返してしまう。だからそれでいい。


 ジャケットのポケットに仕舞ってあった恵美さんからの封筒の中身を見る。そこにはログハウスの前で僕とイムと後藤さん達の四人で撮った写真が一枚ずつ入っていた。


「夏休みはまだ十日残ってる。なんとかなるさ。きっと」そう言って一枚を奥田に手渡す。奥田はそれを見て「そうね」と、僕に笑いかけた。


「おい、伸也、聴いてんのか? てめぇ!」背後からアリさんがヘッドロックをかましてくる。


「聴いてる! 聴いてたって! くっ、くるひぃー!」


 乗客のまばらな山間線の車内はディーゼル機関の脈動と、規則正しい線路のカタンカタンという音、そして僕らの笑い声で満たされていた。


 稲穂が実りだした田園風景の上空は真っ青に突き抜けた気持ちのいい空。風は幾分秋の香りを運んできているような気がする。


 でも、多分いつまでもこの青空は続かない。いずれ曇り、雨が降ることもある。


 そうなれば雨から身を守るため傘もささなきゃいけないし、濡れたら体を乾かさなきゃ風邪をひく。そうなれば愚痴を言い、不安になって言い争い、お互いを傷つけあい絶望するんだ。


 だから僕らはこの青空を忘れちゃいけない。早く晴れないかなって、晴れるといいのにな、きっと明日は晴れるさって、そうお互いに励まし合うために、希望を失わないために。


 僕は車窓から身を乗り出してF4を構え、四千分の一秒の瞬きで空の青を、フィルムの最初の一コマに焼き付けた。




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