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10-1


 今度は完全に僕が彼女に引っ張られる形となってしまった。僕らは横断歩道を渡り反対車線でタクシーを拾って北岸市の中心部に向かった。


「ねぇ、木田君。お金どのくらいある?」奥田は小声で僕にそう告げた。


「手持ちはそんなにないよ、奥田は?」もしかして、と思った。


「さっき間違って一万円渡しちゃったみたいで……残りが千円しか」さっきのタクシーへの依頼をいくらでやってもらうつもりだったのかわからないけど、間違って渡さざるべき大金を積んでしまったのは確かなようだった。


運転手に僕たちの会話が聞こえたのかルームミラーに僕らのなりを確認するような視線を感じた。


 このままじゃ隣町まで行ければいいほうだ。奥田の家のある加田屋からは随分離れることができるけど、どこに逃げればいいのかもわからなかった。


 考えを整理したい、だけど集中できない。まだ興奮したままだ。タクシーのメーターの金額表示を凝視しながら必死で頭を回転させた。信号がほとんどない街道をタクシーはどんどんと距離を稼いでゆく。かといって止まってなんとかなりそうな場所もない。朝に奥田家へ向かうために渡った橋に差し掛かる。北岸市街に向かってくれと言ったものの、財布の中身を考えたらおそらく宿までは戻れない。


「運転手さん、ここで停めてください」奥田は町を出て、三角州の市街への橋を渡り終えたところですぐに声をかけた。


「どうしたんだよ?」


「とにかくここで降りましょう」奥田の千円と合わせて料金を支払うと僕の財布も随分と軽くなってしまった。奥田はタクシーを降りると手に持っていた麦わら帽子をかぶり直し、短く息をついた。



「なんで、こんなところで」


「歩きましょ、なんとかなるよ。それにいまの私たちは孤立無援、誰かに助けを借りるわけにもいかないし、それにドキドキして……」さっきまでの責め立てるような顔ではなく元の、いつもの奥田に戻っていた。でも口から出る言葉は違う。


 お前は誰だよ……それに何だよ、自分だけ状況が解っているみたいな言い方。大立ち回りからこっち、ずっと気持ちが噛み合っていない心地悪さを感じていた。


「はは……そうだな、国家権力の手が回っているならタクシーの運転手から僕らの情報を聞き出すこともたやすいだろう。俺にはタクシーを空荷で走らせるなんて咄嗟に思いつかないしな。君の言う通り、ちょっと落ち着いて策を練ったほうがいいかもな」半分やけっぱちに、彼女への当てつけ気味に言ったのだが、「ええそうね、どこか座れるところにしましょ」と彼女はこともなげに言った。


 東西二本の川に挟まれた三角洲に広がる北岸市街は、中心部だけが際立って発展しており、川沿いや川を隔てた橋の向こう側の地域はのどかな風景が広がる田舎町だ。


 僕らがタクシーを降りた場所も都会というには程遠い、古い集落が街道沿いから小高い山裾に続いているような村のような町だ。集落にはちょっとした商店街も見える。


 手持ちは少ないけど喫茶店くらいには入れるだろう、喉がカラカラだ。日も昇りきってふたりの影を短くしていた。


 奥田には問いただしたいことが山ほどあるが、まずは水が飲みたい。


「昨日言った通り、俺はテレビの番組の撮影スタッフとして彼らと行動を共にしていた。彼らがそのスタッフだ。君を連れて行こうとしていた加賀さんはタレントの嶋田カヲルに同行してきたマネージャーと聞かされていた。それ以上のことは知らない」堤防を降りて町の方へと歩きながら後ろについてくる奥田に話した。


「そう……」イムは静かに応えたが、僕にはそれ以上何を言っていいのかわからなかった。この前まで近い友人関係を感じていたのに、今はまるで遠くの存在に感じる。


 結局お互い学校で見せている顔はごく一部だってことを確認してしまったせいだ。奥田美和という名の彼女は僕が知る彼女の一部分でしかない。


 誰だって人間は心の中では他人が思いもしないことを嫌というほど考えて感じている。


 僕だってそうだ。奥田のこと、曖昧な戦場の記憶と皆川さんのこと、学校では一切口をつぐんでいた。お互いに聞かなければいけないことはいっぱいあった。だけどそれを聞いてしまえば本当に友達でいられなくなるという思いが喫茶店に向かう足を自ずと鈍らせた。


 僕らは午後一時の強烈な日差しを避けて、寂れた商店街の一角にある喫茶店へと入った。四十代くらいの女性が一人で切り盛りしているようだ。店内の壁はベージュを基調とした内装で明るく、テーブルや椅子は真っ白だった。ところどころに絵が飾られており、窓にかかるカーテンも真っ白なレース、まるで小さな結婚式場のような内装だ。


 きっと男一人ならまず入らないだろう店構えだ。僕らはカウンターは避けて、三卓しかないうちのテーブル席を選んで向い合せで座った。


 ふくよかな店主の女性は店の雰囲気と同じく、ふんわりとした柔らかな表情で僕たちにオーダーを訊きに来る。とりあえずアイスコーヒーを二つ、と告げる。彼女は一瞬僕を怪訝な顔で見つめ、すぐに作り笑顔で踵を返し、そそくさとカウンターに戻って行った。


 まず二人がしたことは、運ばれてきたお冷を飲み干すことだった。スポンジのようにごわごわになった口の中に、それは文字通り染みてゆくようだった。


「木田君、顔」


「なに?」


「ここ、腫れてる……だいじょうぶ?」奥田が僕の頬に触れようとするのをそっと手で制した。


「ああ、内出血しやすいんだ。見た目ほどじゃないよ」


 そうは言ってみたものの、黒服にくらったパンチの一発はもろに頬に入り、口腔は血の味がずっとしていた。形だけの気遣いならいらない。そう思い始めていた僕の口調には明らかな棘があっただろう。


「ごめんなさい、巻き込んでしまって」奥田は下唇を噛んで上目遣いで僕を見て言う。


「どういうことなんだ、説明してくれよ。俺は自分の事情は話したぞ」


「木田君。ここからは私一人で行くわ。これ以上迷惑を掛けられない」


「行くって、どこへ? 俺だって追われているのは同じだ。助けを求める術がないなら俺たちが協力しないと……」僕が男だからだろうか、思わず彼女を守らなければいけないという気持ちが言葉にでてしまった。だからといってなんの策もないことを知りながら。


「関係のない木田君を巻き込むわけにはいかない。私の事情なんて知らなくていいのよ。このまま何も知らないって言っていれば、あなたが追われることはないわ」


「また……か、関係ない関係ないって、俺の何を知ってるって言うんだ。質問に答えてくれ、君は奥田美和なのか? そして何故連中に追われるんだ?」頑なに自分の事を隠そうとする奥田にイラついた。


「皆川さんだってあなたを巻き込むまいとしていたはずよ」


「そんなことあるもんか、俺を騙してロケ班につなぎとめて、あちこち引っ張り回された挙句、あの大立ち回りだ。本当に何がしたいのかわからないよ――っと待て……皆川さん、って……奥田は皆川さんを知っているのか?」


 険悪な空気が形成されかねない隙を割って入ったのは、アイスコーヒーだった。僕らは一時会話を止めた。奥田の口から皆川さんの名前が出たことで僕の思考は一気に逆転させられた。アイスコーヒーのグラスは僕の心の内を表しているかのように、びっしりと汗をかいていた。恐る恐る僕は奥田の顔を見つめた。次に彼女の口から発せられる言葉が怖かった。


「私は祖国の再興を切望していた。再び教国を華南王朝のもとに、教主を騙る傀儡政権を打倒し、半島を統一するために、私の力が必要ならばどんな危険や困難にも立ち向かう覚悟はあった。だけどレイは私の命を優先してこの国に留めようとした。それは忸怩たる思いで過ごした十五歳からの四年間――」


「四年前……北岸戦争……教国だって? それにレイ?」


「ええ。私は四年前、北岸戦争の直前にレイとともに偽装漁船で樫尾町に上陸したの。その直後に教主派による教国の攻撃が始まった。そのあとで布告された宣戦。あの戦争のからくり。私はその中でレイとはぐれてしまい、奥田夫妻と出会った」


「お、くだ……の両親?」


「今みたいに誰にも助けを求めることもできず、瓦礫の樫尾町をさまよっていた時、彼らが私を助けてくれた。私の顔を見て彼らはすぐに人違いだと気付いたはずだけど、私に駆け寄り、私のことを抱きしめて“美和”と呼んだ」


 奥田の両親が……?


「私はまだあの時はうまく話せなかったし、彼らの言っている言葉も半分ほどしか理解できなかったけど、ただ、彼らの一人娘である美和という子をあの戦闘で失ったのだということは解った。そして私がその子にそっくりだということも――確かに写真を見せてもらって自分でも似ていると思ったわ」


 僕はテーブルの端を凝視していた。しかしそれは見ていたというよりも、視覚が物体を捉え、意味に変換する作業を止めただけというほうが正しい表現に思える。見えない蒸気が皮膚から吹き出しているかのように、体が熱かった。


「それから数日して、奥田のおとうさんとおかあさんが華南語の辞書を片手に私にこう言ってくれた。“もし行くあてがないならしばらくここにいるといい。私たちも美和が帰ってきてくれたようで嬉しい”と。結局戦争が終わっても私は奥田家に居残った。レイとはぐれて私が行くあてを失ったのもあるけど、おとうさんとおかあさんは私のことを美和として養ってくれて、ずっと名前を名乗らなかった私は美和と呼ばれ、周囲も私のことを美和と呼んだ。そして私は奥田美和として――」


「奥田、ちょっと……ちょっと待ってくれ。じゃあ、君は今までの四年間を奥田美和として生きてきたって言うのか?」


 僕は自分で質問しておきながら妙な言い方をしていると思った。奥田が抜けたその籍に彼女が収まってるんだ、しかも顔が似ているっていう理由だけで……加賀さんが“この世にいない者の名を騙るなど許されない”という言葉が脳裏をよぎる。だから奥田は死亡者リストに挙がらなかった、そういえば納得もするけど奥田の気持ちは、死んでしまった奥田はそれで浮かばれるのか? 目の前の彼女はそれでもいいのか?


「もうわかったでしょ。私の本当の名は、マーシェイナ・イムウァ・レイラン・メイ。華南王朝が存続していれば第一王位継承権を持つ華南共和国の王女、ということになるわ。だから暗殺の対象にされた」


 このメルヘンチックな喫茶店で話すにはあまりにも不釣り合いな会話だった。きっとカウンターの向こう側の彼女に暗殺の意味を問うてもただ首をかしげて微笑むだけだろう。


 奥田……イムウァ・レイランが樫尾町にいなければ樫尾町は戦場にはならなかった。奥田は南辺の町にずっといれば今も生きていた、生きていられたはずだ。カヲルさんだって銃を持たなくてもよかった。


 そういうのを簡単に運命だとか言って片付けるのは簡単だ。不思議なこともあるものだと言い切って忘れてしまうのも簡単だ。だけど僕は納得できないし納得したくない。悔しい。この感情をどこに収めればいいのかわからない。だが、反面こんなにも冷静に彼女の話を受け入れている僕は何だ?


 再び僕はアイスコーヒーのグラスの淵を意味なく見つめていた。死んだ視覚とは裏腹に、テーブルの下で両掌は本来の役目を忘れたかのように、堅く握られて汗がにじみ出て震えていた。


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