プロローグ 407号室の男
俺の名前はマーク・ドノバン。
このボロマンションじゃ、少しばかり顔が利く。
いや、正確には違うな。
顔が利くんじゃない、皆が俺を恐れているだけだ。
アメリカ郊外。地図には載っていても、誰も好き好んで近寄らない地区がある。
昼間ですら人通りは少ない。
夜になればなおさらだ。
街灯は半分以上が壊れている。道路には空き缶とゴミ袋が転がり、壁にはギャングどもの落書きが何層にも重なっている。
たまに銃声が聞こえる。
たまにじゃないかもしれない。
慣れすぎて数えなくなった。
そんな街の外れに、そのマンションは建っている。
六階建て。
築五十年近い老朽建築。
エレベーターは数年前から故障したまま。廊下の蛍光灯は点いたり消えたりを繰り返し、雨が降ればどこかの部屋で必ず雨漏りする。
住民もろくな連中じゃない。
前科者。
麻薬中毒者。
売人。
元ギャング。
現役ギャング。
人生に失敗した連中の吹き溜まりだ。
そして俺も、その一人だった。
俺は四階の端にある部屋を根城にしていた。
仲間は十人ほど。このマンションでドラッグを流し、小遣い稼ぎをしている。
住民からみかじめ料を取ることもある。
逆らう奴は殴る。
それだけの話だ。
善人なんて一人もいない。
だから居心地が良かった。
ここでは誰も他人に興味を持たない。
昨日隣人が死んでも、今日には忘れる。
そういう場所だった。
だから、その男が現れた時も誰も気にしなかった。
最初は。
その日、俺は一階のロビーで仲間と酒を飲んでいた。昼間からだ。仕事なんてものは夜にやればいい。
古い自動ドアが軋んだ音を立てる。
振り返ると、一人の男が立っていた。
痩せている。
黒縁眼鏡、安物のコート。
髪は少し伸びていて、無精髭が頬に浮いている。
年齢は三十代後半くらいだろうか。男は無言で段ボール箱を持ち上げると、そのまま階段へ向かった。
「誰だ、あいつ」
仲間のデイブが呟く。
「さぁな」
俺は興味なく缶ビールを傾けた。ただ、その男には妙な違和感があった。
怯えていない。
普通、このマンションに来たばかりの人間は周囲を警戒する。住民の目を気にする。俺達のような連中を見れば顔色を変える。
だが男は違った。まるで誰も見えていないかのようだった。ただ、自分の目的地へ向かうだけ。そんな歩き方だった。
数分後、管理人の老人が戻ってきた。
「新しい住人か?」
俺が尋ねる。老人は面倒臭そうに頷いた。
「四階だよ」
「へぇ」
「407号室」
407号室。
半年ほど前に老人が孤独死した部屋だ。腐乱死体が見つかって大騒ぎになった。
縁起のいい部屋じゃない。
しかも、俺の隣の部屋。
「物好きな奴だな、こんな場所に好き好んで住むなんてよ」
だが管理人は首を傾げた。
「そうでもないさ」
「何がだ?」
「部屋を見た時の顔だよ。まるで、探していた場所に辿り着いたみたいな顔をしてた」
俺は鼻で笑った。そんなのどうでもいい、ただの変人だろう。
その夜。四階の廊下を通った時、ふと407号室のドアが目に入った。 隙間から灯りが漏れている。引っ越し作業でもしているのだろう。
俺は何となく足を止めた。理由は分からない。ただ、本当に何となくだった。
その時、部屋の中から何かが聞こえた。
笑い声でもない、話し声でもない。
男の声だった。
誰かと電話でもしているのだろう。
そう思って、その場を離れた。
この時の俺は知らなかった。407号室に越してきたその男が、十五年間もの間、あるものを探し続けていたことを。
男の名前は、ジニアス・スコット
治安の悪いこのマンションには、あまりにも場違いな男だった。




