まず、すべきこと
考えてみたら、大学も変だった。
講義らしい講義はない。
少人数で教授を囲み、倫理や哲学といったテーマについて、ただ対話するだけ。
同じ教授の講義でも、同じメンバーが揃わない。
そもそも、自分が何学科に所属しているのかすら分からない。
朝、早めにラウンジに降りると、三里さんがいつものようにいてホッとした。
「おはよう! マフィンありがとう! 一緒に食べよ!」
笑顔でそう誘ってくる。今日は細かく髪を編み込み、留めた面白い髪型をしている。
「おはよう! 何か手伝うことある?」
俺も挨拶を返し、オープンキッチンへと向かう。
「レタスを洗って!」
三里さんは、フライパンでベーコンと目玉焼きを焼いている。
二人で並んで朝食を作る。なんか不思議な気持ちだ。
「グレープフルーツジュースいる?」
俺が頷くと、三里さんは二つのグラスにジュースを注ぐ。
そしてカウンターに並んで二人で座る。
「プハー。この刺激がたまらない」
三里さんは、グレープフルーツジュースを美味しそうに飲んで、嬉しそうに笑う。
俺も飲んでみると少し苦味はあるが、口の中に爽やかな酸味が広がる。
身体が細胞からゆっくり目を覚ますような気がした。
「三里さん、グレープフルーツジュース好きですよね」
冷蔵庫に、三里さんのグレープフルーツジュースや柑橘系のものが並んでいるのを思い出して、聞いてみる。
「好きだというのもあるけど、しばらく飲めなくなっていたから。
反動で余計に飲みたくなっているのかも」
そう言って、三里さんは目を細め、外の風景を見つめる。
「ここから見える風景も好きなの! 緩やかに海に向かって降りていく風景」
俺も視線を正面に向ける。こちらが少し高いことと、前にあるのが低めの建物のため、街並みだけではなく、その奥に朝日で輝いた海までが広がって見える。
「確かに、綺麗ですね」
「でしょ?」
三里さんは笑いながら、マフィンにかぶりつく。
「そういえば、こうしてゆっくり景色なんて見ていなかったのは勿体無かったかも」
「結構、色々素敵な景色の場所、面白い所あるから、楽しんだ方がいいよ」
俺は目玉焼きをフォークで切って食べる。絶妙な黄身の焼き具合で美味しかった。
「美味しい!」
美味しいと思えることが、生きているという実感を俺に与えてくれた。
俺の言葉に嬉しそうに三里さんは笑う。
「奥野くんは、今日も大学に?」
俺は首を横にふる。
「いや、祖母に会いに行こうかと」
三里さんは首を傾げる。
「この街にさ、祖母も来ていたんだ。
そうだ、三里さん。
二木荘って場所、わかる?
海岸線にあるらしいけど」
三里さんは申し訳なさそうに顔を横にふる。
「ごめんなさい。お店の場所だったらわかるけど。そういった建物の場所は……」
「わかった。松尾に聞いてみる。知っている感じだったから」
三里さんは俺を見てニッコリ笑う。
「お婆ちゃん孝行楽しんできてね」
俺は頷いた。
降りてきた松尾に二木荘の場所を聞くと、丁寧に地図を書いてくれた。
二人に笑顔で送り出され、地図を手に俺は祖母の暮らすアパートへと向かうことにした。
「女性を訪ねるのに手ぶらで行く気?」
三里さんにそう言われて、花壇の花で三人で作った花束を手に持つ。
祖母の住むアパートは駅の近くで、海岸沿いの道を内陸側に曲がったところにあった。
素敵な松の木や、咲き乱れた桜の木のある庭園のある、木造で平屋造りの建物。
大きな玄関があり、目立つのは海側にある横に広がる大きな縁側。そこでご年配の方が何人か座りお茶を飲んでいる。
アパートというより、どこか品のあるお屋敷のように見えた。
とはいえ垣根は低く開放的。変に気取った感じはない。
縁側で会話を弾ませたり、庭の東屋で将棋を打っていたりと、ご年配の方が気ままに過ごしている。
「ごめんください」
俺は挨拶をして門から入る。
「あら、どちらさま?」
手前で庭の世話をしていた若い女性が聞いてくる。
「船上笠緒さんに会いにきました。
おられますか?」
女性は微笑み、建物の方を向く。
「笠緒さーん。お客様ですよ」
呼ばれて出てくる祖母を見て、会えた喜びと同時に、この街に本当にいるということに胸の奥がわずかにざわめく。
祖母は俺を見て嬉しそうに、そして悲しそうに目を細めた。
「じゃあ、昨日の喫茶店に行こうか? 美味しいモーニングが食べられるの」
祖母と共に海岸線にある遊歩道を歩く。祖母の足取りはしっかりしていて、俺があえてゆっくりめに歩いて合わせる必要もない。
「この道は私のお気に入りの散歩コースなの」
遊歩道は綺麗に煉瓦が敷き詰められ、引っかかるものもなく歩きやすい。
左側には朝日に輝く穏やかな海が広がっている。
「確かに気持ちいい道だね。ランニングしたくなる」
俺の言葉にフフフと笑う。祖母が体調を崩す前の穏やかな時間がここにある。
現実世界の祖母は歩行どころか、起き上がることも出来ない。
そして俺は歩くことは出来ても、思う存分走ることは出来ない。
「マーちゃんは、本当に身体を動かすことが好きね」
俺はその言葉に曖昧な笑みしか返せない。
たどり着いたのは、昨日二人で行った古民家の喫茶店。
祖母は店員さんに挨拶をして昨日のことを謝りながら、海がよく見えるというお気に入りの席に座る。
祖母が生まれ育ち生活していたのは、静岡の内陸部。見事に見える富士山を見てきた。
そんな祖母が山並みの風景がある内陸方面でなく、海側を好むのは少し意外だった。
祖母がここで頼んだのはモーニングメニューにあるクロワッサンサンドセット。ドリンクはグレープフルーツジュース。
俺は既に朝食を食べていたこともあり、パンサラダセットというものと、無添加トマトジュースを注文した。
祖母はやってきた料理をキラキラとした瞳で見つめながら、グレープフルーツジュースを嬉しそうに飲む。
元々柑橘系のフルーツが好きな祖母だった。
治療の関係でグレープフルーツや八朔などの果実は禁じられて、口内炎や胃炎のために蜜柑といったものも食べられなくなっていた。
そんな祖母が嬉しそうにグレープフルーツジュースを楽しんでいる。
その姿に、先程見た三里さんの姿と重なる。
あぁ、そういう事なのかと腑に落ちる。
俺はまず水を飲む。そして、シャキシャキのレタスやキュウリなどが盛り付けられた上に切られたトーストが大胆に散りばめられたサラダを食べる。いつも以上に味覚が冴えていて、野菜のうまみ、パンの小麦やそこに塗られたバターの風味が強く感じ、余計に美味しく感じた。
昨日とは違って、祖母はあえて陽気にはしゃいでいるように見えた。
俺が試合に負けて落ち込んでいた日のような感じで。
もう、何度も聞いたから忘れるほどのお爺ちゃんの武勇伝を話している。
「あのさ、お婆ちゃんに、俺一つ謝らないといけない」
俺の言葉に祖母は表情を少し固くする。
「お婆ちゃんに、プロのサッカー選手になるって誓っていた夢。
あれ叶えられなくなった」
祖母は手に持っていたサンドを皿に戻して俺を見つめる。
「膝を痛めてしまったんだ。日常的に支障ないレベルまでは治せたけど、プロとしてやっていくのはもう無理だって言われた」
「私こそごめんなさい。
貴方がそんな風に辛い時間を過ごしていたのに、自分のことでいっぱいいっぱいで向き合えなかった」
謝る祖母に俺は慌てて顔を横に激しくふる。
「それは違うよ!
これは俺自身が自分で向き合い、乗り越えていくしかない問題だから。
ただ、お婆ちゃんの自慢の孫ではなくなったのが申し訳なくて」
祖母は驚いたような顔をするが、すぐに笑い出す。
「何言っているの。サッカーが上手いから自慢の孫ではないわよ。
優しくて、頭も良くて、そして可愛くて、カッコいい。そして堪らなく愛しい。
だから大好きで自慢の孫なのよ!」
「もう、可愛いって年齢ではないんだけどな」
嬉しさと恥ずかしさで、顔が赤くなるのを感じた。
「あのね。可愛らしさは、女や子供にだけ必要なものではないのよ!
男もお年寄りも可愛さは必要なの!
だから私も可愛いお婆ちゃんになっているでしょ?」
そう力説する祖母に対して、愛しさが込み上げる。
陽気でいつも笑顔で元気をくれていた祖母。
「そうだね。いつまでも若々しくて、そしてどこか惚けていて可愛い」
祖母は、んっ? と顔を傾ける。
「惚けているは余計よ!」
そして二人で顔を見合わせて笑った。
「あのさ、マーちゃん」
顔を真剣なものに戻して、祖母が俺を呼ぶ。
「ん?」
「貴方は戻りなさい。
昨日、幸世さんや、夢人ちゃんも心配していたわよ。
貴方が目醒めてくれないと」
母や兄の名前を出す祖母の言葉から見えてくる、祖母や三里さんにとって「戻る」という言葉の意味。俺の状況。
俺は、「戻れ!」と言われてもどう戻れば良いのか分からないけど、ただ黙って頷いた。




