もう一つの願い
暫く俺の腕の中にいた百代は、落ち着いてきたのか、ゆっくりと俺から離れた。
「男同士で抱き合うとか、恥ずかしい事させてワリイ」
ニヤリと笑う、いつもの口調。
でもその瞳は、痛みを秘めている。
「泣きたい時は、いつでもお兄ちゃんの胸で泣くといいよ」
俺はあえて、百代のノリに付き合ってやる。
そうすることが、今の正解な気がするから。
百代は苦笑する。そして正面に向き直った。
「俺の我儘は無理だっていうのは分かりました。
だったら、もう一つのお願いを聞いてもらっていいですか?」
そう言って、視線をまっすぐ理事長に向ける。
杉風理事長は目を細め、続きを促した。
「奥野を、戻してあげてほしい」
「百代!?」
思わず声が出る。
さっきとは別の意味で驚き、百代の顔を見る。
百代は真剣な表情で、杉風理事長、そして松尾に視線を向けている。
松尾は驚いたように目を見開き、百代を見返していた。
「何となく感じるんだけどさ。
奥野って……ここにいるべき人じゃないよね?」
杉風理事長は、少し困ったように笑う。
「いや、いるべくしているんだが」
その言葉に、思わず言葉を返していた。
「あの、俺……ここに来る心当たり、全くないんですが……」
確かに膝の手術で過去に入院したことはある。
病院にお世話になったのは、それくらいだ。
「確かに君の場合、若干異なるパターンでコチラに来ているからね」
理事長は静かな口調で続ける。
「ここにいる住民の多くは、病や怪我で魂の殻が脆くなったことで、こちらに避難している。
しかし君の場合は、魂が余りにも身体の深い階層まで沈み込んでしまった」
そこで一旦言葉を切り、さらに続ける。
「その結果、殻そのものに圧がかかり、魂が圧迫される危険な状況になった。
だからコチラに避難させた、というわけだ」
意味が分からない。
理事長は、水に深く風船を沈めているような状況だと補足する。
「それは、つまり? どういう状況ですか?」
「何らかのアクシデントにより、昏睡状態にある……と言えば分かりやすいかな?」
俺はここに来る前の状況を必死に思い出そうとする。
「それは、この街のシステムによるアクシデント? それとも……」
百代が問いかける。
「いや、現世でのアクシデントだ」
それは、事故……?
空は青く、風も程よくあり気持ちの良い日。
コートも必要なく、身も心も軽くなった気がしていた。
大学へ向かう、緩いカーブの坂道。
俺は友人と他愛ない話をしながら歩いている。
……そうだ。
駅前のチェーンのハンバーガーショップの新作メニューの話をしていた。
その時。
坂の上から、かなりのスピードを出した自転車が、見通しの悪いカーブからいきなり現れて――
キィィイィイイイィィイ――
不快で鋭いブレーキ音。
ご機嫌だった笑顔が、一瞬で強張る。
自転車を漕いでいたガキの表情。
でも、そのあとは――思い出せない。
「奥野、大丈夫か?」
松尾に話しかけられて、我に返った。
「顔色がよくないな。
深呼吸をして。
コーヒー飲んで、まず落ち着いて」
杉風理事長の静かで優しい声に従い、俺は深呼吸をしてから、コーヒーを一口飲む。
香ばしい匂いが鼻に抜け、じわりと広がる苦味が、ざわついていた思考を少しずつ落ち着かせていく。
「……心当たり、ありました。
俺は……どうなるんでしょうか?」
そう尋ねると、理事長はわずかな間を置いてから答えた。
「魂を入れた殻が、身体の奥から浮かび上がり、バランスが取れるようになったら……戻れる」
少し希望が差す。
「しかし、時間がかかりすぎると、それも難しくなっていく」
続けて言われた言葉に、上がりかけた気持ちが沈んだ。
ここに来て何日経った?
六日?
「え……もう一週間近いのか……」
思わず呟くと、松尾が慌てて首を振った。
「あ、いや、落ち着いて。
この世界の時間、何故か現世と少し違うんだ」
杉風理事長は頷く。
「違う?」
「魂の感覚で一日が作られているから。
だいぶ短い。体感より」
百代が目を丸くする。
「だから……思っているよりも、まだ時間は残ってると思っていい」
「……どれくらい?」
俺の問いに、松尾は少し言い淀む。
「揺らぎもあって正確じゃないけど……半分くらい、かな」
「……三日ちょっと、か」
思わず口に出す。
少し、希望を感じる。
まだ、間に合うかもしれない。
その感覚が、かすかに戻ってくる。
「だったら……戻れる可能性、まだありますよね?」
百代が食い下がるように言う。
自分のことで精一杯なはずなのに、俺を気遣ってくれていることに、嬉しさと申し訳なさを同時に感じる。
「確かに、そういう人は少なくない割合でいる。
だからと言って、楽観的な情報だけを開示するのは違うだろ?」
百代は、その言葉に口を閉じるが、すぐに視線を上げて口を開く。
「戻った人に共通している特徴とか、何かないんですか?」
前のめりに聞いている。
「ほら! 奥野はスポーツマンっぽいから!
ランニングとか始めてるんだ!
ここで身体を鍛えたら精神が強くなって戻れる! とか! ないの?」
俺以上に必死に訴えかけていく百代。
杉風理事長は考え込む。
「過去に、そう言って竹刀を振って、走り込んで身体を鍛えていた人物が戻ったという前例はある」
「じゃ――」
嬉しそうに言葉を返そうとする百代を制するように、杉風理事長は言葉を続ける。
「しかし、それはこの世界で鍛えたことで戻れたのか、元々その人物の身体が回復し、戻る体勢となっていたからなのかは分からない」
俺は少し考え、口を開く。
「戻れる条件は、何なのでしょうか?」
俺の質問に、理事長と松尾は考え込む。
やがて理事長が口を開いた。
「奥野くん。君は一昨日、祖母である船上さんと、どうして出会えたのか……その経緯を教えてくれないか?」
この世界で身内に会うって、そんな不思議なことなのだろうか?
「あの日、アパートを出るのが遅くなって……ちょうど松尾……さんが近道で向かうのが見えたので、追いかけて裏の森の道に入ったんです。
そしたら……」
あの時のことを、どう説明すればいい?
「そこで、飛んできたボールを追いかけたら、海岸に出ていて、祖母を見つけました」
かなり端折った説明になってしまった。
三人とも真剣な表情で聞いてくれているが、要領を得ない話で意味不明だろう。
「そのボールは、どういうボールだ?
君にとって特別な意味を持っていたりしないのか?」
「……俺が怪我をした時に、チームメイトが寄せ書きしてくれたボールです」
そして今現在、この街の俺の部屋の棚に飾られている。
理事長は小さく頷く。
「君は、最初に会った時、この街が複雑だと言っていたね?
でもね、ぶっちゃけた話をすると、この街はシンプルで、そしてかなり“アバウト”に作られているんだ」
「は?」
思わず非難めいた声を上げてしまう。
「それはね、この街を運営していくにあたって、ある程度揺らぎを持たせる必要があるからだ。
多くの魂を受け入れ、運営していく為にね」
俺は、理事長が突然何の話をし始めたのか分からず、眉を寄せる。
理事長は構わず続けた。
「ここにいる人が共通で認識できているのは、“大通り”だけなんだ。
大通り沿いにある施設や建物は、ここにいる住人誰もが見えていて利用できる」
「といいますと?」
「今、君たちがいる学校の建物。
大通り沿いにある店。
そして駅とバスターミナル、フェリー乗り場」
そこで一旦言葉を切り、俺たちがついていけているか確認している。
いまいちついていけてないが、俺は先を聞くために頷いておく。
「そして、大通りから入った小道はプライベートゾーンになる。
君たちが住むアパートとかがそうで、その住人のためだけに存在する空間だ。
その空間は基本、その住人しか視認できず、入れない。もしくは住人から招かれた人だけだ」
松尾は頷き、俺に笑いかける。
「船上さんのお家を訪問した際は、俺が二木荘を君が認識できるように繋いでおいたんだ」
言われてみれば、大通りには店や施設しかない。
そして俺のアパートも祖母の住まいも、小道の先にあった。
杉風理事長は、そうすることで住民の人数の変化にも対応しやすいからだと補足する。
「そして、それぞれの住居の裏にある“森”だが……。
あれは、そういった曖昧な空間を調整するための場所だ」
必死に頭の中で空間を描き、理解しようとする。
「本来なら、行きたい場所へショートカットで繋げてくれる空間なんだ」
俺は首を傾げる。
俺が入ったのは、迷路のようなよく分からない空間だった。
「俺たちが入ると、過去に繋がりますよね?」
百代がポツリと呟く。
理事長はその言葉に少し首を傾げる。
「うーん。過去というより、記憶の中。
もしくは、深層心理の世界に近いのかもしれない。
君たちの場合は」
そう言われて腑に落ちる。
だからあの場所は、脈絡なく場所が繋がり、よく分からない世界になっていたのか。
「ならば、ずっと聞こえる電子音は何なんですか?」
なぜか三人に不思議そうな視線を向けられる。
「電子音って、どんな?」
百代には聞こえていないようだ。
「え? ピッ、ピッ、ピッっていう感じでリズムを刻んでいる音。
あと、時々、話し声とか泣き声も聞こえる」
百代は考え込んでいたが、顔を上げる。
「それ、生体情報モニターの音では? つまり現実世界の音」
確かに、祖母の病室で同じ音を聞いた事を思い出す。
俺たちの会話をじっと聞いていた杉風理事長が、俺に視線を向けてくる。
「戻れる確証はないが……
一つ、試してみないか」
理事長は柔らかく微笑んだ。




